第七話「仮面の奥にあるもの」
それは、風が庭に姿を見せなくなってから、三日目の夜だった。
凛花はいつものように、夜明け桜の下に立っていた。
枝先の蕾は、ふくらみを増し、ほんのりと色づいている。
けれど、その姿を見せたいと思う相手は、まだ現れないままだった。
「……どうして、来ないの?」
小さくつぶやいた声は、風にのってすぐに消えてしまった。
呼べば来てくれる――そんな気がしていた自分が、少し恥ずかしかった。
でも、寂しさよりも気がかりだったのは、あの言葉。
「いつか、花が咲いたら。そのときに」
風は、何かを知っていた。
この桜に宿る想いだけでなく、自分自身の『終わらせ方』を。
それが気になって、眠れない夜が続いていた。
短冊に気持ちを書くのが、いつの間にか日課になっていた。
今夜も一枚、新しいものを結ぶ。
『咲くまでに あなたに会いたい』
その瞬間――背後で、砂利を踏む音がした。
「……願いは、重ねるものだな」
その声に、凛花ははっと振り返った。
「……風様!」
月明かりの下、あの仮面の青年が静かに立っていた。
見慣れた姿なのに、今夜はどこか、影が薄いように見える。
「ずっと、来なかったから……」
「この庭にいた。ただ、姿を見せることをためらっていた」
「なぜ……?」
風は答えず、仮面の面を静かになでた。
黒漆の面には、指先の跡がうっすらと残る。
「私が姿を見せてしまえば、すべてが変わる気がしてな……」
「それでも、私は知りたい。あなたが、何者なのか。どうしてここにいるのか」
凛花の声は震えていた。
でも、それでも逃げたくはなかった。
風と出会って、彼の言葉で支えられてきた。
だから、彼の真実を知ることからも、目をそらしたくなかった。
風は、ふっと小さく笑ったように見えた。
「では、花は咲いていないが、ひとつだけ話そう。私がまだ生きていたころのことを」
凛花は、小さくうなずいた。
「私は、後宮の外れで働いていた。名もない下働きだった。名家の出ではなく、身寄りもない。誰かに名を呼ばれることもなく、ただ庭の草を刈り、水を運び、誰にも気づかれずに生きていた」
その言葉に、凛花の胸がぎゅっとなった。
自分と、どこか少しだけ似ている気がしたのだ。
「ある日、古びた桜の苗を見つけた。誰も気に留めず、枯れかけたそれを、私はひそかに植え、ひそかに世話をした。それが、この夜明け桜だった」
「あなたが……?」
「そう。誰にも知られず、名もつかずに植えられた木。それは私にとって、自分自身のようなものだった。だから、咲かせたかった。何があっても、ひとつの花を咲かせてみたかった」
凛花は言葉が出なかった。
風の声は、仮面越しでも震えていた。
「けれど……ある日、私は病に倒れ、誰にも看取られずに命を終えた。桜はまだ咲かぬまま。私の願いも届かぬまま。でも、想いだけが残ってしまった。そして私は、風になった。名を持たぬまま、この庭をさまよう存在に」
その静かな告白に、凛花はただ、唇をかみしめるしかなかった。
「風様……あなたの願い、今でも残っているんですね」
「いや、今はもう少しだけ違う。あのときは、ただ自分のために咲かせたかった。でも今は……君が、見上げるその桜に、花が咲いてほしいと、そう思っている」
そのとき、凛花の目から、涙がひとすじこぼれた。
それは悲しみの涙ではなかった。
風の想いが、痛いほど胸に届いたのだ。
「ありがとう……風様。私も、この桜を咲かせたい。あなたの願いと、私の願いを、重ねて」
その言葉に、風は静かにうなずいた。
「そろそろ……月が、蕾を照らしてくれる頃だな」
ふたりは並んで、夜明け桜の下に立つ。
風が、凜花の手をとった。ふわりとあたたかさが凜花につたわる。
月明かりに照らされた枝先には、ふくらんだ蕾が、ゆっくりと――
ほんのわずかに、ほどけはじめていた。