第38話 過去との出会い
祝賀会の熱気がまだ離宮の壁に余韻として残る頃――
リヴィアは静かな庭で一人、夜風に身をさらしていた。
春とはいえ、夜の空気は冷たい。けれど踊り疲れた頬を撫でる風は、むしろ心地よかった。
「リヴィア」
不意に背後から聞こえた声に、リヴィアは振り返る。そこにいたのは――アレクシスだった。
「……アレクシス陛下? こんな時間に、何をなさっているのですか?」
国王がこんな場所にいること自体が不自然だった。けれど、アレクシスはどこか愉快そうに目を細めて言う。
「ここは王宮の一角だ。国王がいて何か問題でもあるか? ――妹よ」
どこかからかうような声音に、リヴィアは言葉を失う。
「こんな夜更けに、淑女のもとを訪れるなんて、国王陛下らしからぬ行いですわ」
それでも強く言ってみたが、返ってきたのは軽やかな返答だった。
「君は私の妹だ。兄が、疲れた妹を見舞って何か問題があるのか?」
――問題大ありです。
そう喉元まで出かけた言葉を、リヴィアは飲み込む。
「それに――この場所は、君が“私に会いに来る時”に好んでいた場所だったろう?」
かつて、夜の離宮の庭で、彼と密かに会っていた日々。
あの秘密の恋が、アレクシスの口からあっさりと口にされたことで、リヴィアは言葉を失った。
「……リヴィア王女。君を欺き、恋人のふりをして通路の情報を引き出した件について、私は謝るつもりはない」
その瞳は真っ直ぐにリヴィアを捉えていた。言葉を濁さず、堂々と向き合うその姿に、リヴィアは目を逸らすことができなかった。
分かっている。
それが反乱を確実に成功させるためだったことを。
リヴィア自身が王女としての責任を放棄し、国家の動きに無関心だった――その報いであることを。
「……分かっております。民のため、この国のため、仕方のなかったことだと。今は、そう理解しております」
「それだけではない」
アレクシスの声が低く、静かに続いた。
「セレスティアは、カリクスト二世の命で幽閉されていた。――急いで助け出す必要があったのだ」
その言葉に、リヴィアは目を見開いた。
知らなかった。
父は姉だけを、本当に娘として愛していた。
けれどその狂気が、愛すらも歪ませ、牢へと追いやっていたとは。
(あの時、父は……そんなに病んでいたの?)
リヴィアは思い出す。時折感じていた父の異常な言動、距離のある視線。
今になって、あの冷たさの意味が、少しずつ繋がっていく。
「それでもです」
リヴィアは静かに口を開いた。
「姉セレスティアは、民の希望でした。彼女を救うことは、民を救うのと同じ意味を持ちます」
その真っ直ぐな言葉に、アレクシスは感心したように目を細めた。
「――本当に、ずいぶんと変わったんだな」
「それは、貴方様もですわ」
あの頃――優しくて、誠実で、夢の中の騎士のようだった「シリウス」。
今のアレクシスとは似ても似つかない。
けれど、本当はこちらが素顔なのだと、リヴィアにはわかっていた。
「だが……」
アレクシスは少しだけ目を伏せた。
「これだけは謝らせてほしい。君の心を弄び、傷つけてしまったこと――申し訳なかった」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
「っ……頭を、お上げください! 国王が、臣下に頭を下げるなど……」
「これは、君の“義兄”としての謝罪だ。受け取ってほしい」
顔を上げたアレクシスの瞳は、静かで、どこまでも真摯だった。
恋だった。
優しく、夢のようで、けれどすべてが嘘だった。
――それでも今、この男はリヴィアに対して“家族”として向き合っている。
父に顧みられず、姉に嫉妬し、誰からも必要とされていないと思っていた日々。
その果てに、リヴィアが手にしたものは、傷ではなく――温かな、ささやかな繋がりだった。
「……受け取りますわ」
静かに、けれどはっきりとリヴィアが答えると、アレクシスの表情がふっと綻んだ。
泣きたいような、嬉しいような。
言葉にできない想いが、あの厳格な顔を柔らかく染めていた。
「それにしても――賊を撃退した、というのは本当か? 最初に報告を受けたときは、何かの冗談かと笑ってしまったよ」
アレクシスが、どこか面白がるような口調で言った。
「知っているか? 今や“リヴィア王女の武勇伝”として、民の間ではちょっとした語り草らしいぞ」
「……武勇伝、ですって?」
思わずリヴィアは眉をひそめた。
アレクシスはその反応を楽しむように、口元に笑みを浮かべたまま、まるで物語を語る語り部のように続ける。
「こうだ。フェルシェルの町がまさに賊に襲われようとしていたとき――復興のために地位を捨て、民の中に身を投じていた“リヴィア王女”が、颯爽と騎士団を率いて現れる」
「……」
「そして、賊の頭目に一歩も臆せず立ち向かい、剣を抜いて戦いを挑んだ。その凛とした姿は、まさに戦いの女神の如し。恐れをなした賊たちは逃げ出し、王女は鉄心卿とともに追撃し、ついには討ち滅ぼした――そうして、フェルシェルに平和が戻った……と、いうわけだ」
「……どこの世界の話ですの……?」
リヴィアは目を瞬かせ、ぽつりと呟いた。
全くもって身に覚えがない。どこをどうしたら、そんな“伝説”が生まれるのか。
「まったくのデタラメですわ。私は剣なんて振るってませんし、そもそもあの時はほとんどハッタリで乗り切ったようなもので……」
天を仰いで深く息をつく。
本当に勘弁してほしい。何が“女神”だ。いっそ笑い話にして欲しいくらいだ。
そんなリヴィアの様子に、アレクシスはおかしそうにくつくつと笑った。
「人は――劇的な話が好きなのだよ。英雄譚というのは、たいてい誇張され、脚色されていくものだ。歴史もまた然り。民は事実よりも“語り継がれるべき物語”を求めるからな」
「物語にされてしまった当人はたまったものではありませんわ……」
リヴィアが肩をすくめて言うと、アレクシスは軽く頷きながらも、少しだけ真面目な声で言葉を続けた。
「――それよりも、だ」
その声に、リヴィアは視線を向ける。
「この一件で、君には正式に“王女に復帰”してもらうしかなくなった。
あれだけの逸話が広まり、民の支持まで集めてしまったのだ。
さすがの私でも、この展開は予想できなかったよ」
「……」
言葉に詰まったリヴィアは、しばらく沈黙してから、ゆっくりと口を開いた。
「……真に賊を撃退したのは、フェルシェル候です。あの町を守ったのは彼であり、わたくしは――ただ傍にいただけですわ」
静かな声だった。
彼がいなければ、自分はとうに命を落としていた。それが事実だった。
「フェルシェル候ねぇ……」
アレクシスが小さく唸るように呟く。
「君とヴァルト、相思相愛なのではないかと、私は思っていたが?」
「なっ……! 違います」
思わず大きな声を出してしまい、リヴィアは慌てて目を伏せる。
――それは違う。
彼の想い人は、自分ではない。けれど、セレスティアの夫であるアレクシスにそれを告げるのは、どうしても躊躇われた。
「なんだ。もうすっかりそういう仲かと思っていたのにな」
軽口のように言いながらも、その目はどこか冗談とは思えない鋭さを含んでいる。
リヴィアは、心のどこかでその言葉を期待していた自分に気づき、苦笑した。
「……あの方は、ご自分の立場を弁えておられますから」
「そうだな。あの堅物はそういう男だな」
アレクシスは頷きながら、遠い目をした。昔から、ヴァルトの不器用で真面目な性格はよく知っているのだろう。
「それに……あの方は、わたくしに興味など、お持ちではありませんもの」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
わかっている。けれど――言葉にしてしまうと、余計に堪える。
「……ほう? そうなのか?」
アレクシスは少し意外そうな顔をした。
「ええ。そうですわ」
「――私の目にはそうは見えなかったがな。なるほど、なるほど」
まるでパズルの一片がはまったような顔で、彼はくつくつと喉を鳴らす。
「しかし……つまらん女になったものだな、リヴィア。
前のお前なら、そんなに物わかりのいいふりなんて、決してしなかった」
その声音には、苦々しさと、どこか寂しげな響きが混ざっていた。だがそれはすぐに、いつもの気障な笑みに変わる。
「――ヴァルトめ。あいつの影響か。真面目で融通の利かん奴だとは思っていたが……君に仮面の付け方まで教え込んだとはな」
苦笑とも皮肉ともつかない口調だが、なぜかどこか楽しそうでもある。
「まったく……あの堅物に任せっきりにしたのが失敗だったな」
そう言って、アレクシスはふいに軽やかな調子で言い放った。
「いいだろう、リヴィア。君はこの義兄――アレクシスが、幸せにしてやるさ。楽しみにしていろ」
冗談めかしながらも、その目は冴えた光を宿していた。
「……何をおっしゃっているのですか?」
思わず漏れたリヴィアの困惑の声に、アレクシスは大袈裟に笑った。
「ははは、何でもないとも。冗談だ、冗談。――そうだろう、妹君」




