●受難、現在進行形 2
その時空の狭間は〝クライン〟と呼ばれていた。
空間と空間、時間と時間の『隙間』の集合体と言われている。
例えば部屋と部屋を隔てる壁の中の『隙間』、例えば一秒と一秒の間にある『隙間』。そんなものが寄り集まって形成されているという。
いかなる場所にも近く、いかなる時代と並走していながら、決して交わることのない異空間。
果てがあるようで無い。それ故に〝クライン〟と呼ばれていた。
そんな『隙間』の集合体である〝クライン〟は様々な世界、様々な時代からこぼれ落ちた【もの】が多く転がり、暮らしている。
そんな世界の片隅に戦闘医療集団〝プリンスダム〟の本部はあった。
〝クライン〟に国家という概念はまだない。そもそも〝クライン〟は生命体が数少ない空間だった。それが半年前のガイスト・メルゼクス事変によって爆発的に増加したのである。現在、これまで存在していなかった社会が早足で形成されつつある。社会構造が未熟なのは仕方のない事だった。
この半年の間、ガイスト・メルゼクス事変を生き残った人々は新たに独自の社会を構築し、急速に発展させてきた。元々〝クライン〟にあった街の一つを中心に、いくつかの勢力に別れながら。
今の〝クライン〟に残存する勢力を大別すれば、三つに分けられる。オーディス派、ウォズ派、その他、の三つである。〝プリンスダム〟はその他に分類された。
その外見は異様だった。オーディス派でもなくウォズ派でもない者達が暮らす街は『共和区』と呼ばれているが、その中でも飛び抜けて異彩を放っていた。
一面が漆黒なのである。どの街もそうだが、〝クライン〟はその特性故に多種多様な者達が暮らしている。そのため、建物の様式はどこをとってもちぐはぐだ。そんなパッチワークのような街の中、一角が暗闇が凝り固まったかと思うほどの黒い建物に占領されていた。
黒金の城と見紛うばかりの病院を見上げ、鷹晃は素直に呟いた。
「ずいぶんと恐ろしげでござるなぁ」
聞こえていないはずはないのだが、隣のシュトナはどうやら無視したようだった。この〝プリンスダム〟に属する者にも自覚があるのかもしれない。
〝プリンスダム〟は中央に位置する特殊構造材製の建物と、それを囲むように展開された十二のテントによってなっている。
鷹晃は中央の建物へと案内された。中に入ると鷹晃は、ほう、と感嘆した。外見とは打って変わって内装は実に病院らしいものだった。柔らかいクリーム色の壁と、そこに緑を少し足したような色の廊下。殺菌されたように清潔な空気の味と、消毒剤の香り。まだ増築中なのか、鷹晃の鋭い嗅覚は微量ながら建築現場特有の匂いを嗅ぎ取った。
静かだった。ここにはほとんど医者や看護師が詰めていないのか、それとも何か別の事情でもあるのか。人気が全くなかった。そのくせ、空気だけはやたらと張りつめている。
シュトナが先導して病院内を行く。その背中について行きながら、鷹晃は廊下に響く足音が一人分しかないことに気付いた。前方のシュトナは足音を立てていなかったのだ。この〝プリンスダム〟に所属しているからには彼女も戦闘ナースの一人なのだろうが、どうやらその実力はかなりのモノのようだった。
一階の中央辺りに位置する院長室へ通される。
主の趣味なのだろう、院長室は黒を基調とした内装だった。らしいと言えばらしい部屋である。
部屋の主は執務机に向かって何か書類を読み込んでいるようだった。先刻シュトナが扉をノックした後に聞こえた「入れ」という声は女性のものだったが、書類で顔が隠れていて確認出来ない。
「院長先生、御門様をお連れ致しました」
「おう」
女性の声で、男らしい返事があった。書類が下がり、顔が現れる。
妙齢の女性だった。燃えるような深紅の髪が、白衣ならぬ黒衣によく映えている。まるで血を吸ったかのような色の瞳は、しかしあまり不吉とは感じない。そこに宿る光のせいだろう。力強く、生命力に満ち溢れた輝きがあった。煮えたぎる紅茶、とでも表現出来るだろうか。笑顔より泣き顔よりも、不敵な表情が似合う顔立ちをしていた。
「ラップハール・エノルだ。よろしく。あんたがミ……ミス? それともミスターか?」
立ち上がって自己紹介した〝プリンスダム〟院長のラップハールは握手のための手を差し出そうとして、動きを止める。
鷹晃は穏やかに笑って、
「体はともかく、心は男でござるよ」
「よしわかった。ではミスター・ミカド。来てくれてありがとう。感謝する」
互いの手が力強く握られる。
「私は、お茶の用意をしてまいります」
その光景を見届けたシュトナが頭を下げ、退室する。ラップハールは手をほどくと、応接用のソファを示し、
「まあ座ってくれミスター。他でもないあんたを呼んだのにはわけがあってな。そこらへんの奴じゃ話にならないんだよ」
丈は長いが薄い黒衣に、全身に密着したスリムなダークスーツ。女性特有の隆起は十分に見て取れる。だが、若く女らしい身なりとは違って、ラップハールの態度は随分と男らしく、あけすけなものだった。とはいえ鷹晃自身も他人のことは言えない。心は男なのだから不整合な面は致し方ないのだが。
「ほう、それは一体いかなる事でござろうか? 非才の身ゆえ、期待に応えられないかもしれんが」
腰から引き抜いた刀を手に持ち、ソファに腰を下ろしながら言うと、ラップハールは破顔一笑する。
「おいおい、何を言いやがる。噂なら耳にタコができるぐらい聞いてるぜ。実際、あたしもあん時はメルゼクスんトコにいたんだからな。あんたの活躍はこの目で見てたんだよ」
口調は荒いが聞いていて不快感はない。人柄だろう。馴れ馴れしさと図々しさを感じさせない、希有な女性だ。
「褒めても何も出ないでござるよ。して、話とは? 先程、シュトナ殿が悪漢共に囲まれていたことと関係があるのでござろう?」
鷹晃の質問に、ラップハールの片眉だけが器用に跳ね上がった。
「……囲まれていた? 今、囲まれていたって言ったのか?」
確認するその声には雷雲が孕まれていた。鷹晃は頷き、
「左様。指定の場所へ赴くと、五人の男共がシュトナ殿を囲んでおった。シュトナ殿は日常茶飯事だと申されていたが」
ラップハールは顔をしかめ、舌打ちをした。
「シュトナにまで手ぇ出してきやがったのか、あの野郎共……!」
苦虫を噛みつぶしてしまったかのように吐き捨てる。鷹晃は沈黙し、彼女からの事情の説明を待った。
ラップハールは体内の怒りを溜息にして吐き出すと、
「実はその事なんだ、ミスター。今、あたしらはオーディスとウォズの両方から、仲間になりやがれっつー話……いや、脅しを受けてるんだよ」
「……やはり、そうでござったか」
まさかとは思っていたが、という言葉を鷹晃は呑み込んだ。鷹晃はオーディスとウォズ、どちらとも知己だった。ラップハールが鷹晃を招いたのもそれが理由だろう。彼女の知る限りでは二人とも愚者ではないが、目的のためなら手段を選ばないところがある。だからシュトナの言葉から、両者が〝プリンスダム〟に何かしら不当な圧力をかけていることも容易に推測出来た。
「しかし、何故」
「そんなの決まり切ってることさ。あたしらは医者だ。単純に医療技術と治癒能力が欲しいんだよ。簡単な話だろ? あいつら、まだあの時の内乱を引きずってやがるからな。あたしらがわざわざ抗争に無関係なここに来たってのに、それをどうにか引き入れようとしてやがんだ」
わからない話ではない、と鷹晃は思う。〝クライン〟はメルゼクスが失踪した今、『時空の守護者』の席が空いており、政治的には実に微妙な情勢だ。ガイスト・メルゼクス事変の途中から休戦協定を結んでいたオーディスとウォズも、現在ではそれぞれ軍を構えて対立の姿勢を見せている。戦争は前線だけで行っているのではない。後方支援、とりわけ医療は重要項目の一つだ。彼らが戦闘医療集団と名高い〝プリンスダム〟を自軍に求めるのは当然の話だろう。
鷹晃はそうは思っていても口には出さず、こう言った。
「そして貴殿はそれを断った、と」
「当たり前だろ? あたしらは怪我と病気を治して、人命を救うのが仕事だ。助けを乞われりゃそれがどこの誰であろうが全力を尽くす。どっちかの陣営に属しちまったら、助けられねえ奴が出ちまうじゃねえか」
ラップハールは立ち上がり、すぐ傍の窓へ歩み寄る。そこからは外に展開された黒いテントの幾つかが見下ろせた。
窓から差し込む光に顔を照らされたラップハールは、はっきりした声で言う。
「あたしらには人命救助が唯一にして至高の信念だ。それ以外のどこにも属する気はないね」
テントの内部では今なお、半年前の戦闘で傷ついた者達が治療を受けている。
「助けなきゃならねえ奴らがいる。それがあたしらの使命だからな。そのためにあたしらは白衣じゃなくて、黒衣を着てるんだよ。例え一人を殺してでも万人を救うために。あたしらの黒はその覚悟を表しているんだよ」
語尾にノックの音がかぶさった。乾いた音が、計ったようなタイミングで三回。
「入れ」
「お待たせいたしました」
扉を開けて入室してきたシュトナは、トレイに載せたティーセットを持っていた。足音もなくソファの間にあるテーブルへと歩み寄ると、流れるような手つきで茶の用意をする。
ラップハールはそんなシュトナを空気のように扱った。
「で、そこであんたに頼み事なんだ、ミスター」
「拙者に取りなして欲しい、というわけでござるな?」
鷹晃は機先を制して言った。途端にラップハールは、にやり、と笑う。
「話が早いじゃないか」
ラップハールは窓際から体を離すと、再びソファに腰を落とした。シュトナの淹れた茶に手を伸ばしながら、
「ガイスト・メルゼクス事変の英雄なら、オーディスもウォズも一目置いてるだろう? そういう計算も含めて、あんたにうちの用心棒をお願いしたい。報酬も弾む。どうだい? あたしとしては良い話を持ちかけているつもりなんだが」
自信に満ち溢れた女性だ、と鷹晃は思う。流石は〝クライン〟の二大派閥から誘いの手を払いのけているだけはある。彼女はその双肩に〝プリンスダム〟とそこで治療を受けている患者の全てを担っているのだ。肝っ玉が太くなければやってはいけないのだろう。若い身空ながら太母の貫禄である。
鷹晃は即答を避けた。しばし、ラップハールの言葉を脳内で咀嚼する。その間にラップハールは紅茶を口に含み、背後に控えたシュトナと言葉を交わす。
「囲まれたらしいじゃないか。大丈夫だったのか?」
「はい。すんでの所で御門様が助けてくださいましたので」
「そうか、今後も気をつけろよ。それと、楽那の奴はどうした?」
「まだ連絡はありません」
「わかった。連絡あり次第、報告頼むぞ」
「かしこまりました」
二人の会話が少し途切れたところへ、鷹晃は質問を差し挟んだ。
「脅されていると申されたが、実際の被害のほどはどうなのでござる?」
嫌なことを思い出した、と言いたげにラップハールの表情が歪んだ。感情がすぐ顔に出る素直なタイプらしい。
「三人、やられてる。命までは取られてないがな。あたしら〝プリンスダム〟は女の園だ。何されたかは言うまでもねえだろ?」
鷹晃も表情を険しくして頷く。男であった頃に聞いてもそうだったろうが、今となっては自分も女の身。そういった所行に対する嫌悪感はひたすらに強くある。
また鷹晃はジーンズのポケットから手紙を取り出した。ラップハールが鷹晃に宛てたものである。それをテーブルの上に置き、
「確認したいことがござる。ここに書いてあることでござるが……」
「ああ、あんた達の体について、だろ? 大丈夫……とまでは流石に言わねえ。だけど、あたしらに出来るだけのことは最大限にやらせてもらうつもりだ。結果的に希望が叶えられないかもしれねえが……あたしらは自分の技術に自信を持ってる。あんた達もそこのところを信じて任せちゃくれないか?」
胸を張るラップハールを前に、鷹晃はもう迷う素振りを見せなかった。居住まいを正し、ぐっと頭を下げる。
「ではその依頼、お受け致す。不肖、この御門鷹晃、微才ながら全身全霊をもってあたらせていただくでござる」
顔を上げると、鷹晃とラップハールの視線が真っ向からぶつかり合った。タイミングを合わせたように、どちらも笑顔を見せる。
「ありがとう、ミスター。恩に着る」
「いやなに、拙者とてこれでも切羽詰まっているのでござるよ。正直、英雄などと呼ばれておってもメルゼクスを逃してしまったのは他でもない拙者でござる。元の世界に戻る方法も、元の体に戻る方法もなくて途方に暮れておったのでござるよ。貴殿らの申し出は大変ありがたいでござる」
ラップハールは指折り数えながら、
「ござるござるござるござる……噂には聞いていたが、本当におかしな喋り方だな、ミスター」
邪気のない笑いを零す。鷹晃もにっこりと笑んで、
「よく言われるでござる。しかし、あんまり馬鹿にすると斬るでござるよ?」
にこやかに言い切ったもので、流石のラップハールもぎょっとする。微動だにしなかったシュトナまで、刹那、身構えるかのように身を震わせた。すると、
「冗談でござるよ」
茶目っ気を声に混ぜて鷹晃は言った。こいつは一筋縄ではいかない、と思ってもらえたのだろう。驚愕の表情を崩すと、ラップハールは声を立てて笑った。馬鹿笑いだ。片手にティーカップを持ったまま、もう一方の手で額を押さえてラップハールは天を仰ぐ。
「流石は英雄だよ。如才無え。おいシュトナ、もう茶は引いて良いぞ」
と鷹晃の前のティーカップを指す。
「……ですが」
シュトナは珍しく言い淀む。
鷹晃は茶を一口もしていなかった。
まだ客人が手もつけていないのに引いても良いのだろうか。そんな風に迷うシュトナに、
「いいんだよ。多分、ミスターは自分で用意したモン以外は口にしねえはずだ。そうだろ、ミスター?」
ラップハールの問いに、鷹晃は目を伏せ、答える代わりにこう言った。
「お心遣いのみいただくでござるよ」
あくまで柔らかな口調で。
シュトナは上司と視線を合わせると、小さく頷き、礼を欠かさない動作で鷹晃の前から茶を引いていった。
シュトナが退室するのを待ってから、ラップハールは口を開いた。
「正直舐めていた。すまないな、ミスター。あたしの悪い癖だ。ついついこっちで相手を呑み込もうとしちまう」
「別段、悪いことではないでござろう」
「いいや、なんだかんだで相手より優位に立とうってしちまうんだ。良くねえよ。許してやってくれ」
「気にしておらぬよ。強情でござるな、ラップハール殿は」
「冗談だからな」
「は?」
ぽかん、としてしまった。すぐには理解が追いつかず、鷹晃は目をぱちくりとさせる。ラップハールの口元に悪戯っぽい笑みがあるのを見て、急に得心した。
「あ、なるほど。これは一本取られたでござるな」
にかっと笑う。まるで狐と狸の化かし合いのようだった。お互いにそう感じて、滑稽だと思ったのだろう。
鷹晃もラップハールも声を立てて笑い合った。