先手必勝闇討ち上等・情け無用の中国的武術の話
一部知っている範囲の話なんで、全体がそうとか言わないが。
みなさん、中国武術というものはどう戦うと思っているのだろうか。
構えますか?
発勁で相手を打ちますか?
太極拳みたいに相手の力を利用して流れるように動きますか?
護身って、どういうことですか?
または、日本と中国の武術は前提がいろいろ違うよ。
以前に歴史的なことを絡めた中国武術話を書いたが、もっとあり方そのものについて書いてみようかなと。
今回はそんな話ですよ。
筆者が学んだものの考え方が異質だからという人もいるかもしれないが、どうも中国武術はこういうものみたいだなあ、と感じたことをちょっと書いてみる。
基本的に先手必勝である。
この先手必勝というのは、相手が構えて自分も構えていて、お互いに様子を見て先に手を出す、という先手必勝ではない。
相手が後ろを向いていてこっちに全く気付いていないので先に襲い掛かる、というぐらいのレベルの先手必勝である。
基本的に中国人というのは身内には異様に親切な部分がある反面、他人を信用していない。
むかし女神転生というゲームで属性をあらわす図というものがあって、縦軸がライト(光)とダーク(闇)、横軸がロー(秩序)とカオス(混沌)、中央の縦と横が交差するところがニュートラル(中立)というものである。
日本人であれば敵対関係にない外部、その辺を歩いている初対面の他人は、よほどあやしげな風体でない限りは基本的にニュートラルの周辺に位置すると思われる。
これは中国人の場合、身内以外の外部、敵でない第三者は基本的にダークかつカオスの領域になる。
中国という大地がすでにカオスやんけ、という話もあるが古代から延々と役人や軍隊の腐敗と不正がつきもの、すべてやったもん勝ちという地域が育んだ意識というのは日本人の標準意識から考えると、理解できないことがある。
近年になって中国がひどいとか悪辣だとか中国共産党がとかいう話があるが、昔からひどい面では一貫してひどいし、多分今後も変わらないので変わらない前提で上手くやっていくことを考えた方が建設的だと思われる。
政治的な話はどうでもよろしい。
そういうわけで、身内以外の人間は潜在的な敵である。
大変自己中心的であるが、国に世界の中心を意味する「中華」という名前をつける所のことであるから、自己中心的であることこそ当たり前ともいえる。
そうなると彼らの価値観における護身にとって肝心なのは、いかに主導権をとって先に手を出すか、ということになる。
相手が先に手を出してから、という考え方は存在しない。
日本の武道や武術を行なっている人は、「自分から相手に襲い掛かる」ということを想定したことがあるだろうか。
ちなみに相手は別に悪人ではなく、単に自分と利害が対立する相手であって、場合によっては自分が社会道徳的に悪の側である。
日本の武道には「活人剣」といって、元は仏教からきた言葉らしいが、道徳的な意味では多くの人を救うために力を振るうこと、技法的には相手を先に動かして戻れない所まで来た時点でカウンターをかますことを意味するような言葉があるらしい。
筆者は日本人的な感覚からは「活人剣」とかいうのは馴染みもあるし美しい言葉だと思うのだが、中国武術的感覚でいくとものすごく「しゃらくさい」。
まず大前提として、中国武術は武術に道徳を求めない。
ヤバい奴(自分や身内に迷惑をかける可能性がある奴)には教えないという選別はあるが、武術をやることによって心正しくなるとか、武術が礼儀や忠誠心を養成する、ということを信じていない。
人格者であることと、武術の達人であることはすっぱり切り離されていて、そこを混同しない。
武術はすなわち暴力である。
武術は単に技芸であり、そこから天下の兵法という発想には至らない。
大の兵法と小の兵法は別のものであり、武術をやっていたので相手を効果的に脅せました、ということはあるが、武術で学んだ駆け引きが交渉で生きました、という感覚が無い。
(筆者は個人的に、昔の日本の武術も基本的に武術的境地と人間的境地は混同しなかったと思っているのだが、どうなんだろうか?)
先に述べたがあらゆる意味でも力が上の者が正義であるので、社会的立場の強いものが相手を殺してしまった場合、賄賂やら人脈やらを使うとそれなりにもみ消せる。
逆の場合、勝った者の言い分が正しくても罪に落とすことが可能である。
(現代でもかなりそういった状態であることが伝わっているだろうが、昔からそう)
であるため、死んだら死に損であり、基本的に徹底的に先手を取る。
後の先などという、相手を観察し様子を見、打たせてその後をとるなどという、そんな余裕のあるぬるくさい展開をほぼ考えていない。
日本では刀を持つのが武士階級で支配層で秩序の側であり全体の合意というような統治のバランスをとるが、中国は地位か暴力を持っているものがエゴを通すのが「秩序」であるので、勝つためには仲間も呼べば後ろからでも襲い掛かる。
命が助かるならばいくらでも命乞いをするし、きちんと手打ちにならなければ、許した相手が後ろを向いた次の瞬間には襲い掛かる。
であるからには、一瞬でも早くこちらから相手に飛びかかって一方的にボコボコにする、完全にブチのめすまでは手を止めない、というのが戦闘法である。
相手に先に飛び掛られた場合は、一撃を耐えるなり、受けるなり、カウンターを返すなりして主導権を取って一方的にボコボコにする。
こちらから素手で飛び掛らない場合というのはすなわち、近くにある椅子や机をブン投げる、武器になりそうなものが近くにあるのでそれを取る、という場合である。
相手の殺気を感じて手を出すというのでは遅い。
正味な話、どれだけ相手より先にキレて先に手を出せるか、みたいな領域になっている。
(キレた瞬間には手が出る)
日本の創作物なんかで、素手の争いで刃物を出すのがゲス扱いだが、むしろ先に出すべき、という勢いである。
一時期日本でタックルからマウントポジション(馬乗り)に対して、どう対処するか、対処できないものは格闘技失格みたいな風潮があったが(今もあるのかな?)、当時筆者もどうするんですか? と訊いたら間髪いれずに
「すぐ取り出せるところに刃物を身につけておけば大丈夫!」
と言われて、ドン引きした記憶がある。
タックルから馬乗りなんて状況は、一対一の喧嘩みたいな状況ぐらいでしか発生しないだろ、命まで取られる事は無いから安心しろ、とも。
だいたい中国武術には寝技というものはない、心配なら習ってくればいいじゃないという、てなもんである。
そこまでの体勢に陥った所で「武術の身体操法で対抗する」という必要を全く感じない、という感じであった。
ニュアンスを伝えられるかどうかわからないが、つまり武術に「すべての技に対抗『出来なければならない』」というような、ある種の万能性(幻想・期待)を全く持とうとしていない、という割り切ったドライさを感じた。
むかし中国武術では武術家同士の試し合いで、互いの体を交互に3回打ち合うという形式のものがあった。
これは、取り返しのつかない状況になって遺恨を残さない、互いの体面をなるべく保つようにするためだったようだ。
ブルース・リーがアメリカに渡って現地の武術家と果し合いになり、途中までは普通に勝っていた。
ところが相手が道場中を逃げまわったので、リーも走って追いかけることになり、最終的にかなりグダグダの状態で勝利することになる。
そこで何か中国武術っておかしいよね、体力とか機動力とか無いと困るじゃん、と感じたのがジークンドーを生み出す動機になったという話なのだが、裏を返すとそもそも果し合いであるとか試合であるとか素手の一対一の闘争をメインとする、という前提自体が無かったってことじゃないの、と思える。
残っている古い試合動画を観るとグダグダなものが結構あるのだが、多分互いに距離を取ってペース配分して試合を行なう、という感覚が根本的にわかっていなかったのだと考えている。
相手が何をやってくるか分からない、というのがまず大前提としてあって、一瞬で勝負がつくか、グダグダでドロドロの泥試合になることが多かったようだ。
太極拳などを中心に、中国武術にはタオの哲学がどうのこうの、という深い思想が最初から内包されているように思わされているが、筆者は多分そのように気功やら道教やらと混じったのはかなり新しいと思っている。
長く見積もっても200年ぐらいなんじゃなかろうか。
易や太極の思想が、というのは深いことをいっているような気がするかもしれないが、あれはつまり全ての物質は原子から構成されている、というのと似たようなことを言っているのであるからむやみに感心するのは禁物である。
あ、そうそう、それと日本人と違って「負けから学ぶ」という感覚が無いような気もする。
日本人は負けなら負けなりに妙味みたいなものを見出すが、彼らは克服は目指すが、その負けがどういう風に味わい深いものか、なんて陶酔をしない。