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クールジャパン!

 日本の政府が、すでにある程度自然発生的に広まっている日本のポップカルチャーを、戦略的かつ効果的に広めようとしておるらしい。

 キーワードは「クールジャパン」。

 ネット上での違法配信・違法頒布が中心のために日本の権利者に金が入って来ねえ、かつ色々と幼女愛好文化だとか触手愛好文化だとか悪い方のイメージが強いのでなんとかしたいよ! ということなんであろう。


 近年、韓国がアジア圏でK-POPだ韓流ドラマだとブイブイいわせて成功したので、よーしこれはジャポン様も本気を出しゃあ上手くやれるに決まってるぜ、と色気が出てきたんではないかと思っている。

 最近はPSYとかいうアーティストが『Gangnam Style(江南スタイル)』とかいう曲でyoutubeが何億再生、といってるがあれは工作員の水増しにきまってらあ、という意見や、あんなの大したことないぜ、日本にはもっとクールでクオリティが高いものがあるぜ、と思うのはわからんでもない。



 こっちだって負けていない、きゃりーぱみゅぱみゅってのがポップで欧米で話題になったぜ!

 初音ミクってバーチャルな電子の妖精をアイドルとして盛り上げてやるぜ!


 まあ、キミちょっと待ちなさい。

 分かってないかもしれないけど、韓国のPSYさんも日本のきゃりーさんも、向こうの人にとっては同じカテゴリなんやで?

 ベクトルが違うだけで、ある認識の元に受容されとるで?



 それは何かというと「ウチの国にない(良くも悪くも)変なもの」枠である。


 K-POPが欧米に鳴り物入りで進出して、現在ひっそりと撤退中であるが、これを笑うことはできない。

 本格的な実力というならばそれより先行すること10年近く前、日本でも宇多田ヒカルがアメリカ進出をしているのだが、見事に失敗している。

 宇多田ヒカルの日本でのヒット中(90年代末期)筆者は当時大学生であったが、進出当時の洋楽に強い友人の評価は「日本人離れした実力」というものであった。

 彼の耳の感覚としては、「向こうの曲と比較して劣ってないよー」という話だったのだが、全く売れなかった。


 youtubeが盛り上がってきた2000年代初頭、確か彼女のPVの再生数が突出していたが、それは使われているCGが明らかにアジアンテイストかつ歌が日本語であったからだ。

 ひどい言い方だが、「美麗でハイテクなCGでかつジャパン」そして歌が上手いということが注目されたのであって、彼女がアメリカ進出時にとった現地のアーティストのようなPVで英語で歌っていたら、再生数はちょっとよくてコメントは日本人のみという有様だったと思う。(というか実際CG使ってない他の曲はそうだった)


 国や出身地域が関係ない、ワールドワイドな実力がどうのとかいうが、すでに欧米にある高品質なものと同じ土俵で真正面から競合すると、わずかな差異で圧倒的に劣ったもの扱いされる。

 手足が長く、黒人のようなリズム感と高いレベルのダンスというので戦えると思っていたら、向こうは「ウチの国にある黒人のダンサーを見ればいいのであって、なんでわざわざアジアの同じものを見なきゃいけないの?」ってことになっちゃうのである。

 それで考えると、太ったアジアのおっさんが低音を強烈に効かせたパーティ系の音楽で踊りまくるというものや、保育園のおゆうぎダンスを高度にした振り付けで欧米人にくらべるとガキっぽい体つきの女性アイドルがアニメキャラみたいな声で歌う、というのは自分たちの文化の中にないマッドで魅力的なものである。


 日本人には「おれたちの見せたいジャパン」があるのかもしれないが、一方で向こうは向こうで「オレタチの見たいジャパン」がある。


 中国での北京オリンピックの開会式当時、筆者は会場を埋めつくす少林寺武僧が映画『少林サッカー』の主題曲に合わせて一斉に棍を振るい、人民服を着た国家主席が毛沢東語録を小脇に抱えつつ登壇する、というマッドな演出が起きないかなーという妄想を抱いていたのであるが、実際にはCGも使用しつつ現代アート的演出に満ちたものであった。

 筆者が見たかったのは「自分の好きなものだけで固められた中国的演出」であり、先方が見せたかったのは「中国の発展のさま」であったために完全に期待を裏切られてがっかりした記憶がある。


 そういうことは武術においても起こっていると思う。


**********************


 筆者は、日本の武術が海外に行って妙な方向に変質するのが大好きで、アメリカで沖縄の空手を教えている新垣清という人が昔雑誌に書いていた「アメリカン・カラテ」事情には心が躍ったものである。

 どういう内容だったかというと、例えば、日本で「誠心会空手」というような名称のものがあったとして、悪い日本人が教えたのか、道着の文字の刺繍が「精神科医空手」になっていたとか。


 ある日本人の空手の先生が、アメリカの演武会で地味だけど奥深い型をじっくり演じたが反応が今ひとつで、まあそんなもんかなと思っていたら、会場が暗くなってスポットライトがついたと思ったら照明の中心には黒い空手着に金の刺繍、蛍光塗料で光るトンファー、そして掛け声が「キアイッ!」(気合のことらしい)で、こりゃあひどいと思っていたら会場大絶賛とか。

 やっぱり会場が暗くなってスポットライトで照らされたら中央に棺桶状の箱、蓋がずれるとドライアイスの煙とともに光るヌンチャクを持った人物が登場とか。

 

 そしてそれを見た空手の先生が、次からは派手な原色系の空手着に蛍光塗料を塗った棍をを使うようなったという話も。


 さすがに現在はそういう人たちはいないというか、マテリアル・アーツとかエクストリーム・マーシャル・アーツなどと言われて、もっとアクロバティックかつクールなスタイルで完全に棲み分けられるようになっているようだ。

 これは向こうの人たちが

「カッコいいと思ってカラーテやカンフーを始めたら、実際には地味で面白くない……よーし、それじゃあ『オレタチの考えるカッコいいカラーテ、テコンドー』を作るぜ!」

という動きを生み出していったという事情がある。

 テコンドー、ハプキド、クックソールウォンなどのアクロバティックな韓国武道がそういった欲求の受け皿になって広がっている部分もあるが、何しろ韓国人以外には不要なほどナショナリスティックな背景があって色々めんどくさいので、完全な創作武道パフォーマンスであるエクストリーム系で健全に活動しているらしい。

(この辺の事情についてはいつか別の機会に書いてみたいとたまに思うのだが、めんどくさいのでたぶん書かない)



 その一方で、どっか変なんだけれど必要以上に忠実にやっている人たちもいる。


 筆者などは日本の武術が海外で面白い方向に変形したりしないかしらと日々期待していて、ニューヨークなんかでどうにかなったのが日本に逆輸入され、

「日本では絶滅した武術、『イットー』スタイルのマーシャル・アーツを教えます! これがシークレット・アーツのガルゥーダ・ブレイドです!」

なんて感じで一刀流の金翅鳥王剣が演じられたり

「この丸太が転がるように激しく回りながら変化するというのが、『ネオ・シャドウ』スタイルのログ・ブリッジ(丸木橋)の教えです!」

なんて感じで激しく何かが間違った新陰流の転(まろばし・丸橋)の解説がされちゃったりする日が来ればいいのに、と無責任に願ってやまないのだが(最低)、あんまりそういう方向には行かないようである。


 しかし、それは国や人種を越えた価値を見出している、と素直に信じきれないものがある。

 もちろん真面目に本来の意味や奥深さに魅力を感じてを追求している面もあるだろうが、コスチュームプレイみたいに様式に遊んでいる部分があるんじゃないのかしら、と思うことが多々ある。


 南アフリカの人が道着に袴姿で、「マエッ(前)!」「ウシロッ(後)!」なんて言いながら居合(たぶん全剣連の居合の「前」「後」という技)をやっていて、うーんこれはどうかな? なんて思ってしまったことがあるのだが、みんな自分たちの言葉に直したりせず、だいたい日本語名そのままである。

 これは英語で「フロント」とか「リア」というのはきっと興ざめなんだろうなあ、と思うのだ。


 ちょっと想像してみてほしいのだが、例えば日本人が太極拳の金剛搗碓という技を「『たいじーちぇん』の『じんがんだおどい』!」(もちろんモロに日本語的発音)なんてしゃべっていたりするのは、世間一般の日本人から見てどんな感じだろう?

 普通は日本的な読み方ができるので「こんごうとうすい」と読む人のほうが多いと思うのだが、いやいや「じんがんだおどい」だと、別にこちらに文句をつけたりはしないものの絶対にそこを譲らないんである。

 現実にはない極端な例だが、海外の人がしているのは同じような質の行動ではないだろうか。

 そこにはある種のコスプレ感であるとか、文化的異物の楽しみという意識があって、そこに必要以上に入り込んでいる気がする。


 もし、技術の外形ではなくその本質の理合に感銘を受けたというのであれば、袴に日本刀というスタイルを離れ、もっと新たなもの、現代にあったスタイルになってしかるべきだと思う。

 それはブルース・リーにおけるジークンドーであったり、南米から発生したグレーシー柔術であったり、いくつも存在している。


 それでもやっぱり日本と同じ道具やスタイルで追求しているというのならば、やっぱりそこには「オレのやりたいジャパンのサムライ・アーツ」みたいなものがあると思う。

 誤解のある人たちと外に出ている形は違うし、より日本に実際にあるものに近いのだけれど、根本的な欲求の部分では同じじゃなかろうか。




 現代の日本で古武術なんかをやっている日本人も、環境や文化が連続性のあるより近い立場ではあるけれど、そういった部分では海外の人と変わらないかもしれない。

 古武術の技と称して、本来はそれだけを取り出して扱ったりはしないものを「本来の武術」なんて言い出したりしている人がいる。

 現代の何かに対する批判の中で古武術を取り上げて「これが昔は普通だった」なんていうのだが、そこには実際の武術ではなく発言者の「こうであってほしい古武術」像が垣間見えるわけで、意地悪な視点だけどそこはどうだろうと思うときがある。

 その技術や理論・運動から、「古武術の」という前提を取っ払うと、それ自体は持ち上げられるほどには魅力的なものじゃなかったり、いってみれば普通の範囲の言説だったりするんじゃないですかねえ。



 という深い含蓄があるようなふりをした締め方をしてみた。


 合気道の英語教本で天地投げの英語名が「ヘヴン・アンド・アース・スロウ」という大変にファンクな連想が起きるものになっていて、確かにそうなんだけど本当にそれでいいのかと思ったことがある。

(『アース・ウインド・アンド・ファイヤー』というファンク・バンドがあるんですよという若い人には分からないネタ)

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