「柳生家の人は自分たちのことを柳生流とか柳生新陰流とはいわないんだぜ」(ドヤ顔)
なにやら数年前に書いていた文章を発見。
書いているうちに楽しくなって余計なものをつけ加えまくっていた形跡があるが、その辺は適当に加筆修正しつつアップしてみる。
定年で仕事を辞めた後、暇つぶしに一族のルーツを調べ始めたらはまりまくって自費出版で本まで作って身内に配り歩く人がいる、という話を聞いたことがあるが、こういうのを書いているとその気持ちが分かる気がする。
筆者は到底そんなレベルにいくつもりは無いが、いっさい自分に関係ない流派の伝書を古書で買い漁ってしまうのはきっと楽しかろう。
「柳生家の人たち自身はあくまでただの『新陰流』と称するんだよ」
というウンチクを何かの活字作品で見て、え、そんなちょっと調べたら分かる内容を一般には知られていないマニアック情報を知ったんですよ的に出して、行数を稼いでいいのか! と衝撃を受けたのが10数年前。
今ではネットを検索するとWikipediaをはじめとしていくらでも載っている情報だが、確かまだWikiが影も形も無かったか、ほとんど存在自体を知られてなかったかぐらいののどかな頃の話である。
世の中は結構ヌルいぞ。
そう強く思ったことを今でも覚えているぐらいなのだが、そのヌルさは適温であることを当時の筆者はよく分かっていなかった。
まさか武術とか武道を学んでいると言うのは一般の会話に出すと説明が色々面倒くさいとか、休みを取るときに変な目で見られるとか、明らかに変な人扱いされるとか、世間様はそういうようによく知らないことに不寛容であるとは思っていなかった……。
現在、筆者が他県に泊りがけで学びに通うために使っている言葉は「昔から健康に興味があって、太極拳みたいなのに通ってるんですよ!」である。
ちょっと変わった趣味の人扱いなのは気にしない。
そしてたまに言い訳した相手が実は太極拳をやったことのある人だった時の、さらに言い分けが面倒くさくなるあの感じ。
一方で普通の武道を学んで週何日か地元で習ってる人の、「え、何をわざわざ別の県に行ってるの?」というあの不思議そうな態度。
これからも強く生きていきたい。
いつものように話が脱線したが、さて今回のタイトルの話である。
柳生の話はいくつかの似たケースを思い出させる。
とある流派で異端と目されて××流○○派とされている人が「俺が異端なんじゃなくて、他の連中が△△先生から教わった内容から変化したんだ」とあくまで自分こそが○○流だと言っている人とか、例えば正統○○流という、その名称が一部の人々に反感を抱かせる原因にもなっている門派の創始者と目されている人が、自身の武術についてはただ「○○流」としか名乗ってなかったとか。
そういった分かるような分かんないような事柄全体を説明するのにちょうどいいメジャーな流派に日本の一刀流剣術がある。
この流派の歴史はなかなか面白い。
本当に面白いのでみんな自分で色々漁ってみよう。
一刀流の前身となる流派から今回のケースの話と絡んでくる。
まず、中条長秀さんという人がいて、それまで学んできた念流という流派の技術に独自の工夫を加え、これははっきり独立している中条流という流派がある。
中条さんちはお子さんが絶えたので弟子筋に伝わっていくのだが、その過程で富田さんという一族が関わってきて、それがまた富田勢源とかいう達人が出てきたせいで、富田さんち自体は中条流として伝えているのに世間では富田流とか呼ばれるようになってしまう。
富田勢源に学んだ中に鐘捲自斎という人がいて、これが鐘捲流とか鐘捲外他流とかいう流派を立てる。
鐘捲自斎は外田一刀斎とか戸田一刀斎と名乗っていたとか。
さっきから「とか」というとても適当な表現を使いまくっているのは筆者がいい加減でいつも使っているせいもあるが、古い流派はけっこう名称が適当で、正式な伝書などで文字がはっきり残ってればいいが、「トダ」という音が伝わればいいかと全く違う漢字をあてたり、ものによってはカタカナで流儀名が書いてあったりするという豪快な場合がある。
今回の場合はこっちも、とにかく「トダ流」とか「トダ一刀斎」と名乗ってたらしいよ、ということを把握しておけばよいのだろう。
この鐘捲自斎に学んだのが一刀流開祖の伊東一刀斎ということになるのだが、本人はどうも一刀流を称したことはなかったらしい。
じゃあ何だったのかというと、伊東一刀斎の弟子の一人である古藤田俊直の古藤田一刀流(別名・唯心一刀流)系統の文書で、伊東先生は「トダ(外他)流」でしたよとか書いてあったりするらしく、どうやら「トダ流」と名乗ってたんじゃないかと思われる。
今はどうなっているのか知らないが、昔は本によって伊東一刀斎が学んだものが「中条流」だとか「富田流」だとか「鐘捲流」だとか別のことが書かれていて、どれも見方によっては本当のことなのだが事情を知らないこちらは一方的に混乱させられたものである。
現在の時点で紹介するのには「中条流系統の剣術を学んだ」というのが一番ややこしくないような気がする。
二代目が神子上典膳あらため小野忠明。
一応言い伝えでは善鬼という名前の兄弟子がいて、ある時一刀斎が「よーし、二人で立ち会って生き残った方がワシの後継者だよー」と鬼畜な事を言い出し、みごと善鬼をぶった斬って後継者の地位を勝ち取ったこととなっている。
後継者の証しとして、一刀斎が10代で「鬼夜叉」と呼ばれてブイブイいわせていた時に、瓶ごと中に入っていた盗賊をたたっ斬ったので「瓶割」と名づけたという物騒な刀を譲られたそうな。
善鬼の姓が小野だったので供養のために神子上姓から小野姓になりました、という検証不能の伝説あるが、母方の姓を名乗ったというのが一応まともな話らしい。
伊東一刀斎はその後どっかに行ったまま行方不明、という適当な話があり、詳細は忘れたが誰かが神子上典膳が師匠の一刀斎と兄弟子の善鬼を闇討ちしたというダークな小説を書いていて、まあそんな話をつい書いてしまった人の気持ちは分からないでもない、と思う。
一刀流を名乗るのはこの代からである。
三代目は小野忠明の弟だか子供だか資料によって異同があるので分からないけどとにかく身内なのは分かっている伊藤忠也で、小野忠明が「キミは一刀斎師匠よりすごいので伊藤姓を継いじゃおう」ということになった。
本当にそんな話になったのかどうかは分からないが、忠也伝ではそういうことになっているのでそういうことにしておく。
あれ? 一刀斎は伊東じゃなかったっけ? と思うのだが、伊東一刀斎も資料によって「伊東」と「伊藤」の表記がわかれ、「トダ流」と同じで「とりあえず読みは『イトウ』さんっぽい」「『伊』は共通するので使ってたかもしんない」というあたりで手を打っておくのが吉。
有名な瓶割刀はこっちが継いでいるので、小野忠明の時の瓶割刀を継いだのが後継者の証し、という話の流れで行くならばこれが一刀流の正統後継者の流れということになるか。
忠也の後は弟子の中の一人が流派と伊藤姓を継いでる。
師匠と同じ姓はおそれおおい、という理由で「井藤」に改めて井藤忠雄。
この人の辺りで瓶割刀がよく分からないことになっていて、この井藤さんが小野家に戻したとか、紀州徳川に献上したとか、とにかく不明。
将軍家指南の小野家は忠明の息子の小野忠常が継ぐ。
ここんちも自分の所は一刀流だと思っているのでただの一刀流なのだが、小野家第四代・小野忠一に一刀流を学んだ中西子定が、
「俺の学んだのは将軍家指南の小野さんちの一刀流だから」
と、小野派一刀流と称する。
そんなわけで、小野さんちは相変わらず「一刀流」なのに、その弟子筋の中西さんが何故か「小野派一刀流」を名乗る妙なことに。
直接中西さんちに学んだ人間は「小野派一刀流」を称していたらしい。
ところが中西さんち以外で小野家から直接学んだ人たちも「小野派一刀流」であり、中西さんちが竹刀稽古の発展等で特色が強くなって他より突出して有名になってくると、まぎらわしいので区別のために「中西派一刀流」とされる。
この辺りまで、各派で伝えている伝書の上の表記は全部ただの「一刀流」である。
しかも伝書の内容もだいたい同じなので、派でわけて呼ばれるほどの特色の出た所では色々変化が起きているのに、伝書には全く反映されていないという困ったことが起こる。
一種の証明書類みたいなものとして扱っている人間には関係ないが、伝書の内容を研究しようと思った人間が出てくると、今やっている内容と違いが大量に出てきて困る事態となったようだ。
幕末から明治にかけての剣豪として有名な山岡鉄舟が体験したのがそれで、この中西派の高弟・浅利義明(この人がまた世間から「浅利派」と見られた)に学ぶが、中西派内で伝わっている実際の技術と、「一刀流」ということで伝書に書いてある内容が色々違うので、どーいうこっちゃと頭を悩ませることになる。
最終的に、小野家第十代の小野業雄の所に行って組太刀を見せてもらって「なーんだ、そうだったんだ」と大いに納得。
で、ここでまた唐突に出てくる「瓶割刀」(一刀斎以来のモノホンかどうかは不明)と呼ばれるものを継いだので、俺は一刀流の正統なんだと「一刀正傳無刀流」を称する。
迷惑な事にこの突然出てきた瓶割刀は鉄舟没後にふたたび行方不明になっちまうのだ。
ちなみに「一刀流」本体自体に宗家制度はないので、小野宗家とか中西宗家とか、現代だったら笹森宗家とかあるが、あくまでそれぞれの家伝の伝承、つまり「小野派」宗家・「中西派」宗家という限定した範囲においての宗家らしい。
まぎらわしい。
「『一刀流』とはあるコンセプトを指す」と最初から考えられて広まったとか想像すると、何かスゲエ壮大な気がしてくるがきっとそんなことはないな。
今でこそ「御流儀の名前を間違える人間などいない!」と言っている人がいるようだが、この日本的な「流」とか「派」という概念はまた独特で、「一刀斎さんの流れだよ」「一刀斎さんから小野さんの流れだよ」「一刀斎さんとこの流れの中でも中西さんちの流れだよ」というアバウトな捉え方があって、「流れを汲む」という言葉そのままのゆるいくくりであるらしい。
一方では完全に「○○流」とがっちり固定したものもないわけではないが、そういうのはあまりメジャーな流派ではなくて分派がなかったからではなかろうか。
冒頭であげた柳生流・柳生新陰流の話も、柳生家の弟子が「新陰流でも柳生の流れ」という説明をするならともかく、柳生家の人が「私は柳生の流れで」なんていうのはちょっとおかしいから、そりゃあ「私のところは新陰流です」というに決まってるだろう、と納得できると思う。
新陰流系統は新陰流系統で、もともとあった陰流に対して「新・陰流」というのが成立したのだが、そこは日本人、漢字は気分で変えました的な大量の「シンカゲ流」が発生している。
新影流、神影流、神陰流、真新陰流、ちょっと変わったところで直心影流……と、もりだくさんである。
興味を持った人は自分で調べてみよう!
そしてどこかに書いて。
ちなみに古藤田一刀流の古藤田俊直の弟子に「外他一刀流」を名乗った外他俊勝というのとか「新外他流」を名乗った土屋清右衛門がいたりと、さらに事態を色々ややこしくしている名称がある。
「陰流」に対する「新陰流」みたいな扱いなのかどうなのか。
さらに古藤田一刀流は唯心一刀流ともいうが、「古藤田さんちの一刀流」に対して「『唯心一刀流』」というがっちりした流名なのかというとそうではなくて、古藤田俊直さんは号が唯心なのでやっぱり「唯心さんの一刀流」だという……。
以前の回で書いたこともあるが、宮本武蔵の二天一流が「二天さんの流派」というのと同じである。
こういうのに比べると有名な北辰一刀流みたいに人の名前が関わっていない流名は独立心が強い方なのかもしれない。
唯心一刀流については異様に詳しい調べられているサイトさんがあるので、googleで検索してみると吉。
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