表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花霞の君へ  作者: りおん
6/9

第六話「一つの木箱と、風の記憶」

 その夜、かぜは現れなかった。


 凛花りんかは、桜の前でしばらく立ち尽くしていた。

 虫の声すら遠く、庭の空気はひんやりとしていて、まるで何かが息を潜めているようだった。


「……今夜は、来ないんだ」


 ぽつりと呟く声が、自分の耳にも頼りなく聞こえた。

 風がいないだけで、こんなにも空気が静まりかえるなんて――

 自分の心は、いつの間に彼の言葉や気配に、こんなにも寄り添っていたのだろう。


 凛花は、そっとつぼみに目をやる。

 それは昨日より、ほんのわずかに色づいて見えた。

 淡い桃色が、夜の闇に溶けそうになりながらも、確かにそこにある。


「……ちゃんと、生きてる」


 たとえ言葉が通じなくても。

 たとえ誰かに忘れられても。

 こうして見てくれる誰かがいれば、花もきっと咲こうとする。

 そう思えてならなかった。


 ふと、足元に風が吹いた。

 けれど、それは彼ではない。ただの夜風。


 凛花は、短冊を一枚取り出した。

 今日の出来事を、桜に向けて書こうと決めていたのだ。


『今日もひとつ 生きようと思えた 桜がそこにいるから』


 言葉は短くても、その奥にある気持ちは深かった。

 短冊を枝に結ぶと、そっと手を合わせて庭をあとにした。



 * * *



 翌朝、夜明けとともに目が覚めた凛花は、まっすぐ庭へと向かった。


 朝露に濡れた石畳を歩きながら、風がまたあの仮面で現れるのでは――そんな気持ちがふと胸をよぎる。

 けれど庭に着いても、そこには誰もいなかった。


 しかしそのとき、桜の木の下に、見慣れないものが置かれているのに気がついた。


「……これは?」


 細長い木箱だった。

 手に取ると、思ったより軽い。

 そっと開けると、中には白い小さな筆と、古びた短冊がひと束。


 短冊には、見たことのない筆跡で言葉が書かれていた。


『咲かぬ花を見上げる人に 願いが映る』

『想いが深いほど 花は静かに応える』


 まるで、風の言葉のようだった。

 凛花は思わず唇をかみしめた。


「……やっぱり、見ていてくれたんだ」


 姿がなくても、気持ちはそばにある。

 そのことが、何よりの力になる。


 木箱を抱えたまま桜を見上げると、ふいに背後から声がした。


「それは、昔の花守はなもりたちが残したものだ」


 振り返ると、そこに――風が立っていた。


「……来てくれたんですね」

「少し、遅くなった」


 風はいつものように仮面をつけていたが、その声にはやわらかさがあった。

 凛花は木箱を見せながら、尋ねた。


「これは、あなたが置いてくれたんですか?」

「正確には、この庭にいた者たちの記憶だ。私は、それを伝えただけ」


 その言い方に、凛花はふと気づいた。


「……風様は、ずっとここにいるんですね。この庭に、桜とともに」


 凛花の問いかけに、風はうなずいた。


「私はこの木が植えられた頃から、この場所を見守っている。生きていた頃も、命を終えたあとも――ずっと、ここに」


 その言葉に、凛花はとくんと胸を打たれ、一歩彼に近づいた。


「それは……どういう意味ですか?」

「名もなく、記録にも残らぬまま散った者は、この世にとどまることがある。誰かの記憶に咲くことすらなく、風のように消えかけた者が――この桜に、願いを残して」


 そのとき、凛花の胸がぎゅっと締めつけられた。

 あたたかくて、でも少し悲しくて。


「風様……あなたは、咲かせたかったんですね。この桜の木を」


 風は、何も言わなかった。

 ただ、ひとひらの風がふわりと凛花の頬をなでた。


「わたし……この桜の木を、咲かせたい。あなたの願いも、きっと、この桜に宿っているから」


 そのとき、桜の枝がそっと揺れた。


 ひとつの蕾が、かすかに光を受け、淡い色をのぞかせる。

 凛花は、目を見張った。


 まだ咲いてはいない。

 けれど、もうすぐ咲きそうな――そんな気配。


 風もまた、それをじっと見つめていた。


「想いは、枝に宿る。そして、見る者の心に咲く」


 その言葉とともに、風はまた、静かにその場を離れようとした。


「待って……」


 凛花の声に、風が立ち止まる。


「今度……もう少し、あなたのことを教えてくれませんか?」


 少しの沈黙のあと、仮面の奥から声が返ってきた。


「……いつか、花が咲いたら。そのときに」


 そう言い残して、風は庭の奥へと消えていった。


 凛花はひとり、夜明け桜の下に立ち、枝先の蕾を見上げる。


 その小さな命は、風の記憶とともに、そっと揺れながら――

 確かに、春の足音を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ