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始まりは衝動と共に

 終業式が終わり夏休みを控えた教室は開放感と熱気で満たされていた。周りを見渡せば暑さに制服を乱れさせた生徒たちが競うように大きな声で夏休みの予定を口々に話している様子が見て取れる。


 そのような輪に入ることなく窓から身を乗り出しスマートホンの画面越しに空を眺めている男子生徒がいた。暑いのにノリの効いた白いシャツ、ネクタイを緩めることなく身に着けている。しばらくすると目元を覆う髪を無造作に払った。現れた瞳は強く集中していることを窺わせる。


 ベランダに身を潜め、下から男子生徒を見上げる女子生徒。制服のブラウスの胸元を開け放ち、肩辺りまで伸ばした髪を染め、軽く化粧をしている。これから起きるであろうことに頬をゆるませ悪戯っぽく微笑んでいる。突然跳ねるように立ち上がった。


「うわっ」


 声を上げへたり込む男子生徒。


 無邪気に指を指して笑う女子生徒。


 男子生徒は言った。


「な、なんだよ、美晴か。ビビらせんなよ。っつーか人の教室に勝手にくるなよ」


「は? 別にただ立ち上がっただけですけど。それにベランダは廊下と一緒でクラスとかカンケ―なくつかっていいんですけど。それより立てばぁ? ほんと、颯太ってヘタレだよねー」

 

「やれやれ。っていうか俺はヘタレじゃなくて危機へのリアクションがメッチャ早いだけ。お前のせいで」


「どゆこと?」


 立ちあがり大げさに肩をすくめてみせた。だが視線はチラリとひとさし指を唇にあて首を傾げる美晴の胸元を見ることを忘れない。汗を掻き湿っているからか下着が透けて見える。


想いを隠して軽く肩をすくめてみせた。


「やれやれ。説明が必要なのかもしれないな。いいか。トラウマなんだよ。お前んちのプールで突きとばされたの。俺、あれでケータイ壊してメッチャ親にキレられた。しかもお前のこと助けてるとき思いっきり蜂に刺されたし」


「は、なに言ってんの。あんたが暑いから涼みてえとか言うから学校の帰りにうちのプール使わせてあげたんじゃん。んで、ズボンまくってプールに足入れて涼んでたんでしょ? 蜂が止まってるよって教えてあげたようとしただけなのに、勝手にパニクッてプールにおちたんじゃん。しかもあたしも巻き込むし」


「あんな風にプールサイドでうしろから触られたら誰でも落とされると思うって。俺、あれから人に近づかれるとつい身構えちゃうんだってうまく話せなくなっちまったんだからな?」


「っていうかさあ、あたしにはフツ―に喋るじゃん。高校で友達つくれなかったのあたしのせいにしないでよ。なにか部活に入ればよかったんだよ。あ、和也だけ一高いちこう受かっちゃって、試合とかで会うのが嫌だったからとか?」


「別に…… 大学受験は失敗するなって部活とか禁じられて親に塾に行かされてるだけだよ」


「颯太のママ、怖いもんねー。大丈夫なの? 期末も中間もランキング圏外じゃん。通知表見せるんでしょ?」


「うるせえよ」


 低い声が出た。


「あ、ごめん……」


 しおらしくうつむく美晴の目の前で手のひらを振る。顔を上げた美晴としばらく見つめ合う。


「悪い、言い過ぎた」


「別に、いいよ。颯太がママイジリされるとキレルの知ってるし。昔からじゃん」


「じゃあ、言うなっての」


「いいじゃん、したくなっちゃったんだから。それよりさ……」


 美晴は周囲に目を配ると顔を近づけてきて小声で囁いた。


「ねえ、去年の今頃だよね、和也がいなくなっちゃったの。元気かな?」


「知るかよ。俺にだって連絡ねえし」


「ちょっと一緒に思いだしたくなっただけじゃん。なに、怒ってんの?」


「別に。怒ってねえし」


「あ、そ。 でもさあ、あいつせっかく一高イチコー入れたのにもったいないよね。でも、辞めるくらいなら受験しないでうちらに譲れっての」


「なに言ってんだよ? 茶髪のまんま高校受験したくせに。本気じゃなかったろ? お前。っつーか、いい加減、みんなのところに戻れよ。ダンス部のお前と底辺の俺が喋ってるとうちのクラスの秩序が崩壊する」


「気にしすぎだって。誰もうちらのことなんか気にしてないよ」


「さっきからジョックスの皆様が俺を殺しそうな目で見てるんだよ」


「なに? ジョックスって」


 答えずに記憶をなぞった。

 

 高校入学当初、カラオケに行くというクラスメイトたちについて行った。歌い疲れ歌う者がいなくなったころスマートホンで撮影した歌う姿の動画を見せた者がいた。各々スマートホンの画面を披露し始める。颯太が歌う姿を再生した者がいた。素直な気持ちが無邪気な言葉として現れた。


『あれー? お前のスマホおかしくね? 俺の声、その動画の声と全然ちげーんだけど』


 他の者たちからも反論が続く。


『いや、全然同じだし。つーか、自分で聞いてる声とみんなが聞いてる声ってちげーの知らねえの? ああ、だから音痴なのか。お前』


『つーか、みんな引いてたの気づけよ。お前の音痴っぷりによ』


『あー。お前、カラオケ来るの初めてか? どんな中学時代だよ? ダンス部の竹本美晴と同中オナチュウだったくせに。ダッサ』


 クスクスと笑う女子生徒たちの視線が怖くて俯いた。


 その者たちは現在、教室の中心で聞こえよがしに泊りがけの旅行の打ち合わせをしている。


 意識して笑顔を作り美晴に言った。


「別に知らなくて済む言葉は知らなくていいんだよ」


「ま、いいけどさ。あんたは夏休みが終わったらちゃんと学校来なさいよ」


 微かに間があった。


「当たり前だろ」


 美晴は颯太の顔を覗き込む。


「いま、ビミョーに目ェそらしたでしょ?」


「は? そらしてねえし」


「ま、いいけどね。あんたの人生だし。たださ、和也みたいに何も言わないでいなくなっちゃのは止めてよね」


「書置きがあったんだろ? 家を出て一人で生きていくって」


 腕を組んで美晴はため息をついた。


「だ、か、ら。そうする前に相談しろっての。佐山さん、どんだけ傷ついたと思ってんの? なんでも言うこと聞いたのに、大切なことは何も相談してくれなかったって、大変だったんだから」


 楓太は絶句した。その顔は夏の暑さとは切り離されたように蒼白で、こめかみを流れる汗をそのままに目を見開いていた。言葉が頭の中でぐるぐると回りだす。


『嘘だろ? 佐山さん、去年の夏、俺が告ったら、まだ高校一年生だから恋愛なんて考えられないとかって言ってたよな? え? あの頃? あの時にはもう和也の言うこと何でも聞いてたの?』


 小首を傾げ人差し指を唇にあてながら美晴は思いだすかのように話した。


「あれ? 聞いてなかった? あの二人付き合ってたんだよ。中三の夏から。ずっと和也のことが好きだからさ、だからほら、中三の時の夏にセッティングしたんじゃん。みんなでモールに行ったんでしょ? あたし、お腹壊していけなかったけど」


「あ、ああ、そうだったな。うん。もちろん知ってたっての。最近、会ってないからすっかり忘れてた。それよりほら、俺、ちょっと行くから。じゃあな」


 鞄を掴み立ちあがり歩みだす背中に美晴の声がかかった。


「屋上なら今日はもう鍵がかけられてるはずだよ」


「別に、帰るだけだよ。このままここにいても何も変わんないから」


 午前の日差しが振り注ぐ通学路を駅に向かって歩く。美晴から和也と佐山の肉体関係について知らされた。頭の中はそのことばかりで埋め尽くされてしまう。


 ふと思い立ち空を見上げた。水の中に白い絵の具を垂らしたように、青空を白い雲が染め始めている。スマートホンで撮影してみた。角度を変えたり明るさや色、彩度を調整して何度も撮影した。撮影を終えて画像を確認しているときだった。


『集中してると二人のこと考えなくてすむんだな……』


 そう思ったとたんに胸を絞めつけられる。頭には和也と佐山の姿が浮かぶ。辺りを見わたすとゲームセンターの看板が見えた。そのまま入口に歩み寄る。誘い入れるように自動ドアが開いた。


 自販機でコーラを購入するとちびりちびりと飲みながら平日午前の人気のないゲームセンターをうろつく。大してやる気もないのに財布からプリペイドカードを取出し目に付いたゲーム機の前に立つ。初めてプレイするゲーム。銃を模したコントローラーを使いゾンビを撃ち殺していくシューティングゲーム。


 考えることを止め、醜いゾンビを銃弾で屠っていく。ときどきゾンビの顔に和也の顔を重ね合わせた。プリペイドカードの残金がなくなるまで続けた。映像が切り替わる一瞬、画面がブラックアウトする。自分の姿を反射した。顔を隠すような伸ばしっぱなしの髪。その隙間から今にも涙をあふれさせそうな瞳が見える。


 気が付いた。一番、屠りたいのは自分だ。銃口を向けた。引き金を引く。ただゲームのムービー映像が現れただけだった。


 首を振りコントローラーを置く。しばらくゲーム機のホルスターに収められた拳銃型のコントローラーを見つめた。グリップの底辺りを見ていた。


『しまい込まれて誰にも使われないピストルに存在理由なんてあんのかな?』


 そう思うと突然、体中から力が湧きだした。動かずにはいられない。考えずにはいられない。とにかくゲームセンターから出た。駅ビルが見えた。かつてその中のアウトドアショップで買い物をしたことを思いだした。やるべきことがわかった。


 アウトドアショップにずかずかと足を踏み鳴らして猛進した。目に付いたバックパック、寝袋、テントをレジカウンターに持っていく。親に与えられたクレジットカードを財布から取り出した。

 

 手が止まる。ヒステリックに怒鳴り散らす母親の顔が頭に浮かんでいた。体が固まる。歯を食いしばった。強くひと息吐く。気合を入れて財布からカードを引っ張りだした。


 店員は何ごともなかったかのように会計を済ませた。


 購入した品物を自宅のある駅のコインロッカーに隠す。部屋を整理し荷物を準備した。素知らぬ顔でいつもの通り、家政婦の給仕を受けながら食事を済ませた。通わされている塾へ行く時間になるとわずかな着替えを鞄に積めた。駅につくとコインロッカーに仕舞ったバックパックに荷物を積め直し再びしまった。


 塾の授業にはいつも通り出席した。いつもならただ座っているだけの、ただ時間が過ぎるのを待ちわびる時間。それがこれから始める冒険を夢想しているうちに瞬く間に過ぎた。


 家に戻ると家政婦から着替えとタオルを受け取り風呂にはいった。湯船につかりながら鼻歌を歌う自分に気が付いた。


 部屋に戻り、和也を真似た置手紙を書き終えた。そのとき鳥の囀りが聞こえた。カーテンを開ける。日が昇り始めていた。そのことに気が付くと何かに導かれるように服を着替え、照明をつけることなく、静かに階段を降り、靴を履き、そっとドアを開け、慎重に閉めるた。門扉を空け自転車のロックを外した。自転車にまたがり行き先も決めずにペダルを踏み込んだ。


 『俺はなんでもできるし、どこまでもいけるし、だれにだってなれるんだ』


 旅に出た直後は本気でそう思っていた。


 荷台に大きなバックパックをくくりつけたマウンテンバイクを、月の光も当たらない湿った空気がまとわりつく夜中の田んぼの中の一本道を小さなライトを頼りにふらふらと進ませていた。


 他に光は車のライトも民家の明かりも街灯ですら見当たらない。道の脇に拡がる田畑も夜更けの今は黒く染まって底知れない。背後に何かの気配がまとわりつく。気のせいだと呟いたところで廻すペダルは止められない。


 着ている白いTシャツは夕方に着替えたものだと言うのに襟首は汗の重みでたるんでいる。薄い背中はペダルを踏むたび右に左に揺れた。


 自転車で全国走破の旅に出たのは今朝のこと。床屋に立ち寄り伸びた髪を短髪に刈りあげた。鏡に映る己の姿にこれから始める冒険に武者震いを一つ。出会いと別れを繰り返し、和也を超える男となって佐山の前に現れる、そんな未来の自分を夢想する。


 節約と冒険心から野宿をしようと決めた。テントを張ろうとした公園で警察官が寄って来る。相手をするのが面倒で荷物をまとめて移動した。人気ひとけのない空き地を見つけて中に入ってみると、いつの間にやら野犬の群れに囲まれる。危険を感じ野犬を刺激しないように目を合わせずにうつむいてあとずさるように立ち去った。


 そんな事を繰り返し、やがて夜が更け周りを見れば暗闇だけがそこにある。薄気味悪くて止まることもはばかれた。あてもなくペダルを漕いでいる。すると遥か先に小さく光を放つ建物が見えた。れる想いでたどり着いたのはコンビニだった。


 コンビ二の駐車場に入る手前で様子を窺う。広い駐車場に圧倒された。体育館を思わせる広さと高い柱に取りつけられた眩しいライト。どちらも見たのは初めてだった。


 一つ選択を迫られた。どこにテントを張るか考える。左右の側面を見比べる。ライトに照らされ明るいがわと陰となり見通しが効かないがわ。明るい側には物置と屋根付きの駐輪場と裏口と思しきドアが見える。


 店員に見つからないことを祈りながら駐車場を大きく回る。選んだのは陰の方。邪魔をされずに寝たかった。陰の中の奥まで入り込み壁に沿わせて敷いたマットの上に寝袋を拡げた。倒れるように横になる。がれた眠りが訪れかけた。


 邪魔された。重低音のリズムとまくしたてられる言葉の大音量。近づくそれは騒音だった。


 寝袋から這い出て陰から覗く。騒音の正体が目に付いた。大きな四輪駆動の自動車が駐車場に入ってくる。コンビニの入口前に横づけされた。大きなフロントバンパーの迫力に目を奪われる。やがて四人の若者が降りてきた。


 四人はピンストライプの野球のユニフォームを羽織っていた。顔の下半分は黒いバンダナで覆われている。その手には金属バットや木刀、さらには日本刀までもが握られている。中には立ち止まり顔を巡らし周囲の様子を窺う者もいた。


 思わず影に隠れて口を抑える。音楽が止められた。静寂が訪れる。


 うるさい程に胸の鼓動が高なった。


  若者たちの姿を思い返す。揃いも揃って背が高く体格がよかった。そのような者が日本刀やバットを手にぶら下げている。しかも一人は警戒していることも明らかに周囲を見渡していた。


 戦うことも逃げ切ることもできないであろうことは想像できる。そしてなにより体力も限界に近かった。尻も痛み、腿は張り、腹も空いている。彼らが立ち去るのを祈るしかできなかった。やがて警察官の姿が頭に浮かぶ。這うようにバックパックに取りつきスマートホンを取出した。握りしめ落ち着こうと深呼吸をする。彼らが話している声が聞こえる。意味までは理解できない。ただ険悪な雰囲気が段々と緩和していくのは感じ取った。 


 そして耳に馴染んだコンビ二の自動ドアが開かれるメロディが響く。呪いが解けたかのように体は素早く動き始めた。刃物や鈍器を持っている体格の良い若者たちと関わった不幸な未来の自分の姿が頭に浮かぶ。恐怖に行動を後押しされた。寝袋とマットを丸めバックパックに適当に放り込む。自転車に跨ぎコンビ二の影から様子を窺った。


 女の姿が目に入る。コンビ二の入口よりも向こう側の壁際、駐車場のライトとコンビ二から漏れる照明のはざまで薄暗い場所に女はこちらに背を向けて立っていた。背が高く手足の長い細身で黒のパンツ―スーツ姿が映える。頭が揺れると黒髪とシャツの襟の隙間からうなじが現れた。片側だけその輪郭を覗かせていると耳とあわせてその白さに目を引かれる。


  髪の輪郭を青白い光がぼやかしていることに気づく。通信端末の画面を見ていると思い至った。 悩ましい問題を突き付けられる。女に声をかけるかかけずに去るか。


  それが問題だった。


  一人で逃げたら女が無事だったとしても若者たちに襲われたかもしれないという疑念がつきまとう。そしてこの場を去ればそれを確かめる方法は永遠に失われる。気にしなければいいとは思っても気にしてしまう性質たちであると強い自覚があった。


  危険を伝えようと声をかけてみてもまずは自分自身が怪しまれることが想像された。暴漢とまでは言わないまでも誘いが下手な軽い男と誤解を招くと思われた。そして話を碌に聞いてもらえぬうちにうちに若者たちが現れたとしたら。


  揉め事に巻き込まれて怪我や死んでしまうのも、何もできずに女が危険な目に居合わせることも、あの時声をかけてればと悔やみながら人生を続けることも恐ろしくてたまらなかった。


  『クソっ。俺がこんなにヘタレだったなんて。ああ、そうだよ。和也に張りあおうってのが間違いだったんだ。でも、あの人があいつらに襲われたら可哀想だし。でも俺に何ができるんだよ。そうだよ何もできないよ。どうせ俺は和也じゃないし。 いやでも、あの人可哀想だろ? ああ、もうっ、どうすりゃいいんだよっ!』


  考えは閉ざされた円環の中を繰り返し回り続ける。結局、その場にいた。何も決断できなかっただけだった。


  警察に連絡を取れるようにと通信端末を手に握りしめ陰から覗き続けた。女は通信端末を耳に当て何やら会話をしているようだった。


  しばらくそうしていると、やがてコンビ二の自動ドアの開閉を報せるメロディが流れた。若者たちが現れる。コンビニに持ち込んだ武器の類を脇の下で挟み持ち、両手にはコンビニの袋一杯に詰められた食料と飲み物を持っていた。笑い声を漏らしていたが女の後ろ姿を捉えると誰からともなく頷き合った。


  二人が黙って手に持ったコンビニ袋と武器を残りの二人に預けた。預けられた二人は黙って車に乗り込む。運転席と後部座席。車のエンジンが唸り始めた。ハッチバックのドアが開かれる。屈強な者たち二人は日本刀を構えじりじりと女との距離を詰めていた。


  少年は陰に体を引っ込めると逸る気持ちを抑えて一一〇番に電話をかけた。呼び出し音が続く中、車のナンバー、車種を確認しようとコンビニの陰からそっと顔を覗かせる。ナンバーは外されていた。


  確認するとすばやく闇にその身を潜めた。苛立ちまぎれに爪を噛みながら痛いほどに通信端末を耳に押し当てる。通話中を伝える信号音が聞こえてきた。通信端末の画面を目を凝らして見つめる。圏外の表示に気が付いた。


  通信端末を強く握りしめ腕を大きく振った。腕が痛むほど繰り返す。祈る気持ちで改めて画面を見みつめる。変わることなく圏外の文字が目に飛び込む。天を仰いで助けを求めた。


  『神様! ホントにいるなら何とかしてよ!』


 そのとき、何か固い物がアスファルトに落ちた音が響いた。


 音の正体を確かめようと顔を出した。ピンストライプの服を着た若者二人が目に入る。倒れていた。靴底の白さに目を奪われた。目線を上に移していく。手には握りしめたままの日本刀。背番号には赤黒い不均等な太さのストライブ。視線を感じ、恐る恐る目を向ける。血溜まりに転がる生首と目が合った。


 尻もちをついて両手で口を抑える。何が起きたか理解できない。現実感がまるでない。耳を突く音で視線が移る。転回している車に気が付いた。急ブレーキの音だと合点がいく。エンジンが吠えタイヤが鳴った。少年の前を掠めるように、コンビ二のガラス面に沿って駆けていく。ヘッドライトの先にはパンツスーツの女がいた。


 女の右手の日本刀はまだらに赤く光を放ち、片目を隠す黒髪は花を愛でるように頬に散った血を撫でた。そのまま女は眩しそうに眉根辺りに左手を掲げて見せると中指を天に突き立て片目をつぶり舌を見せつけ嗤った。迫りくる車をひらりと躱す。車はそのまま駆け抜け、その先で止まった。


 慌ててコンビ二の影に隠れた。逃げることも助けを呼ぶことも叶わない。ただ震えた。かつて人間の頭であったものを見てしまった。大型の四輪自動車は人間の生首などものともせず踏み越えた。それは水を詰めた風船の破裂を想わせた。周囲に拡がる水しぶきは当然赤い。


 胃袋がせりあがってくる感触。食道を這い上がる熱い空気。口中に拡がる苦味。それらを味あわされ続けていた。吐きたかった。だが胃袋にはなにもなく、音を立てるのは憚れる。


『と、とにかく、み、水だっ。落ち着いて、静かに、音を聞かれないようにっ!』 


 勢い余ってペットボトルのキャップを落とす。落ちた音に体が硬直する。そのまましばらく静止していた。段々と落ち着気を取り戻すとコンビ二の外壁にもたれて座り、足を投げ出していた。舌にこびりつく臭いをどうにかいしようと改めて瞼を閉じペットボトルに口をつける。その瞬間、聞こえてきたのは女の声。


「畑野君。見ぃつけた」


 思わず両手で頭を覆った。足を引き寄せ丸くなって転がった。水を飲むことも吐きだすことも目を開けることすらできない転がったペットボトルからこぼれた水が下着を濡らし始める。


「そんなに怖がる? フツ―。約束の時間になっても来てくれないから心配しちゃった」


 精一杯、首を横に振る。女がしゃがみ込む気配があった。膝と肩に手を置かれる。


「どうしたの? 怖くなっちゃった? 大丈夫。私たちがあなたを護る。約束するから。さあ、立って。一緒に安全な場所に行きましょう」


 ゆっくりと頭を覆う腕を外した。女の顔を見上げる。薄暗くて表情は良く見えない。だが瞳の位置はわかる。一つしか見えない。気づいて声をあげた。


「ひっ、妖怪っ」


「え? なにそれ? ちょっとひどくない?」


 発音に馴染みがあった。幼馴染でクラスメイトの美晴のものと似ている。この世ならざる者とは到底思えない。


 落ち着いてみると髪が片目を覆っているだけであることに気が付く。言葉が通じる相手であることを確信した。震える声で告げた。


「あ、あの俺、た、た、立原たちはらです。立原楓太です。畑野君じゃなくてすいません。でも、あの、俺、何も見てませんから」


 女は咳払いを一つ。そして言った。


「よし。ならば両手を頭に載せて寝転べ。腹を下にしろ」


 全力で言われた通りにする。顔にライトを当てられた。咳払いが聞こえる。耳を塞ぐように言われ従った。どれくらい時間がたったかわからない。軽く背中を叩かれた。


「質問です。仇討ちの刑って聞いたことある?」


 頷く。


「今ね。それやってるとこ。キツイ、キタナイ、キケン、の3Kにキル、キラレル キガクルウの3K。合わせて6K仕事って言われてる奴。わかる?」


 頷く。


「畑野君。私の言うこと聞いてくれる? でないとあなた死んじゃうよ? ここでは死人に口なしが当たり前なんだから」


「え?」


「だって、いまここで仇討人と用心棒が殺し合ってるんだもん。仇討の刑、執行中。知ってて入ってきたんでしょ?」


 何度も首を横に振る。


「はい。ここまで聞いてもらってからまた質問。ところで君のお名前は?」


「は、は、畑野でございまぁすっ」


 女は手を打ち鳴らして笑った。そして告げた。


「私は中村カレン。よくいる仇討人の一人。よろしくー」


 そう言うと前髪を掻き上げた。現れた二つの眼は笑っている。


 カレンと颯太は二人連なって歩いていた。四駆の車に向けてゆっくり動く。カレンは踵の低い黒のパンプスのみ。他は全裸だった。


 カレンの後をついて行く楓太は黒のバンダナで顔の下半分を覆いカレンに持たされた日本刀を手に歩く。日本刀など持っているだけで恐ろしく、重たい。こんなものを振り回す気になどなれず存在を忘れたかった。自然と目は別の場所に向く。


 左手のオレンジ色の液体で満たされた野球のボールほどのッカラーボールを見つめる。コンビ二や金融機関に設置してある犯罪者に投げ付けてインクで印をつけるためのものだった。


 カレンの説明は単純だった。


『それを持って私についてきて。私が後ろに手を廻したらカラーボールを渡すこと。それから日本刀を置いて全力でできるだけ私から離れること』


 目的の説明はなかった。ただ復唱させられた。カレンが手の動きに集中しよう、話を聞いたときは素直にそう思っていた。だが、どんなに気をつけても勝手にカレンの尻に視線が吸い寄せられる。


 靴紐を直すふりをして見上げようかどうか検討を始めている自分に気がついた。自己嫌悪が始まる。


『こんなときにそんな事しか考えないなんて。命がけななのに。サイテーだな。俺。カレンさんが脱いだのもなにか事情があったはずなのに……」


 エンジン音が高鳴った。反射で体が止まる。


「ボールっ!」


 差し出された手にカラーボールを手渡した。日本刀を置いて全力で駆けだした。カレンから離れ際後ろを振り返る。現実とは思えない程ゆっくり見えた。カレンが放ったオレンジ色のカラーボールはヘッドライトを受けてオレンジ色の光を反す。


 車のフロントガラスで破裂するオレンジ色のインク。日本刀を構えて車と対峙する白く浮かび上がるカレンの裸体。刹那通り過ぎる車がカレンの姿を隠した。再び現れたカレンの体は大半が赤く染められていた。うっすらと上気して湯気が漂う。桃色に火照る頬。驚くほどに鮮明に瞳に焼き付けられた。


「ビッグバン……」


 自分が発した言葉。他人事のように聞いた。後に全力で駆け抜けた。足がもつれて転んでしまった。誰かの叫び声を背中で聞いた気がした。轟音と地響き。地震かと思った。頭を守って地面で丸まり瞼を閉じた。


 カレンはコンビ二の壁に激しく突っ込んだ車内を覗き込む。エアバッグはしぼみ、運転席の若者が瞼を閉じている。楓太に駆け寄り頬を両手で持ち上げ目を見つめて告げた。


「まだ終わってないからね。しっかりして。ついてきて」


 楓太の手を引きコンビニの裏手へ周った。囁き声で命じる。


「私、奥で服を着るから。誰か来ないかあっち向いて見張っていて」


「はい」


 同じく囁き声で答えコンビ二の影から顔を出す。束の間の逡巡のあと振り返った。地面に置かれた小さなライトがカレンの足と尻と背中を薄ぼんやりと照らし出している。


 カレンの背中に描かれた大きな翼が目を奪われる。返り血を拭い下着を履き、シャツに袖を通し、パンツスーツを履く。上着を羽織る。振り返る気配を感じ慌てて顔を背ける。


「見てたでしょ?」


 耳元で囁かれた。体が跳ねる。


「い、い、いえ。見てません」


「別にいいわよ。さっきからずっと見られてたんだし。今さら。怒ってないから正直に言って」


「い、いえホントに見ちゃいけないと思ってたんで。さっきだって地面ばっかり見てましたから」


「そう? やっぱ胸が小さい女は興味ない?」


「む、胸は見てないからわかりません。で、でもキ、キレイです。笑顔が素敵でした。それに俺、なぜか子供の頃からブラックホールの中が気になってしょうがなかったんですよね。なにがあるんだろうって」


「え? ブラックホール? 宇宙にあるやつ?」


「いや、だから。おっぱいは女の人に育ててもらう赤ちゃんのためにあって、ブラックホールは探索に命を掛ける俺のために存在する。そういうことです」


「なんだかよくわからないけど…… 胸が小さいことにくよくよしないで宇宙とか空を見ろってこと? ねえ? 大丈夫? やっぱりさっきの、君にはショック大きかった?」


「大丈夫です。俺のビッグバンが始まった。ただそれだけです」


「そう……なんだ……」


「そうなんです」


 力強く言いきる。


「あ、あ、ありがとね。とりあえず協力してくれて。 ところで私、臭わない? さっきので汗かいちゃた」


 目を見開く。においをかぐ仕草をするべきか迷った。口をついた言葉はこれだった。


「ちょ、ちょっと。水飲んでもいいですか。」


 地面に転がっていたペットボトルを拾いあげ、水を軽く口に含むとうがいをした。カレンの目が気になりその水を飲み込む。気がつくと鉄と血と油の匂いのなかに、わずかに柑橘類の香りを感じたている。思わず言った。


「いや、レモンみたいないい匂いがしますよ?」


「そう? じゃあ背中のペイントは? 汗で流れてたりしてない? 天使の翼の奴があったでしょ?」


「ええ。落ちてませんでした。すごいですよね。あれだけのことやって汗一つかかないなんて」


 カレンは笑顔を見せた。低い声で囁かれた。


「ほら。見てたじゃん?」


「あっ、いやっ、そのっ、これには訳が・・・・・・」


「あ、そう。ま、いいわ。でもね」


「は、はい」


「今度ウソついたら殺しちゃうぞ?」


 人差し指を立て、小首を傾げ、可愛らしいカレンの笑顔。だがその目は笑っていない。


「す、すいません。もう嘘つきません」


「反省してるなら許す」


 頭を撫でられた。思わず顔を上げるとカレンが小型のマイクとイヤホンが一体となった通信機器を装着しているのに気が付いた。


「松川さん。吉田たちはまだ畑野と交戦中ですか?」


 カレンはそう言うとイヤホンの声に耳をすます。聞き終えるとマイクに告げて言った。


「松川さん。吉田の馬鹿に伝言願います。生け捕りに出来ない程の相手なら私を待つのが基本だろうが。あんたはあんたのできることにベストを尽くせ。この野郎。言い訳は聞かない。以上です」


 通信を終えるとしゃがみ込んで俯く楓太の肩を軽く叩いた。


「もう少し時間かかるからちょっと話そっか?」


「な、なんですか?」


「とりあえず身分証ある? 免許とか保険証とか」


「どっちも持ってないです」


「そっか。あとで私の上司が詳しく聞くから正直に答えなさいよ」


「はい」


「でも何でここにいたの? ここの前の道路は通行止めになってたでしょ?」


「い、いえ。特に気が付きませんでしたけど」


「そう。悪いけどリュックの中身見せくれる? ここに全部並べて」


「はい」


 楓太は荷を解き地面に並べる。見逃せない物が出てきた。望遠レンズがセットされた一眼レフカメラ。


「ねえ、すごいカメラとかあるけど何に使うの」


「あ、記念写真とか……」


「へー、スマホじゃだめなの?」


「やっぱりキレイに撮れるから」


「これ、どうしたの? 高かったでしょ?」


「バ、バイトして……」


 上目使いの颯太を見ながら薄く笑って首を傾げた。


「じゃなくって、高校の入学祝いに親に買ってもらいました」


「ふーん。お金持ちなんだね」


「いや、ただ一人っ子なだけ……」


 今度は瞼を少しあげて首を傾げた。


「じゃなくって、金持ちです。たぶん」 


「そっかあ。ところでさあ」


「は、はい」


「君がここにいることは誰か知っているの?」


「お、親に。さ、さっき電話でここにいること伝えましたから。もう大丈夫です」


「え? 電話通じた?」


「あ、すいません。間違えました。伝えようとしたけど圏外でつながりませんでした」


 カレンはまたもや頭を撫でる。


「はい、よくできました。素直でいいね。君は。ところでスマホ見せてくれる? あとそのカメラの写真もね。最後に写真撮ったのいつ?」


「夕方です」


 カメラと通信端末に記録されている映像を再生して見せるとカレンは言った。


「あんまりないね。私のスマホ、写真一杯だよ?」


「あ、いのしか残さないから」


「君、写真部なの」


「いえ、全然、ただの帰宅部です。だから下手くそなんですけど……」


「そっか、君も帰宅部か…… ま、いいや。ちょっとスマホ貸して」


 カレンは颯太からスマートホンを受け取ると画面はタップしてみた。何度か繰り返す。映し出される画像は全て空の写真だった。朝焼けから星空まで網羅している。そしてその写真は確かに美しかった。ただ肉眼で見る自然の美しさには敵わないとも思った。そして五年前の夏の写真にまつわる会話を思い出す。


 中学二年生だった。たまたまクラスメイトの少年と放課後の教室に居合わせた。夏休みを控えた前日の夕暮れ時、周りには誰もいなかった。何度か話しかけても上の空で少年は熱心に窓を開けて空の写真を撮影していた。思わず問うた。今になって思えば強い言い方だったような気もする。


「あれ? 写真部だったけ?」


「いや、全然。っていうかお前と同じバスケ部だったんですけど」


「いや、最近練習出てないからさ。部活変えたのかと思ってた」


「変えたって言えば変えた。帰宅部に。いろいろ忙しいからバスケ辞めた」


「ふーん。辞めちゃったんだ。で、写真を撮る暇はあるんだ?」


「暇だから撮ってるんじゃねえっての」


「じゃあ、なんで撮ってんの?」


「写真は時間を止めるだろ? 知ってるか? デジカメって百年経ってもその画像はそのまんまなんだって」


「ふーん。言われてみればそういうもんかもね」


「で、俺は思ったわけだ。百年後の人が俺が撮った写真を見てさ、笑ったりしてくれたらさ、それって、なんかすごくね? それって俺が百年後も生きてるってことになるんじゃね?」


「いや、ならねえし。だってその人のリアクション見れないっしょ?」


「でもその人がリアクションすんのは俺の力だろ?」


「まあ、そうだけど……」


「なあ、お前が言った感じじゃなくてさ…… マジで百年とか千年とか生きてられたらどうする? もちろん若い体のまんまで」


「若い体ってなんかエロい」


「そう言うお前がエロいんだべ? で、どうする? そうしたいか、したくないかって言ったら」


「うーん、でもそれってみんなと一緒に長生きできんの?」


「いや、いつかは一人になっちゃうな」


「じゃあいい。一人で生きてもしょうがないし。っていうか、そんな話ありえないし」


「だよなー。ありえない話になにマジになってんだろうな? 俺。たださ……」


「ただ?」


「運命とかを勝手に決めちまう神様とかいるんならぶっとばしてやりてえよな」


 虚空を見つめ真顔を見せていた少年は目が合うと照れたように笑った。気が付くと二人は見つめ合っている。彼の言葉の意味よりも彼の瞳に自分が映ることの方が重要だった。


「二人で何やってんのー。早く帰ろうよー」


 教室の扉を叩きながらバスケットボール部のチームメイトが大声を出した。


 それ以来、少年とは会っていない。夏休み明けに彼は転校していた。二学期の始まり、彼の転校を教師が告げると朝の教室でチームメイトは人目もはばからず泣いた。転校について聞かされていなかったのは自分だけではないのだと安堵した。


 少年にとって転校がいい話であることを心置きなく祈った。


 なぜか目の前にいる楓太の顔にどことなくその少年の面影を感じた。そして、目の前の少年の名前がかつてのクラスメイトと同じ楓太であることに思い至る。


「ねえ、どうして空ばっかり撮ってるの?」


 思わず尋ねた。


「え? あ、いや、言ったってしょうがないし……」


「いいじゃない。教えてよ」


「あ、空を見てると嫌なこと忘れられるから。それでちょっと楽になれるから……」


「あ、そう」


「あ、詰まんない答えですいません」


「別にいいよ。ま、同じ答えのほうがなんかキモイし」


「キモくてすいません」


「別に君のことじゃないから」


「でも、いろいろ迷惑かけてるから、俺。すいません」


「似てるのホント見ためだけだなぁ」


 呟きコンビ二の影から駐車場を覗く。振り返り楓太に告げた。


「それじゃ、私、悪魔に嫌がらせして来るから。コンビ二の中に入っちゃって。一人で行けるでしょ?」


 背筋を伸ばし顎を引きゆっくりと歩き始める。頭から初恋の少年の姿は消えていた。


 車まで戻り運転席の窓から若者の様子を観察する。大きな外傷が見られないことや呼吸が安定していることからしばらく放置しても問題ないと判断した。空気を漂う血の匂いが強まった。動く人の気配を感じる

 振り返ってみるとその大半を血で染められたピンストライプの野球のユニフォームを羽織った若者の死体が三人の男達に運ばれている。男達はその若者を駐車場に転がすとコンビ二に戻っていった。そのあとをついて立原楓太がコンビ二に入って行く姿を確認した。


 運転席の窓から若者に声をかける。


「ちょっと。そろそろ起きなさいよ。大した怪我してないでしょ」


 若者の反応は無い。


「起きろよ。この人殺し」


 ドアを蹴り飛ばす。


 力なく呻く若者に続けた。


「アンタなんかと話したくないんだけどさ。仕事だから。喋んなくていいから。言われたことしてくれればいい」

 

 若者は目を閉じたまま軽く顎を引いた。。


「えーとゲームセット。午前0時47分。受刑者畑野秀樹の死亡により今回の仇討ちから仇討ち代行チーム、リセッターズのメンバー全てと畑野の用心棒全て。その任を解かれます。左手の人差し指でいいんだけど捺印してくれる?」

 

 胸ポケットから通信端末を取り出すと若者に見せた。


「真ん中に指のマークがあるでしょ? そこに左手の人差し指で押してくれればいいはずだから」


 若者はしばらく身じろぎしなかったが呻くように言った。。


「ハズって…… ハンコを書類に押す」


「面倒掛けないでくれる? はずって言うのは言葉の綾よ。私こういうの初めてだから」


「そんな奴に指紋の採取されたくない。書類に判子でもいいはずだったろ?」


「はい。はい。別にそんなんじゃないってのに。いま用意するわよ」


 そう言い残してコンビ二に入る。事務所で上司の松川に事情を説明するとクリップボードを持たされた。若者に全部自分で読ませて判子を押させればいいと説明を受けた。早足で車に戻り若者につきつけた。


「これ全部よんで判子押しちゃって。免責事項も書いてあるからちゃんと読んで。あとで知らなかったじゃ通らないから。私に聞いても説明できないからね。こういうの初めてだから」


 若者はクリップボードにつながれたペンライトに気が付く。それを用いて時間をかけて書類を読むと捺印した。クリップボードを受け取り判子の押し抜かりがないか複数枚の綴りになっている書類に目を通す。初めてのことをして不安が胸にもたげた。ふと見ると若者は精一杯の意思表示なのか強い眼光で睨みつけていた。腹が立つ。頭に来た。言ってやる。


「ところで後ろに変わった荷物おいてるのね? なあに? あれ」 

 

 若者はゆっくりと振り向いた。それは濡れたウェットスーツを思わせた。首を失くした人間の死体だった。衝撃で後方に飛ばされ血に塗れていた。思いのほか冷静な呟きが聞こえる。


「ああ、そうか、翔か。あれ。ひでえもんだな」


「他人事みたいね。あんたが車で突っ込んでこなければあんなことにはならなかったのに」


 扉を開け若者が降りてくる。日本刀を抜いた。


 若者は両手を挙げて尋ねた。


「なあ? 畑野の死にざまはどうだった?」


「なに言ってんの? あんたが殺したんでしょ」


「え?」


「見てきたら?」


 畑野が倒れている場所を顎で示す。


「言われなくても」


 若者は舌打ちをともに腿を打った。もたつく足を引きずるようにゆっくりと歩み寄る。俯せで倒れている畑野の顔は夜空に向けられていた。服は引き裂かれその大部分を露出し手足はあらぬ方向へ向けられていた。


「クソだな。仇討ち人は」


 若者の呟きを無視して観察を続ける。


「なあ、畑野。お前、俺たちをハメたんだろ? それが仇討ち人ごときにハメられやがってよ。ダサ過ぎだろ?」

 

 若者は倒れている畑野の亡骸を見下ろしながら話しかけていた。ポケットのICレコーダのスイッチを入れる。声をかけた。


「自分で轢いたの気が付かなかった? ありがとう。おかげで畑野は死んだし。私は生きてる。ねえ? 野球でこういうのなんて言うんだっけ? スクイズ? ゲッツー? あっ。トリプルプレーだったっけ?」


「やっすい挑発だな」


 振り向きもたつきながら歩み寄る若者のその鼻先に日本刀を突き付けると切っ先を見つめ震えた。言ってみる。


「挑発って…… あたしこれでも実力派なんですけど? 試してみる?」


「いいのか? 仇討ち終了してからの殺しは法律違反だろ?」


「別に、ただの冗談になにマジになってんの?」


「なあ、畑野以外のメンバーが助かる方法はなかったのか?」


「あるわけないでしょ。あんたを仕留めそこなったのも奇跡みたなもんだし」


「なあ? 畑野は俺たち四人を売らなかったのか?」


「見たとおりよ。私は畑野に脅されて裸にされて辱めを受けた。そんな取引は絶対にありえない。だけどね……」


「なんだよ」


カマをかける。


「みんなでよってたかって面白半分に殺したんだってね? まだ中学生だったってのに。自慢げに話してたよ。用心棒やってるってことは新井。あんたもホントは共犯なんでしょ?」


「あいつはそんな奴じゃねえよ。なにもわかってねえくせに知ったような口を利くな」


「あ、そ。ま、どっちでもいいけどさ。事実は永遠にわかりっこないのに何を守ってんの?」


「真実だよ。畑野だって殺したくて殺したんじゃない」


「ふーん。いやいやなら人を殺してもいいと思ってるんだぁ。 じゃあ私もいやいやだった。大下、栗田、中川の三人を殺したこと許してね。名前もちゃんと覚えたのに。無駄になっちゃった」


「ざけんなよ。てめー」


 今度は喉に日本刀の切っ先。理解させてやる必要を感じた。


「残念。ペンは剣よりも強しって言うのは別の世界。ここは死人に口なしの世界だから。わかったら大人しく女のおしゃべりにつきあってくれる?」

 

 日本刀を鞘に納めてみせると新井は頷いた。


「続けるわよ。畑野は捕まってからは積極的に自供したから結局それが通っちゃったけどさ。人を殺すって大変なのよ? しかもバット一本で四人殺したって。だからこんなことまで考えちゃった」


「なんだよ?」


「みんなで罪を畑野に押し付けた。罪を被らないとお前の大切な人間を殺してやるぞってね。」


「は? ありえねえよ。翔たちがそんなことしたとして用心棒やるわけねえだろ?」


「ほら、うち中小だからさ。大手がやりたがらない案件がまわってくるわけ。私たちだけじゃ殺せなかった時の保険の意味で用心棒としてやってくる殺し屋なんかもいたわ」


「まさか。お前らにやらせりゃそれでいいじゃねえか」


「受刑者の中にはいろんな奴がいるの。ヤクザ者のボディーガードとかっていろいろ秘密を持ってたりするからさ。口封じ。」


「マジかよ。仇討ちの刑を作った奴らのホントの目的ってそれなのか? どうせ裏でヤクザ使ってんのは政治家だろ? 警察とヤクザも裏じゃつるんでるしよ。」


「知らない。そんなの。作った人たちに聞けば?」


「できるかよ。そんなこと。まあいいわ。何となくいろいろ見えてきた」

 

「ふーん。それよりさっきの話なんだけどさ。まあ、発覚したら死刑だからうちらに話を持ってくるんだけど。お前らも楽できるからいいだろ? だって。その場で斬っちゃった。」


 新井はたじろいだ。微笑むカレンの瞳。髪で隠れて片目しか見えない。その瞳の奥に爛々と輝く光を見た。思わず言葉が出た。


「人を殺した話を笑って話してんじゃねえよ。狂ってんな。お前」


「私はただ仇討人として一生懸命なだけ。ところで知ってる?」


「何をだよ?」


「殺された彼女たちにも親とか友達とかかいたんだけど。仲間想いのあんたみたいに」


 しばらく見つめ合った。髪を風が舞わせた。鉄と油と血の匂いが新井との間を駆けていく。


「ま、生かされてる間は考え続けたら? 自分たちがしでかしたことがどういうことか」


 睨みつけてるだけの新井を鼻で嗤ってやる。


「はい。お仕事終了。私はシャワーあびてビール飲んで今日のことは忘れて明日に備えなきゃ」


 踵を返しコンビ二に向かう。独りごとのように言葉を紡ぐ。


「ああ、もう。髪についた血の匂いってなかなか落ちないんだよねぇ。暑いしもっと短くしちゃおかな?」


 背中に視線を強く感じた。振り返る。大きな声で尋ねてみる。


「ねえ? あんたがさっき私の翼を見た時どう思った? ねえ教えてよ」


「バケモンにしか見えねえよ。っつーか、今のてめえのニヤケづらもな」


「よかった。そう思ってくれて。それで運転ミスったんでしょ?」


「うるせえんだよっ!」


 まだ何か言葉を続ける新井を無視して踵を返し、歩み始めた。

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