第32話 復位
冬の風が窓を揺らし、静かな執務室にさやさやと音を立てている。
リヴィアは机に向かい、丁寧に書類を写し取っていた。隣ではヴァルトが背を伸ばし、小さくひと息つく。
「リヴィア、そろそろ昼にしようか」
「はい。イザベラさんにお伝えしてきますね」
その時、ヴァルトがほんのわずかに微笑んだ。
それに気づいたリヴィアの胸の奥が、ふっと温かくなる。
――穏やかな日々だった。何気ないようで、静かな幸せがそこにはあった。
マルセルは窓辺で外の雪景色を眺めながら、あくびを噛み殺している。
ベルトランは巡回を終えて玄関で外套を脱ぎ、肩についた雪を払っていた。
エドモンは「昼休みです」と機械的に口にしつつも、すでに三冊目の書類をめくっている。
誰もが、それぞれの場所で、いつも通りの時間を過ごしていた。
特別なことは何もない。けれど、何よりも尊い日常だった。
春まではあと一月ほどだ。そうなれば、種の植え付けや雪の重みで壊れた箇所の修繕など、やるべきことが増え忙しい日々が待っているだろう。
今日のような穏やかな日も悪くないが、忙しく動き回る日々もまた楽しみだった。
「領主様、先ほど王宮から正式な書状が届きました」
巡回から戻ったベルトランは、手にした書状をヴァルトに差し出す。
「ご苦労だったな。ちょうど昼時だ、休んでくれ」
ヴァルトは労いの言葉をかけると、書状を手に取り開いた。
彼のもとにはアレクシスからの個人的な手紙や正式な書状が頻繁に届く。
個人的な手紙の中身までは分からないが、読み終えた後の彼の表情は、眉間にしわを寄せて小さくため息をつくという、何とも言えないものだった。
明らかに良い内容では無いことは察せられるが、それだけは無さそうだ。
正式な書状ともなれば、さすがにいい加減な内容はない。
いつも通りヴァルトは淡々と内容に目を通し、必要であればリヴィアたちにも簡潔に伝える――それが常だった。
だが今回は違った。
眉間に深く皺を寄せたかと思えば、ふと肩の力が抜けたように安堵の息をつき、そしてまた厳しい表情に戻る。
冷静沈着を絵に描いたようなヴァルトが、まるで百面相でもしているかのように表情を変えるさまに、室内の空気がピリリと張り詰める。
誰もが息をひそめ、彼の口から語られる言葉を待った。
やがて、彼は視線を上げた。
「リヴィア」
名を呼ばれた瞬間、胸がぎゅっと強く締めつけられたような気がした。
差し出された書状を、一瞬ためらいながらも両手でしっかりと受け取る。
目を落とすと、筆で丁寧に書かれた言葉がすぐに飛び込んできた。
――セレスティア王妃が、秋に第一王子を無事に出産したこと。
――それに伴い王宮で盛大な祝賀会が催されること。
――そして、王子誕生を祝っての恩赦の布告。
――リヴィアの「流刑処分」の取り消しと、
――フェルシェルにおける功績をもって、正式に国王の妹として「王女」の称号を授ける、との記述。
しばし息を呑む。
「……王女……」
呟いたその言葉は、どこか遠い世界のもののようだった。
かつて、アレクシスに奪われた自分の称号。
過去の栄光にすがり、虚飾にすがって生きていた、あの頃の自分が欲していたもの――。
けれど、今の自分が本当にそれを求めているのだろうか。
胸の奥にふと、答えの出ない問いが浮かんだ。
リヴィアが読み終えた頃には、執務室の面々もその異例の書状に気づいていた。
マルセルがぽんと背もたれに寄りかかって、感慨深そうに口を開いた。
「……なんだ、やっぱりあんた王女様に戻るんだな。最初からそうなる気はしてたけど、正式に言われると、ちょっと不思議な気分だよ」
冗談めかした口調だったが、瞳はどこか寂しげだった。
「おめでとうございます」と真っ直ぐに言ったのはエドモンだった。眼鏡を上げながら、どこかよそ行きの声になっている。
ベルトランは黙って礼をとり、そのまま巡回の報告書を机に置いた。感情を見せない男だが、その動作はどこか丁寧で、敬意がにじんでいた。
リヴィアは、困惑と戸惑いが入り混じったまま、答えを探して言葉を紡いだ。
「……ありがとうございます。でも……」
言いかけて、続きが出てこなかった。
祝福にどう応えたらいいか、自分でも分からなかった。
それに――ヴァルトがどんな反応をするのかそれを見るのが少し怖い。
ヴァルトは静かに立ち上がった。
そして、一歩進み、膝を折るように片膝をついて、右手を胸に当てる。
「――リヴィア・ミレイユ・エルセリオ王女殿下。
このたびのご復帰、心よりお慶び申し上げます」
あまりに形式張ったその口調に、リヴィアは一瞬、言葉を失った。
まるで、今までの三年の時がなかったかのように、ヴァルトは完璧な「臣下」として振る舞っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください……そんな、そんなふうにしないでください」
慌てて声を上げると、ヴァルトはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には一切の動揺も迷いもなく、まるで最初からそうするのが当然だったかのような落ち着きがあった。
「私の立場がどうであれ、あなたにしていただいたことは変わりません。
今まで通りで……いてくださらないと、私……」
そこまで言って、リヴィアは口をつぐむ。
けれど、ヴァルトは微笑みすら浮かべず、ただ静かに答えた。
「今まで通りには、いきません。
あなたは、国王陛下の妹君。……そして、我が国の王女殿下なのですから」
その声はどこまでも冷静で、礼儀正しかった。
*
急によそよそしい態度を取る面々に、リヴィアは耐えきれなくなって執務室を飛び出し、自室へと駆け込んだ。
薄暗い部屋の中で、背を扉に預けて座り込む。胸の奥がじくじくと痛む。さっきまであんなに心地よかった空間が、今ではもう居場所ではないように思えて――
コツ、コツ、とノックの音が響く。
「ちょっと、あんた――王女様に戻ったんだって?」
扉を開けて入ってきたのは、いつも通りのイザベラだった。けれど、その一言にリヴィアは思わず顔を伏せる。
「領主様から、あんたを客間に移すよう言われてるよ」
「えっ……どうしてですか?」
思わず裏返った声に、イザベラは肩をすくめ、苦笑する。
「そりゃそうさ。あんたは“王女様”だよ? どこの国に、王女様が使用人部屋に住んでるって?」
リヴィアは唇を噛んで、視線を落とす。
「……でも、私はここがいいです。ここで、皆と一緒にいたいんです」
そのかすかな声に、イザベラは一瞬だけ表情を緩める。だがすぐに、いつもの調子で言った。
「だったら、自分で領主様に言うんだね。王女様ってのは、自分の意思で動ける人のことを言うんだよ」
「……私、行ってきます」
イザベラに背中を押され、リヴィアは執務室の扉をそっと開けた。
部屋の空気は静かだった。ヴァルトは机に向かっていたが、リヴィアの気配に気づき、視線を上げる。
「領主様。私は……客間に移りません。あの部屋が気に入っているのです」
ひと呼吸置いて、ヴァルトは立ち上がり、静かに言った。
「どうぞ、フェルシェル候とお呼びください。王女殿下のお気持ちは理解いたしました。しかし、我々にも立場というものがあります。王女殿下を、あのような部屋に滞在させるわけにはまいりません」
その言葉に、リヴィアは思わず目を伏せた。まるで壁のような冷たさ――とりつく島もない。
「……私の“王女としてのお願い”でも、ですか?」
わずかに震える声で問いかける。
だが、ヴァルトは何も言わなかった。返ってきたのは沈黙だけ。
その沈黙こそが、答えだった。
結局、ヴァルトの意志は変わらず、リヴィアは客間へと移ることになった。




