「殺気」とか「剣気」とか「隙がない」とかはどんな感じなのか
思いついて書きあがったものから出しているので、我ながら話題の飛びっぷりがひどい。
定期的に「初心に返ろう」と思ったり、「前回と全く脈絡がないけど、思いついたから書いちゃえ!」を繰り返しております。
そんな今回は「殺気!」とか「剣気を感じる」とか「むう、隙が見当たらぬ……」なんて事を表現でよく見るけど、そんな気配とかはっきり分かるものなの? という話をお送りしますよ。
いつものことだが最初に結論だけを言うと、分かるよ!!
人間はそれなりに感覚があって、例えば後ろからガン見している人に「誰か見てる?」と気づいたり、何気なく横を見たらこっちを見ていた人と目が合ったりするが、あれがそうだ。
普通の人は特にその感覚を高めたりはしないのでいつも出来るとは限らないわけだが、例えば相手と二人しかいない広くて静かな所で後ろに立ってもらい、ある程度の時間見続けたり、視線をそらしたりして感じ取ることを行なってみると、案外当てられる。
こっちを見た瞬間に分かるほど鋭くはないだろうしタイムラグもあるだろうが、繰り返しているとそれなりに反応できる。
また、相手の攻撃意志の発動とその直前の瞬間も、なんとなく分かる。
これもやっぱり周囲に誰もいない二人だけの静かな場所で、何度か動いてもらうと「機」が高まって実際に相手が動くほんの少し前に「?」という瞬間がある。
「動く/動かない」の意識が半々ぐらいになった時、どういうわけかこちらも「あれ? ひょっとして動くのかな?」と不思議な疑問系の感覚がある。
この「?」から相手が実際に攻撃に移るまでの瞬間に両手をパチンと叩く、いわゆる相撲の「猫騙し」をすると、相手がビクッと反応して呼吸が一瞬止まり、動きが停止する。
もう一つ、「?」を感じて攻撃に移った動き出しの直後にこっちが動くと、カウンターのタイミングになる。
ちょっと文章だけではタイミングを説明しづらいが。
早すぎても遅すぎてもダメだしタイミングに相手の個人差もあるが、何度もやっていると「どうもここっぽい」という瞬間が出てくる。
その瞬間らしい所で待ちの方が「ええい、勘違いかもしんないけど、動いちゃえ!」という勢いでやると、結構成功すると思う。
自信なさ気にやると、そこでほんの刹那の差が出るのかどうかは分からないが、ほぼ失敗する。
これを「先の先」とか「後の先」と呼ぶかもしれないし、こういうのを感じるのが水月移写と言うのかもしれんし、言わないかもしれん。
責任は持たん。
よその人には別の意見があるだろうから、まあそんな感じですよ、と思ってくんねえ。
感じ取ろうと待ちの体勢になっている時は「無念無想」とかいう高度そうな状態ではなく、軽く周囲全体にボーっと注意が拡散している感じ、というのが一番当てはまる。
ここまで書いてなんだが、これらはあくまで攻撃意志であって、「殺気」というのはちょっとあてはまらないだろう。
というか、普通に生活している筆者のような一般社会人で、殺気を感じるような瞬間があってたまるか。
「剣気」というのはまあまあ表現としては当てはまるかも。
「やるぞやるぞ」って感覚で、こっちからすると「来るぞ来るぞ」って感覚ですよ。
「機」が高まると書いたが、これが自分のものなのか相手のものなのか共鳴しているのか何ともいえないもので、こういう意識とタイミングが一緒になったものを「氣」とかする人たちがいて、日本人的感覚の「氣」はこれだと思われる。
(「呼吸」とも言うねえ)
中国的な感覚の「氣」のとらえ方はもっと物質的で、原子みたいな扱いで、こういうのは「意」と「氣」の複合作用とされてると考えられるのだが、まあ、そんなうっとおしい話はどうでもよろしい。
あるタイミングで大声で気合をかけると相手がガクン、と力が抜けたり吹っ飛んだりするのは、こういう何やらグレーな領域に働きかけるものなのだが、それなりに色々理屈があるので追求し始めると面白いらしい。
時々、肉体的鍛錬を追及していた人がうっかりあっち側にいってしまって、「高度な技術」とか「達人技」とか言い出すことがある。
ものすごく単純化して分かりやすい攻撃意志のやりとりをしているうちに、「あれ? この瞬間に働きかけられるんじゃね?」とタイミングを我流で掴み、やってみたら出来たので面白くなって試しているうちに、どんどん仮定の理屈を試すと出来ちゃって返ってこれなくなり、最終的にはその「氣」たらなんたらいう所から人に教え始めちゃったりしてしまう。
この技術はかかりやすい人とかかりにくい人、かかりやすいシチュエーションとそうでないシチュエーションがある。
一番最初に始めた人はいざとなれば元々の肉体的技術でかからない奴をぶん殴ればすむのだが、後からそっちの技術だけを教えられた人がうかつに試して、かからない状態にハマってひどい目に遭ったりする不幸が生じたりする。
中国武術で「凌空勁」などといって離れた状態から敵に働きかける、というのがこの手のたぐいである。
確か日本で出ている書籍だと陳炎林の『太極拳総合教程』(福昌堂、たぶん絶版)でも、「奥深いものではあるがあんまり追求すんな」(うろおぼえ)と書かれていたはずである。
武術に絡めて書いたが、一般生活内のシチュエーションでも第三者として横から二人の人物のやりとりを見ていたり、あるいは直接自分がそのやりとりの場にいて、相手に対して「あ、これはキレる」と思っていたら、案の定怒り出したという時があるだろう。
子供が泣き出しそうな瞬間であるとか。
こういうのは人生でよく遭遇する事態なので経験則的に「この感覚はもうすぐ○○が起こるな」と察知するのだが、相手の攻撃意志を感じ取るのも似たようなものだ。
この感覚は毎回同じ手順での攻防を練習する、相対の型稽古で養成されやすい。
ただの決まりきった手順の攻防、と考えると型稽古は無味乾燥なものなのだが、ものすごく分かりやすい限定したシチュエーションで一つ一つの攻撃の機を捉える、と意識しながらやっていくと、こういう「あ、来る」というのが分かる。
ただ注意しておきたいのが、乱戦の中でもう相手も自分もスタートしている状態でこの感覚をあてにするのはかなりの博打であることだ。
一対一だと顕著に現れるが、これが多人数であるとか、横入りがあったりするとそういう細かい感覚よりも、全体の流れの中での勢いの方が重要になる。
また、一対一でも試合ならば生かせるかというと、試合ではこのタイミングの仕切りが横でごちゃごちゃ言ってくる審判(意識しているかは知らないが、横から「はじめ」とか「待て」とかいって、一番分かりやすい「機」の瞬間は全部審判が仕切ってる)で、始まりであるとか攻撃意志の中断であるとかが何気に審判に丸投げしてあって、それに気づかないとあんまり意味が無い。
技の攻防の最中や一つの技をかけている中で、うっかり相手から視線を外してしまうのを「目を切る」なんて表現するが、実際に切れているのは視線ではなく意識なんである。
現在だと「待て」から「中央に戻って」なんて時には、特に何も考えずに相手に背を向けて中央に戻っちゃったりするのだが、その時にずっと相手から視線を外さずに動いていくと、意識が切れずにちょっと面白いことになる、かもしれない。
(とはいえずっと相手を見続けていると、「睨んでる」というように思われて審判の心象が悪くなるのだろうけど)
「隙がない」というのにも、色々ある。
武器や手を前に差し出しているが攻撃する気配が全く無く、「待ち」に入っているのは隙がないといえば隙がない。
ただし「隙がない」のレベルとしてはそんなに高いわけでもなく、大怪我をしないように守りを固めているので外に向かう破綻が見られない、という格下がするものなので、強引な力技で突破されたりする。
いつでも変化に対応できるような柔らかさが感じられ、力みが全く見られず、自分から仕掛けるとなんか簡単にしのがれそう、という感じに溢れまくっているのが格上の「隙がない」というやつである。
だいたいこういうのはもう最初の向かい合った時から主導権が相手に握られていて、何をやってもだめそうなので、時代劇なんかでよくある「参った」と声をかけてからの土下座→命乞いの流れが美しい。
ただまあ、実際に動き始めると「あれ?」っていう立ち姿が美しいだけの人もいるので、案外最後まで勝負を投げないと意外なところで破綻が出たりする。
こともあります。
責任は取らん。
道場ではそんな感じで無敵なのに、大きな大会ではプレッシャーで負けたりする人もいます。
格上の実力であるというリラックスがもたらす余裕による境地であったりもするので、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というか「死中に活あり」というか、自分の死命を賭け金にして完全な相打ち狙いで突っ込むと、命惜しさに破綻が見られる。
こともあります。
やっぱり責任は取らん。
日本の武術流派で、秘伝に相討ち技があるとか、基本が相討ち狙いの狂った流派が時たま出現するのは、死ぬか生きるかという一瞬の迷いで相手に刃が届くか届かないかを分けたりする、それなんてチキンゲーム? という理由からなのだが、薩摩の示現流系みたいなちょっとやっていた人たちの倫理とか環境自体がおかしい所以外は普通に命が惜しいのでなかなかその理屈どおりにはいかない。
最終的には勝つから命が賭けられる、という考えだとなぜか上手くいかず、やっぱり完全に生死を度外視して突っ込める奴の方が生き残ったりするようなので、なかなか難しいもんですな。
もいっちょ上の段階で「隙がない」を飛び越えて、「隙がないのかあるのかよくわからん」というものがある。
本当に分からない。
相手をしていただくと負けるのだが、負け方が自分でも嘘くさい。
どう見てもそんなに動きが速くないのだが、向かい合っていると武器の先端がいきなり予想外の所に入っていたり、拳がなんでそこにあるのか分からない所から入ってきたりする。
別の人が相手をしているのを横から見ていても嘘くさい。
お前わざと当たるところに体動かしてんじゃねえのと思ったり、普通にかわせるだろと思ったりする。
この手の人は人間のネクストステージにいらっしゃる(だいたい高齢)ので、土俵自体が違うようだ。
実際に体験しないと嘘っぽい、というか体験しても嘘っぽいので、まあそんなこともあるらしいよ、と思っておいたらいいよ!
書いているときのテンションで、一回が長いときと短いときが極端すぎますな。