第三章 ハッカー
――翌日。
「え~と、昨日はA社のウエハ構造解析とエックス線分析、それからP社と新和開発社のサンプル発送と――」
神崎は朝会が終わると、業務報告書を手短にまとめて田町にメール送信した。そして、席を立って田町のデスクに向かった。
「田町、昨日の業務報告書をメール送信したから、業務進捗管理表に記入してくれるかい。それとね、新和開発社のサンプル評価データーを技術管理サーバーに登録して欲しいんだ。後さ、昨日、PCの電源が入りっぱなしだったよ」
神崎が田町に話し掛けると、彼女は黙ってPCのモニター画面を睨んでいた。
「おい、田町、聞いてる?」
「おかしい! 絶対、おかしい! 技術ファイルが幾つか消えているし、バックアップファイルまで消されてる!」
神崎が田町の顔を横から覗き込むと、田町はPCのモニター画面に向かってぶつぶつと文句を言った。
「神崎さんの評価データが全部消えてます!」
「たまちゃん、朝からきつい冗談は止めようね」
「神崎さん、冗談じゃないです!」
「マジ?」
「うん、マジ! マジ!」
「うそ~ん」
田町が真顔で神崎に答えると、神崎は天井を見上げて嘆いた。そして、神崎が視線を戻すと田町は目に涙を溜めて泣きそうな顔をしていた。どうやらこれは本当の様だ。
「私、昨日は午後六時にPCを切って帰ったのに、今日の朝見たらPCの電源が入っていたんっすよ。なぜ?」
「『なぜ?』って俺に聞かれても……」
二人が騒いでいるので、解析技術課の連中がみんな田町のデスクに集まって来た。
「どうしたんだ神崎?」
中村課長が席を立って神崎に尋ねる。
「技術ファイルの一部が消えている様です。しかも、バックアップファイルまで。田町は消した覚えが無いみたいなんですけど」
「全部か?」
「いえ、私のファイルだけです」
「田町、みんなのファイルは大丈夫なのか?」
「大丈夫です。中村課長、消えたのは神崎さんのファイルだけです」
「そうか、それじゃあ、情報システム部に確認してもらおう」
中村課長が席に戻って情報システム部に連絡を取る。
「ああ、もしもし、解析技術課の中村ですが、セキュリティ事故が発生しましたので、緊急対応をお願いします」
「分かりました、直ぐにそちらへ向かいます」
中村課長から連絡を受けると情報システム部の担当者が居室に駆け付けた。そして田町のPCで技術サーバーのアクセスログを調べ始めた。
「技術サーバーの最終アクセスは午後八時五十分です」
「えっ、午後八時五十分?」
田町が顔をしかめて首を捻る。
「でも、田町さんのアクセスではありませんね。田町さんの最終アクセスは午後五時五十分でアクセスエンドが午後五時五十七分です。以降のアクセスは午後八時五十分でアクセスエンドが午後九時十五分になります。アクセスコードはA00135。このコードはテンポラリーコードです」
「テンポラリーコードって何だね?」
中村課長が情報システム部の担当者に尋ねる。
「テンポラリーコードは、アルバイトか派遣社員が使用するコードです」
「非正規社員か……」
「AAAの厳秘ファイルはパスワードを入力しないとアクセス出来ないはずなんですが、なぜかアクセスしていますね。パスワードを事前に知っていたか、或いは高度な技術を使ってパスワードを解析したかのどちらかです」
情報システム部の担当者はPCのモニター画面を眺めながら中村課長に話し掛けた。
中村課長が振り返って、神崎の顔を見る。
「神崎、ブラックウエハのデーターも消えたのか?」
「ええ、たぶん、消えました。先日の評価データーは顧客に提出済みなので問題はありませんが、追加評価のデーターが問題です」
「追加評価って何だ?」
「実は評価装置に不具合があって、サンプルを再測定したのですが、前回の評価レポートに無かった元素が検出されました」
「どんな元素かね?」
「ガドリニュウムです」
「ガドリニュウム? それはまた珍しい元素だな」
「ええ、造影剤とか超電導磁石に使用される材料の様です」
「そうか、まあ、最悪、顧客に侘びを入れて再評価しないとダメだな」
「そうですね、当然、無償になりますが……」
神崎は顎を撫でながら中村課長に答えた。
「データーの復旧は可能ですか?」
神崎が振り向いて情報システム部の担当者に尋ねる。
「メンテナンスを毎月していますので、メンテナンスサーバーに記録は残っていると思います。ただし、メンテナンス日以降のデーターは無理ですね」
「前回のメンテナンス日はいつですか?」
「確か、二週間前です」
「二週間分の仕事が水の泡か……」
神崎が肩をガクッと落とす。
「アクセスコードはA00135、氏名は星野由美、部署は技術営業課です」
情報システム部の担当者は、セキュリティ登録リストからアクセス者を割り出した。
「なんだ、隣の部署じゃないか」
中村課長は事務所のドアを開けると、急いで技術営業課の居室に向かった。そして、技術営業課の課長としばらく話し込んでから部屋に戻って来た。
「みんな仕事に戻ってくれ! この件は俺が責任を持って対応する!」
中村課長が指示を出すと、みんなはデスクに座って仕事を始めた。そして、情報システム部の担当者は自分の部署に戻って行った。
「神崎と田町は、こっちに来てくれ」
中村課長が右手を振って二人を呼ぶ。
「星野由美はアルバイト社員だそうだ。勤務時間は午後五時三十分から午後八時三十分で、彼女はまだ出勤していない。今、人事に連絡先を問い合わせているところだ。神崎は二週間前からの業務を出来る限りやり直してくれ。顧客への対応は俺がする。田町は他にもっと消されたファイルが無いか、時間が掛かってもいいから調べてくれ」
中村課長は二人に業務指示を出すと、また技術営業課の居室に向かった。
「星野由美? イニシャルはYHか?」
神崎が胸のポケットから昨日のハンカチを取り出してイニシャルを確かめる。
「イニシャルMAだよな、このハンカチ……」
神崎はしばらくハンカチを見つめた。
「それ、何っすか?」
田町がハンカチを覗き込む。
「えっ、いや、何でもないよ」
「あっ、怪しいっすね、ピンクの刺繍が入ってるじゃないっすか! 『これ』っすか?」
神崎がハンカチを隠すと、田町は右手の小指を立てて目を細めた。
「違う、違う」
「じゃーなんっすか!?」
神崎が田町に右手を小さく振ってごまかすと、田町はちょっと不服そうに神崎に尋ねた。
「まあいいじゃないか。それより、仕事! 仕事!」
神崎が自分のデスクに座って、業務記録の確認を始める。
(さて、二週間前からの業務か、これは大変だな。ウエハの構造解析が三件、熱応力評価が二件、接合評価が五件、ああ、こりゃ頭が痛いな)
神崎が頭を抱えて振り向くと、田町も頭を抱えてPCのモニター画面を睨んでいた。
――午前十時、情報システム部の担当者から田町のPHSに連絡が入った。
「はい、田町です」
「情報システム部の新庄です。技術サーバーのファイル復元が完了しました。それから直近二週間分のデーターは、ある程度の復元が可能でした。田町さんの方で確認してみて下さい。削除されたデータの九十パーセント位は復元出来ています。残り十パーセントのファイルは、物理記録領域に別のデーターが上書きされていて、復元出来ませんでした」
「ありがとう御座います。助かりました」
田町は情報システム部の担当者に礼を言うと、紙の記録表を確認して電子ファイルの検索を始めた。
「神崎さん、ファイルの復元リストです」
神崎が田町から復元リストを受け取ってファイルを確認する。
「ファイル数は百十八ファイルか、ノートの記録では俺が作成したのは百二十五ファイルだ。田町、復元出来なかったファイルのファイル名を教えてくれ」
「えーと、CN34600ハイフンBlackハイフンWF関係のファイルが全て復元されていません」
「ブラックウエハの評価ファイルか……このファイルは顧客に提出済みだから問題は無いな。後は追加評価のファイルのみ、これは試作装置にデータが残っているはずだ。田町、よく頑張ったな、ありがとう」
「神崎さん、お礼なんて、いいっすよ」
神崎が田町を褒めると、田町は神崎に小さく右手を振った。
神崎がポケットからPHSを取り出して、生産技術課の吉田に電話を掛ける。
「ああ、吉田君、解析技術課の神崎です。先日、試作装置で再測定したブラックウエハの件なんだけど、測定データーは装置内に残っているかな?」
「大丈夫、残っていますよ。測定データーを評価装置から取り出して、分光解析サーバーに入れましょうか?」
「そうしてもらえると助かるな、後はこちらで分光解析サーバーをリモート操作するよ」
「了解です」
(よし、これで問題は、ほぼ解決と――)
神崎は仕事の目処が立ったのでほっとした。
「よし、フェニックス社の営業部に電話をして、提出済みの評価資料を返却してもらうとするか」
神崎は取引先の名刺入れをデスクの引き出しから取り出して、PHSでフェニックス社の営業部に外線電話を掛けた。
「はい、フェニックス社営業部です」
電話を受けたのは、フェニックス社営業部の女子事務員だった。
「もしもし、新光技術工業社解析技術課の神崎と申しますが、御社営業部長の猟田様を御願い致します」
「はっ? 神崎様、失礼ですが、もう一度名前を御願い致します」
「営業部長の猟田様です」
「神崎様、申し訳御座いません、弊社の営業部長は田代で御座います。田代ならおりますが」
「えっ? 田代部長様ですか?」
「はい、田代です」
「私が御社から頂いた名刺には、《営業部 部長 猟田博久》と書かれているものですから」
「少々お待ち下さい。猟田博久ですね?」
「はい」
しばらく返事が帰って来ない。
「神崎様、申し訳御座いません。弊社に猟田博久と言う社員は居りませんが……」
「そうですか?」
女子事務員の返答に神崎が戸惑う。
「分かりました。御社の田代部長様で結構です」
「では、田代に電話を御つなぎ致します。少々お待ち下さい」
女子事務員が田代に電話を転送すると、電子音が鳴って直ぐに電話がつながった。
「お待たせ致しました。フェニックス社営業部の田代で御座います」
「もしもし、新光技術工業社解析技術課の神崎と申します」
「毎度、御世話になります。神崎様」
「えーと、新和開発社様のウエハ評価の件なんですが」
「はい」
「大変申し訳ないのですが、新たに追加評価が発生致しまして、評価資料の再作成が必要となりましたので、提出済の評価資料を一旦弊社に返却願えませんでしょうか? もちろん費用は無償で対応させて頂きます。いかがでしょうか?」
神崎は顧客に失礼が無い様に丁重な対応を取った。もちろん、自社の内部事情は話さない。技術データーの紛失を顧客に知られると自社の信用が台無しになるからだ。
「新和開発社様のウエハ評価ですね。弊社の注文管理ナンバーを教えて頂けますでしょうか」
「注文管理ナンバーは……」
神崎がノートのページを開いて注文管理ナンバーを調べる。
「注文管理ナンバーは、A560401です」
「A560401ですね、分かりました、直ぐに調べさせて頂きます。こちらから折り返し御電話を差し上げますので少々お待ち下さい」
「お願い致します」
しばらくするとPHSに外線が入った。
「はい、神崎です」
「神崎様、お待たせ致しました。フェニックス社営業部の田代で御座います。御依頼の件ですが、弊社の受注管理課に確認したところ、注文管理ナンバーA560401は見当たりませんでした。注文管理ナンバーの間違いではないでしょうか?」
「いえ、確かに注文管理ナンバーはA560401で、ウエハの構造解析依頼となっています」
「神崎様、それと、新和開発社様のウエハ評価はここ半年程、弊社に注文が入っておりません」
「そうですか、分かりました。御対応どうもありがとう御座いました」
神崎は電話を切ると首を傾げた。
「どうかしましたか? 神崎さん」
「いや、変なんだよ、フェニックス社はブラックウエハの評価を依頼していないって言うんだ」
「えっ?」
「それに、フェニックス社の営業部長と名乗る男は偽者の様なんだ」
「それじゃあ、その男は誰っすか?」
「それは誰か分からないけれど、ブラックウエハの評価データーが盗まれた事は確かだ」
神崎が腕を組んで田町に答える。
「そうだ、受注を取ったのは中川だから、彼に聞いてみよう」
神崎は事務所のドアを開けて技術営業課に向かった。
――技術営業課居室。
中川は事務所のデスクに座って何処かに電話を掛けていたが、神崎の顔を見ると直ぐに電話を切って椅子から立ち上がった。
「中川、ちょっと話があるんだが」
「先輩、俺も話があるんですよ、フェニックス社の営業部長と全然連絡が取れないんですよね」
「何時から?」
「昨日からです」
「フェニックス社の営業部長って、こいつか?」
神崎が中川に猟田の名刺を見せる。
「そうです。昨日までこの名刺の携帯に連絡をしていたんですけど、今日はさっぱりつながらなくて」
「中川、こいつはフェニックス社の営業部長じゃないぞ! 偽者だ!」
「またまた、先輩、冗談は止めましょうよ」
「本当だって、今、フェニックス社に電話をして確認したんだ。営業部長は田代という男だ」
「えっ、じゃあ、俺の三千万円の商談はどうなるんですか?」
「そんなの嘘に決まってるだろう」
「えっ――!」
中川が腰を抜かして床にへたり込むと、神崎は中川を抱えて椅子に座らせた。
「まあ落ち着け、命を取られたわけじゃないだろ」
「そりゃそうですけど、これじゃあ、俺のサラリーマン人生も早々に終わりですよ」
「大丈夫、この件は公にならないよ」
「どうして?」
「よく考えてみろよ、まだ損害は何も出ていないじゃないか。それに技術情報の盗難事件を会社が外部に発表する事はないさ、それより新和開発社の営業部門の連絡先を教えてくれ。発注が本当にあったかどうかを確かめてみたい。フェニックス社はただの中間業者で、ウエハの構造解析を依頼したのは新和開発社だからな」
「そうですね、評価サンプルは存在していますからね」
「それに、評価サンプルは最新の大口径ウエハだ。大口径ウエハを作れるメーカーは日本にそうはない」
中川はPCに厳秘のパスワードを入れて、顧客リストの検索を始めた。
「先輩、ありました。新和開発社技術営業部門の電話番号です。俺が電話しましょうか?」
「ああ、そうだな、お願いするよ」
中川が新和開発社の技術営業部門に電話を掛ける。
「毎度、御世話になります。新光技術工業社技術営業課の中川と申します。実はですね――」
通常、半導体の一流メーカーがウエハの開発試作評価を外部委託する事は無い。あったとしても、秘密保持契約を交わして情報を隠している。
「おい、中川、電話を代わってくれ」
「ちょっと待って下さい。はい、どうぞ」
「もしもし、新光技術工業社解析技術課の神崎と申します。何時も御世話になります。何かの手違いだと思うのですが、新和開発様からサンプル評価の御依頼を一件受けておりまして――」
神崎は新和開発社の技術営業部門から評価委託の情報を聞き出した。
新和開発社の回答は外部への評価委託は出していないとの事だった。
「そうですよね、大変失礼致しました。弊社、技術営業課の手違いかと思います」
「……?」
「その評価サンプルなんですが、実は真黒なウエハでして……」
「えっ! 真黒なウエハだって?」
技術営業担当者の声色が急に変わった。
「もしもし、その評価サンプルは、現在、新光技術工業社様が保管されているのですか?」
「いえ、もう、評価依頼元の顧客に返却致しました」
「そうですか……分かりました。何れに致しましても、弊社から新光技術工業社様への評価依頼はありません」
「はい、承知致しました。御対応ありがとう御座いました。失礼致します」
神崎が技術営業担当者に丁重な対応を取って電話を切る。
「中川、新和開発社は本当に評価依頼を出していない様だ」
「そうみたいですね、先輩」
「ただし、ブラックウエハの研究は、きっとこの会社がやっているんだよ。極秘の様だな」
「極秘のウエハが、なぜうちの会社に回って来たんですかね?」
「理由は分からないが、たぶん社内の内部リークだろう」
「内部リーク?」
「そう、誰かが極秘のウエハを持ち出したんだよ」
「何の為にですか?」
「製造工法を解析する為さ」
「製造工法?」
「中川、聞いて驚くなよ、ブラックウエハの値段は一スライスで推定一千億円だ」
「えっ、先輩、それ本当ですか?」
「ああ、本当だとも、このウエハの量産技術を確立すれば、巨額な利益を手に入れる事が出来るんだ!」
神崎の話を聞くと中川はまた腰を抜かして床にへたり込んでしまった。
その時、神崎のPHSが小刻みに震えて着信音が鳴った。
神崎がポケットからPHSを取り出して通話ボタンを押す。
「はい、神崎です」
「神崎君、特別会議室に来てくれないかね、人事にセキリュティ事故の報告をするから、田町も連れて来てくれ」
「分かりました」
神崎は田町を連れて特別会議室に向かった。
――特別会議室。
会議室のドアをノックして中に入ると、奥の席に中村課長の姿が見えた。
中村課長の前席には、技術営業課の村田課長と人事部の富田部長が座っている。
「まあ、座ってくれ」
中村課長が右手を差し出して二人に着席を求めると、二人は一礼をして彼の隣席に並んで座った。
「技術サーバーのファイルを消した犯人は、どうやら、技術営業課のアルバイト社員、星野由美の様だ。人事部に星野由美の連絡先を確認してもらったんだが、連絡が取れなくてね。それで人事登録されている彼女の住所に行ってみたんだ。すると、その住所は空き地だったんだよ。人事面接の記録では日亜大学一回生となっているが、それも嘘だ。日亜大学に問い合わせたら、星野由美という学生は在学していなかった」
「えっ、じゃあ、彼女は誰なんですか?」
「それは、我々にも分からない」
中村課長は小さく首を振って神崎に答えた。
「村田君、彼女の勤務状態はどうだったんだ。怪しいところは無かったのかね?」
富田部長が村田課長に尋ねる。
「いえ、特に怪しいところはありませんでした。PCが得意という事でしたので、主に営業事務を担当してもらいましたが、仕事は良く出来ましたし、電話の対応は非常に丁寧で、正社員が見習って欲しい位でした。ただ、資料の印刷やコピーを頼んだ時に、結構、時間が掛かる時がありましたね。印刷室で情報を閲覧していた可能性があります」
村田課長は手を組んで、富田部長の質問に答えた。
「人事としては、アルバイトの採用面接も実施しているし、学生証の提出もさせているので、問題は無いと思っていたんだが、甘かったな。それにしても、なぜ、神崎君の技術データーだけが盗まれたのか分からない、他に重要な技術情報は沢山あるはずだが……」
富田部長が神崎に話し掛ける。
「狙いは、ブラックウエハの解析評価データーだと思います。技術サーバーから、データーが復元出来ない様に完全に消されていますので、まず間違いありません。それと、変なんですよ。商社のフェニックス社はブラックウエハの評価委託注文を出していません。おまけに、うちの会社に来た猟田と名乗る男は、フェニックス社の社員ではありませんでした。念の為に、委託元の新和開発社に連絡を取ったのですが、やはり評価委託注文は出されていませんでした」
神崎はデスクの上に肘をついて富田部長に答えた。
「何だって、じゃあ、三千万円の受注契約はどうなったんだ?」
中村課長が椅子から身を乗り出して神崎に尋ねる。
「契約は嘘です。我々は嘘の契約を受けてブラックウエハを技術評価し、その技術評価データーをまんまと盗まれた事になります。ただし、実質的な損害は何もありません。損害があったとすれば、技術評価に使った私の作業工数と技術サーバーの修復時間位でしょう」
神崎は中村課長の質問に答えると、肩を竦めて胸の前で両手を広げた。
――その日の夕方、人事部から『情報セキュリティの強化について』という、社内通達が発行された。