第八話「花ひらくとき」
風と名乗る青年が、過去を語ってから数日が過ぎた。
夜ごと、凛花は夜明け桜のもとを訪れていた。
風もまた、毎晩のように現れ、ふたりで言葉を交わした。
彼の話を聞く時間は、静かで、やさしくて、凛花の心を確かに変えていった。
彼が命を終えてもなおこの庭に留まり続けたのは、
誰にも見届けられなかったその想いが、咲かない桜とともに取り残されていたから。
それを知って以来、凛花は自分の存在にも、意味があるのではないかと初めて思えたのだった。
桜の蕾は、確かに少しずつふくらみを増していた。
毎朝のように枝を見上げる凛花の目は、希望に満ちていた。
そして――その夜。
空はよく晴れて、月が高くのぼっていた。
「風様……今日は、何だか桜がそわそわしている気がします」
夜明け桜の根元に立ちながら、凛花はそうつぶやいた。
空気が、いつもより少しだけあたたかく感じられた。
「……わかるのか、桜の気持ちが」
「なんとなく、ですけど……でも、今日は咲く気がするんです」
風は仮面越しに静かに頷いた。
その仮面には、これまでに見せたことのない微かな揺れがあった。
「もし、咲いたら……私は、あなたにお願いしたいことがあります」
「……なんだ?」
「仮面を外して、あなたの本当の顔を見せてください」
その言葉に、風の気配がわずかに固まった。
沈黙が訪れ、しばらく風の声は返ってこなかった。
「……それは、恐ろしくはないか?」
「怖いです。でも、それでも、見たいんです。あなたの想いが、どんな顔に宿っているのかを」
凛花の言葉は、まっすぐだった。
逃げることも、飾ることもなく、ただそのままの想いだった。
風は、長く息を吐いた。
そして、静かに仮面へと手を伸ばす。
「……では、桜が咲いたら。必ず」
その約束の直後――
ふたりの頭上で、枝が揺れた。
凛花が見上げると、ひとつの蕾が、静かに開きはじめていた。
「……咲いた……!」
その声に、風もまた顔を上げる。
蕾がゆっくりとほどけ、夜の光に染まりながら、一枚の花びらがひらりと舞い落ちた。
それは、ほんのわずかな光。
けれど、それは確かに、三十年の眠りを破る、最初の一輪だった。
凛花は、こみ上げるものを抑えきれず、そっと目元をぬぐった。
「おめでとう、夜明け桜……」
その声が届いたかのように、さらにもうひとつの蕾が開いた。
まるで連鎖のように、枝先の花がひとつ、またひとつと咲いていく。
風が、静かに凛花のほうを見た。
「君の想いが、この桜を動かした……ありがとう」
「……風様、約束、覚えてますか?」
凛花は、震える声で言った。
「……仮面を、外してくれますか?」
風は、ゆっくりとうなずくと、手を仮面の縁に添えた。
その仕草は、まるで何かを終わらせる儀式のようで――
それでいて、新しく始まる何かを告げるようでもあった。
黒漆の仮面が、月の光の下で音もなく持ち上げられる。
仮面の下に現れた顔は――
どこか凛花に似ていた。
顔立ちは整っていて、穏やかで、静かで、けれど深い哀しみをたたえたまなざし。
そして、その目の奥には、やわらかな光が宿っていた。
「……あなた……」
「名を持たなかった私だが、今、君が見てくれたことで――ようやく『在る』ことができた気がする」
風の声は、もう震えていなかった。
まるで、仮面を外したことで、本当の意味で自由になれたような、そんな声音だった。
「ありがとう、凛花……この桜が咲いたことで、私はこの庭から解き放たれる」
「えっ……!」
「この桜は、想いを映す花。咲いた今、それは成就を意味する。だから、私はここにとどまる理由を失うのだ」
凛花は目を見開いた。
せっかく触れられた温もりが、また離れていこうとしている。
「……待って。まだ、あなたと……話したいことが……」
「なら、最後にもうひとつ、聞かせてくれ。君はこれからも、この桜を見守ってくれるか?」
その問いに、凛花は強くうなずいた。
「……はい。あなたの想いも、私の想いも、きっとこの枝に残り続けるから」
風は、微笑んだ。
その笑顔は、とてもやさしく、やわらかいものだった。
そして――風は、花びらとともに、静かに消えていった。
まるで風そのもののように、音もなく、気配も残さず。
凛花はひとり、夜明け桜の下に立ち尽くした。
見上げれば、枝いっぱいに咲き始めた花々が、月の光を浴びて白く輝いていた。
その花の色は――やさしく、切なく、あたたかいものだった。