表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花霞の君へ  作者: りおん
8/9

第八話「花ひらくとき」

 かぜと名乗る青年が、過去を語ってから数日が過ぎた。


 夜ごと、凛花りんかは夜明け桜のもとを訪れていた。

 風もまた、毎晩のように現れ、ふたりで言葉を交わした。

 彼の話を聞く時間は、静かで、やさしくて、凛花の心を確かに変えていった。


 彼が命を終えてもなおこの庭に留まり続けたのは、

 誰にも見届けられなかったその想いが、咲かない桜とともに取り残されていたから。

 それを知って以来、凛花は自分の存在にも、意味があるのではないかと初めて思えたのだった。


 桜のつぼみは、確かに少しずつふくらみを増していた。

 毎朝のように枝を見上げる凛花の目は、希望に満ちていた。


 そして――その夜。

 空はよく晴れて、月が高くのぼっていた。


「風様……今日は、何だか桜がそわそわしている気がします」


 夜明け桜の根元に立ちながら、凛花はそうつぶやいた。

 空気が、いつもより少しだけあたたかく感じられた。


「……わかるのか、桜の気持ちが」

「なんとなく、ですけど……でも、今日は咲く気がするんです」


 風は仮面越しに静かに頷いた。

 その仮面には、これまでに見せたことのない微かな揺れがあった。


「もし、咲いたら……私は、あなたにお願いしたいことがあります」

「……なんだ?」

「仮面を外して、あなたの本当の顔を見せてください」


 その言葉に、風の気配がわずかに固まった。

 沈黙が訪れ、しばらく風の声は返ってこなかった。


「……それは、恐ろしくはないか?」

「怖いです。でも、それでも、見たいんです。あなたの想いが、どんな顔に宿っているのかを」


 凛花の言葉は、まっすぐだった。

 逃げることも、飾ることもなく、ただそのままの想いだった。


 風は、長く息を吐いた。

 そして、静かに仮面へと手を伸ばす。


「……では、桜が咲いたら。必ず」


 その約束の直後――

 ふたりの頭上で、枝が揺れた。


 凛花が見上げると、ひとつの蕾が、静かに開きはじめていた。


「……咲いた……!」


 その声に、風もまた顔を上げる。


 蕾がゆっくりとほどけ、夜の光に染まりながら、一枚の花びらがひらりと舞い落ちた。

 それは、ほんのわずかな光。

 けれど、それは確かに、三十年の眠りを破る、最初の一輪だった。


 凛花は、こみ上げるものを抑えきれず、そっと目元をぬぐった。


「おめでとう、夜明け桜……」


 その声が届いたかのように、さらにもうひとつの蕾が開いた。

 まるで連鎖のように、枝先の花がひとつ、またひとつと咲いていく。


 風が、静かに凛花のほうを見た。


「君の想いが、この桜を動かした……ありがとう」

「……風様、約束、覚えてますか?」


 凛花は、震える声で言った。


「……仮面を、外してくれますか?」


 風は、ゆっくりとうなずくと、手を仮面の縁に添えた。


 その仕草は、まるで何かを終わらせる儀式のようで――

 それでいて、新しく始まる何かを告げるようでもあった。


 黒漆くろうるしの仮面が、月の光の下で音もなく持ち上げられる。

 仮面の下に現れた顔は――


 どこか凛花に似ていた。

 顔立ちは整っていて、穏やかで、静かで、けれど深い哀しみをたたえたまなざし。

 そして、その目の奥には、やわらかな光が宿っていた。


「……あなた……」

「名を持たなかった私だが、今、君が見てくれたことで――ようやく『在る』ことができた気がする」


 風の声は、もう震えていなかった。

 まるで、仮面を外したことで、本当の意味で自由になれたような、そんな声音だった。


「ありがとう、凛花……この桜が咲いたことで、私はこの庭から解き放たれる」

「えっ……!」

「この桜は、想いを映す花。咲いた今、それは成就を意味する。だから、私はここにとどまる理由を失うのだ」


 凛花は目を見開いた。

 せっかく触れられた温もりが、また離れていこうとしている。


「……待って。まだ、あなたと……話したいことが……」

「なら、最後にもうひとつ、聞かせてくれ。君はこれからも、この桜を見守ってくれるか?」


 その問いに、凛花は強くうなずいた。


「……はい。あなたの想いも、私の想いも、きっとこの枝に残り続けるから」


 風は、微笑んだ。

 その笑顔は、とてもやさしく、やわらかいものだった。


 そして――風は、花びらとともに、静かに消えていった。

 まるで風そのもののように、音もなく、気配も残さず。


 凛花はひとり、夜明け桜の下に立ち尽くした。

 見上げれば、枝いっぱいに咲き始めた花々が、月の光を浴びて白く輝いていた。


 その花の色は――やさしく、切なく、あたたかいものだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ