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武術とお金の問題(教える側編)と、その他いろいろの話

 最近、特に連続して記事をアップしているわけでもないのに微妙にアクセス数が増えていて大変不思議である。

 どこから人が来るんだろう……?


 さて、こちらは後半となる教える側のお金の事情である。

 教える側のゼニが必要なんや、というかあいつらはワシが善意だけで教えとると思っとるんかアホンダラ、というか誠意や熱意は「金が全て」ではないが明らかに大きな部分を占めているというお話。

 なに、人格?

 人格じゃメシは食えん。


 ついでに、書いているうちに後半が盛大に脱線して止まらなくなったのだが、分割するのもめんどくさいので「その他いろいろ」ということでそのまま掲載する。

 さて前回、一例として今日び少年団の空手でも月謝が5千円はするわ、という話をした。

 子供が30人もいれば月15万じゃないか! と思う人もいるかもしれないが、施設利用の会場費(大抵は申請書と一緒に数か月分をまとめて払っていると思う)、加盟費・登録費という名の組織への上納金、団体で持っている消耗品や鍛錬道具なんかの雑費を差っ引いて、指導する人間の頭数で割ったらまあだいたい小遣い程度である。

 団体によっては指導員研修みたいなことを定期的に受けさせられたり、上位組織のイベント事に手弁当で借り出されたりと、まあほぼ無償に近いボランティアみたいなものなんである。


 武術だけで食って行くために金を稼ごう、ということになったらまず生徒を増やさないといけない。

 そして生徒や教室を管理するために、当然組織的なものを作らないといけない。

 大きく社会に認知されるような大会等を開きたければ、金のある人や企業や団体から金を引っ張ってこないといけない。

 これが進んで行くと、武術で食っていくという当初の目的からどんどん外れ、武術で食っていくために武術以外の活動に力を入れて行かなければならなくなってしまう。


 そんな人間がいるのか、というとまあ案外かなりの数いるのだが、みなさん自分の修練は以前ほどとれなくなって、ピーク時の実力をキープすることや、さらに実力的に前進するという点があやしくなってくる。

 そういうのこそ、雑兵の小の兵法ではなく、天下に通用する大の平法となっている、というものなのかもしれないが、筆者はそういう人種の方々とは付き合いはなく、いちへっぽこ修行者としては単純に武術寄りの人の方に好意を持つので、そういう人々の話題でいきますよ。


 話を進める上でひとまずここに、とある達人先生がいるとしよう。 


 自分が武術で食っていく上で武術以外にあんまりエネルギーを割きたくない、となったら、雑事や経営で自分をバックアップしてくれる奴を探してくるなり、決めたりして、そいつに任せていきたい、というのが人情である。

 だが、そんな便利な人間は自然発生しないので、自分の手近なところで育てるなり発見するなりしていくしかない。


 もし、率先してそういった雑事を引き受ける人間がいるとしたら、そりゃあもう達人先生は頼りにしまくりである。


 月謝を払っている人の多くは、基本的にお客さんである。

 この人たちは別に生活があり、まあ一緒にお酒を飲んだりぐらいは付き合ってくるかもしれないが、例えば先生の家の引越しの手伝いであるとか、庭の掃除に呼べるほど尽くしてくれるかといえば、かなり微妙だ。

 なんで金を払ってそんな事をしなけりゃならないの? というのはごく普通の人の感覚であるが、先生側の事情から言うと、その他大勢の連中と同じぐらいの月謝で通っている奴が、たとえ才能があるとしても目をかけて育ててしまうものかというと、そうでない場合が多い。

 そいつは、いつかどっかにいってしまうか、基本は自分のことを中心に考えている外部の人であって、決して「身内」ではない。


 この、血族関係は無くても切っても切れない関係に進むのが内弟子であるとか、拝師弟子であるとされているもので、ある種の擬似家族関係となる。

 武術に関する事柄においてはただの家族以上の繋がりを持つので、その達人先生の死後に色々問題が起きたりするのだが、それは後述する。


 身内になると、単に指導している時間以外の、「達人」ではない「人間」である先生との関係ができてしまうわけで、完全無欠の聖人は普通存在しないため、武術的な身内となって以降のほうがはるかに気を遣う。

 人間としてちょっとどうかという部分も目にしてしまう。

 先生だってまさか、自分が人間的に高等だからそいつが従っているとは思ってない(たまに思っている人がいるが)わけで、自分が武術的に何がしかの優位に立っている、そのただ一点のみがこの関係を支えていることは知っている。

 拝師とか内弟子という制度は昔からそれなりの長さ続けられているので、それは「選ばれ限られた人間/後に流派を支える人材」的に良くとらえている人もいるだろうが、その先生側から捉えると、そいつはいつか自分に取って代わる人間である。

 そうであるからには、そこにはちょっと特殊な緊張関係が生まれる。


 この身内感覚の、ややこしい実態についてはいつか書くかもしれないが、めんどくさいので今回はスルーする。


 この師と弟子という緊張関係の段階を華麗にスキップするものとして、金がある。

 経済的なバックアップ関係と表現してもよろしい。



 世の中にはたまに金も持っているが武術への興味や実力もある奇特な人がいて、達人先生に金を、それも結構な金額を、せっせと出して面倒を見てくれる人がいる、場合がある。

 お寺や宗教や社会奉仕的な寄付というより、アイドルとかホステスとかプロスポーツの選手とか相撲取りに貢ぐ感覚に近いようなのだが、そういう立場に立ったことがないので、正確なところはよく分からん。


 が、まあそれは達人先生にとっては大変ありがたい人である。

 そういう自分がまだまだ強くありたい達人先生というのは、自分の武術を深めるための調査もしたけりゃ資料も集めたい。

 ある程度の金銭的な余裕のある武術家がなんでルーツ探しを始めるかというと、自分の手の届く範囲は掘ってしまったので、新たなインスピレーションを得るためである。

 こういう達人先生がたまに他流の研究に手を出したり、全く別分野の本を読み始めたり、よその流派の先生と互いを褒め合う気持ち悪い関係に発展したりする(この書き方は我ながらちょっとひどいけど、本当にそう見えるときがある)のは、立場上今さらだれかの下に立つわけにいかないので、新たな刺激を求めるためである。

 筆者程度のヘタレ修行者すらそういう事をやってしまうのだが、そういう人たちはもっと徹底して求める。

 だからお金と時間はどちらも必要で、金のために忙しくなるとそういうわけにはいかないので、そこでポンと資金を出してくれるのと両方の手間を省いてくれる。

 普通は同門同士で寄り合って金を出し合ったり、どこかの出版社やら体育振興の公共組織を丸め込んで金を出させたり(不穏な表現)と、色々手間がかかるのである。


 内弟子は自分の「財産」を継いでいく人間ではあるが、どこかでその「財産」を根こそぎ奪った上で立場も取って代わるか、あるいは奪って外部に出て行く可能性がある。

 お金持ちさんは、同じ事をしたとしても、最終的に金は残る。

 これはもう、特に家族もちの達人先生にとってはかなりの差である。

 家族はいくら理解があるといっても、武術的価値観は共有してくれないので、「それは本当に必要なお金なの?」みたいなことを言われるし、内弟子は内弟子で理解があって「分かりました、弟子一同死ぬ気でお金を積み立てます!」みたいなことを言っても、達人先生は「今」行きたい、「今」欲しいのであって、そんないつか行けたらいいなでは萎えるのである。

 ご家族の方でも、だんなさんとかお父さんの周囲に、何だか自分たちとは世界観が違う連中が出入りしていて、自分たちからは良く分からない理由で集まったり、どっか行ったり、金を持ち出したりしているよりは、なんだかお金持ちの頼りになる人がいて、その人もちょっと趣味がおかしいけれども、社会的に見ても成功していたりそれなりの地位のある人で、おとーさんの道楽に金を出すどころか家族の生活の面倒もみてくれる、というのはかなりポイント高い。


 武術で陰口を叩かれたりする、段位や免状の「義理許し」「金許し」というのが生まれたり、政治家とか会社社長みたいなのが「顧問」として名を連ねたりするのには、これらの理由がある。

 追加で書くと、時々こういうのに大学の教授みたいなのが寄ってきたり、引き込まれたりするのは、この金が権威というのに変わっているだけで、似たような事情である。

 彼らは形式的には弟子であることがあるが、ある種「客分」の位置である。


 その達人先生の死後、俺は先生の生前に散々面倒見た人間だ、という立場で流派内・団体内の後継者問題に入ってくると、たいそう揉める。

 そういう場合、ご家族は実際に生活や金銭的な面倒を見てくれて、これから先も面倒を見てくれそうな、お金持ちさんを頼る。

 法人とか商標問題とか、生前に弁護士を立ててきっちりしておかないと実に揉める。


 達人先生が自分がどうありたいかによっては、生前でも揉めるときがある。

 実力第一番の弟子が後継者から外れたりするのだ。

 その先生が、弟子を自分が受け継いだ武術的遺伝子を残す人物と見るか、こいつは俺から全てを奪って俺を超えて行こうとしていると見るかでは、対応が違ってしまう。

 それを持っていかれるぐらいなら、ずっと客分扱いで金の面倒を見てくれたこの人間を後継者ということにして、自分はその流派・団体の歴史の中でずっと神格化された権威として残りたい、と思ってしまったりするようなのである。

 大変ですよねー。


 そんな事考えるならなんで弟子を持ったの? 育てたの? と思う方もいるかもしれないが、みんなもRPGや育成シュミレーション、ポケモンのゲームで何かを育てたことがあるだろう?

 あれは、楽しいじゃないか。

 ただし、ゲームのキャラクターは自分の地位を脅かしたりはしないし、遊び手を上回ったりしないが、弟子は現実の自分を超えることがある。

 本当にそんなぐらいの動機だから。

 弟子や生徒の「いつか強くなりたい」はいつなのか分からないし、本当に強くなれるのかすら分からないのと一緒で、先生の方も弟子が本当に強くなってみて初めて、「しまった」とか「こいつに任せたい」と自分が思うことが判明するらしい。


 盆栽の接木みたいで、色々試せて面白い、といったとある先生とかいます。

「これが○○だ!」

と教えて生徒にやらせ、組み手で盛大に自爆したのを見て

「うーん、やっぱりこの技は使えんなあ」

と言っていたのを、とんでもねえジジイだったと回想した話を聴くと、心温まりますなあ。


 それ以外には、自分がコントロールできる色んなタイプの練習相手が必要、というのもある。

 自分が到達した境地を測るための目安は欲しいが、師匠はもう死んでるし、立場上かつての兄弟弟子たち同士で試すわけにもいかんとなったら、自分で作り上げるしかない。



 なにかもう、先生側のお金の問題を逸脱しているが、さらにちょっと書いてしまおう。


 先生と弟子の関係が流派や団体の後継者の地点に及んだ時、これがよじれてしまう原因として、その先生自身が弟子であった時の師との関係、どうやって強くなったかというのが、本人の性格とは別に大きく反映していると思われる。

 また、その先生と弟子の年齢的な開きも大きく関係する。


 師匠の技を「盗む」ことによって強くなった人は、自分が掴んだものを人に盗まれるのを徹底的に警戒する。

 また、師はいても自力で組織や流派を大きくして成り上がった最初の人間は、自力で築き上げたものが他人のものになることを、強くおそれる。


 公刊書などで立派な達人とされているある人物の話を一つの例として書くが、晩年になってようやく本当の技を教えたために弟子がようやく強くなれた、それまでの全ての弟子は全く先生に敵わなかった、という話になっているのだが、筆者の見聞きした範囲ではそれは事実とは異なると思っている人々が、そこかしこにいる。

 その先生がもう少し若かった頃、弟子であった中に実力のあるもの、これはという才能のある人物が出現すると、だんだんと関係が気まずくなって彼らがその道場を離れざるをえなくなった、というケースが何人もあった。

 また、彼らはその先生と年齢の開きが親子ほどは離れていなかったので、人生経験にそれほど差がなく、先生側ではあまり知られたくない人間的な事が分かってしまう。

 多分、彼らの方では気にしていなかったのだが、先生の方が知られていることに耐えられなかったようで、どうしても疑ってしまっていたようだ。

 これまで自分がしてきた事が跳ね返ってくるのはそういう時で、自分が師の技を盗んだことを隠していたことを思い出し、弟子を信用できなくなってしまうのだ。

 結局、その人が後継者としたのは孫ほど年齢の離れた、社会的な地位もあった人物だった。


 歴史上、いくつもの流派でも例があり、中国武術の世界で大先生が最後に教えた弟子を「関門弟子」などといって特殊な扱いをする。

 そういう最後の最後の弟子というのは、最初の弟子(開門弟子)がその先生の一番元気だった頃の迫力を継ぐのに対し、年をとっても残ったエッセンスを継いでいるとみなされる。


 だが、筆者のそんなに広くない見聞の中でも、それぐらい年齢が離れた人たちというのは、今俺が最後の最後に到達したこの境地を、若くて可能性のある素材にいきなりぶち込むとどうなってしまうのだろう、と楽しくなってしまうようだ。

 流派の精髄を継いだというと聞こえはいいが、流派というよりもその先生個人の一番『濃ゆい』部分を継がされてしまうようで、客観的に見て、あれは異端といわれても仕方ないわーと思ってしまう風格になっていることは、まあ、よくある。

 これはもはや大師兄たちとも違う領域に入ってしまっているのだから、新しい武術とも言うべき! なんて決意をして新流派になってしまったりすることがあるので、罪な話ではある。

 達人が最後に獲得した地点からスタートしている俺たちこそが最高の流派、なんてことをいう人々もいるらしいが、過去の先人の探求の結晶である数学の公式を使っている中学生はみんな数学的に素晴らしいかというとそうではないのと同様、過程をすっ飛ばして教えられる境地には相応の問題が発生するので、最終的な手間はあんまり変わらないように見える。



 なんの話だったっけ。


 そうそう、歳の離れた最後に近い弟子が継いでしまう、ということだった。

 年齢差が孫ほど離れて、すごい大先生だ! 的な尊敬のまなざしの元気な人間でそれなりの実力があるのが寄ってくると、ともに長い年月関わってきたというと聞こえがよろしいが、互いに新鮮味のなくて、我慢は出来るがちょっと嫌なところも目につく古くからの弟子なんかに継がせるより、こっちの神様みたいに崇めてくる若い奴にまかせたいなあ、という考えが浮かんできたりしてしまうのも分かると思いませんか。

 今なら、彼の思い出の中ではとても素晴らしい先生として永遠に残るわけだし。

 もしそいつが本なんか書こうものなら、不世出の達人! と美しい話になるわけだ。


 先生だって人間なので、最終的に自分にとって一番良い最後を考えてしまうのだ。



 まあまあそんなわけで、みなさんも自分の先生や老師のご指導を振り返って、相応の扱いをされているとか、過分に扱っていただいているとか、どう考えても見合ってねえ! というさまざまな事柄を見つめなおしてみるのもいいかもしれない。

 全く関係ねえな、という人は、そういうものかー、と酒の肴にでもしていただきたい。


 知っている人はみんな知っている、そういう話を書いてしまったので新鮮味はないかも。


 ものすごく具体的な、3つぐらいの流派・団体の話を中心にあれこれお届けさせていただいた。

 何かがスパークして思わず実団体名を書いてしまいそうになったが、これは本当に修行しているか確認できないウェブ上の存在である筆者の書くことであるので、まあそんなこともあるのかなー、程度に適当にスルーしていただきたい。

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