縁を切りましょ
自分の字を破り捨てるという経験は今まで一度もしようとしなかったかもしれない。
あれほどのショックは久しぶりだったし、あれほど悲しかったこともむなしかったことも初めてかもしれない。
そんな人生最大の経験をした俺は、今も筆を握って半紙に向かっている。
静かな和室は俺が字を書くときに使っている部屋だ。
短く息を吐き出して肺を楽にして筆に墨を付けた。そしてゆっくりと筆を半紙につける。
+ + + +
「……あ」
廊下に歩いている後姿を見つけた。
ワックスを使っているであろうところどころ明るい茶色に染めた髪。
高校二年にして大きな身長。
ポケットに両手を入れたその姿は。
あの日、俺に声をかけてきて俺の行動を止めた張本人の後輩である。
俺は両手に抱えている紙の束をどうしようか迷って視線をさまよわせる。
これを職員室に届けることをしないといけないが。でも、あいつに声をかけておきたい。
俺は書道を止めようと思っていたのに結局やめることはできなかった。
やめないでよかった。
あいつのおかげだろう。
どうしようかどうしようかとあたふたしている間にその姿はもう廊下にはなくなってしまっていた。
「掛井先輩」
名字を呼ばれて驚いて振り返ると生徒会の後輩が俺の顔を見て不思議そうな顔を作っていた。
俺は慌てて紙の束をしっかりと抱えて歩き始める。
その姿を見て後輩が俺の後をついてきてくれた。
「誰か探していたんですか?」
図星だった。
自分の行動を観察されていたと分かってなんだか恥ずかしくなって来る。
でも恥ずかしがっていることを悟られたくないので顔色を変えずに凛とした表情で前を見続ける。
そして右に曲がって階段を上り始めた。
俺の反応を見てそれを否定だと受け取った後輩はそれ以上何も言わなかった。
ちらりとそいつのネクタイの色を確認する。
こいつはあいつとどう言う関係なんだろうか。
でも、俺は一体、あいつとあったら何を話すつもりなんだろうか。
とめてくれてありがとうっていうのか?俺らしくも無い。
あいつの前で涙を見せてしまったことは不覚だった。
これ以上弱みを握られるわけにもいかない。
俺は生徒会の一員なのだから。
俺が書道でくじけていたことをばらされた威厳が無くなる。
だから俺はあいつに会わないほうが良いのかもしれない。
一度だけお礼を言って、それで終わりにしよう。関係は早めに切っておこう。
俺はそう決めた。
あいつに手当てされた掌が紙に擦れて少し痛んだ。
「掛井先輩?」
肩を叩かれてやっと我に戻った。
先生から受け取った資料が廊下に散らばっているのを見つけて慌ててしゃがんでかき集める。それを後輩も手伝ってくれた。
俺は前髪を撫でてから資料を両手に抱えて立ち上がった。すると後ろから先生の声が聞こえて、後輩がそれにこたえる。俺には用が無いらしく、後輩だけで手は足りるみたいだった。
俺は仕方が無く各クラスの学級委員へプリントを届けようと歩き出す。枚数をなんとなく数えながら、前方にも気を付けて。
だけれど、頭の中は全然落ち着いて居なかった。あの後輩のことが全然頭から離れないのだ。
話をつけてきたいけれど、会いに行くのは変じゃ無いだろうか。
会いに言ったら、まるでアイツがいないと俺が折れてしまって居たということの証明になるんじゃ無いだろうか。
俺はため息を吐いて、プリントを数えるためにプリントの間に挟んでいた指を抜いた。プリントを抱えなおして、なんとなく校庭へと目を向ける。
すると、窓の真下に広がる中庭で、何やら生徒が対峙しているのが見えた。
「あ」
思わず窓に近寄って中庭をしっかりと見据える。
五日、屋上で俺の行動を止めたあの男。先輩の俺に敬語を使わなかったあの男。俺の泣き顔を見たあの男。名前さえも知らないあの男。
俺は廊下に誰もいないことを確認する。誰も俺があの二人を見ていることを知らない。
俺は中庭で向き合っているあの後輩と女子生徒を見下ろした。
「なにやってるんだ……?」
思わず口にしてしまう。
あいつは見た目からして軽そうだし、結構顔も整っているから、彼女か何かなのかもしれない。
生徒会としては生徒たちのみだらな行動は規制したい気分だが、女子生徒と男子生徒が話しているだけではとめる理由にはならない。
俺は黙ってその場を離れた。
それと同時くらいに、女子生徒とあの後輩も別れていく。女子生徒が逃げるように去って行くのをあの後輩は手を振って見送っていた。