第六話「一つの木箱と、風の記憶」
その夜、風は現れなかった。
凛花は、桜の前でしばらく立ち尽くしていた。
虫の声すら遠く、庭の空気はひんやりとしていて、まるで何かが息を潜めているようだった。
「……今夜は、来ないんだ」
ぽつりと呟く声が、自分の耳にも頼りなく聞こえた。
風がいないだけで、こんなにも空気が静まりかえるなんて――
自分の心は、いつの間に彼の言葉や気配に、こんなにも寄り添っていたのだろう。
凛花は、そっと蕾に目をやる。
それは昨日より、ほんのわずかに色づいて見えた。
淡い桃色が、夜の闇に溶けそうになりながらも、確かにそこにある。
「……ちゃんと、生きてる」
たとえ言葉が通じなくても。
たとえ誰かに忘れられても。
こうして見てくれる誰かがいれば、花もきっと咲こうとする。
そう思えてならなかった。
ふと、足元に風が吹いた。
けれど、それは彼ではない。ただの夜風。
凛花は、短冊を一枚取り出した。
今日の出来事を、桜に向けて書こうと決めていたのだ。
『今日もひとつ 生きようと思えた 桜がそこにいるから』
言葉は短くても、その奥にある気持ちは深かった。
短冊を枝に結ぶと、そっと手を合わせて庭をあとにした。
* * *
翌朝、夜明けとともに目が覚めた凛花は、まっすぐ庭へと向かった。
朝露に濡れた石畳を歩きながら、風がまたあの仮面で現れるのでは――そんな気持ちがふと胸をよぎる。
けれど庭に着いても、そこには誰もいなかった。
しかしそのとき、桜の木の下に、見慣れないものが置かれているのに気がついた。
「……これは?」
細長い木箱だった。
手に取ると、思ったより軽い。
そっと開けると、中には白い小さな筆と、古びた短冊がひと束。
短冊には、見たことのない筆跡で言葉が書かれていた。
『咲かぬ花を見上げる人に 願いが映る』
『想いが深いほど 花は静かに応える』
まるで、風の言葉のようだった。
凛花は思わず唇をかみしめた。
「……やっぱり、見ていてくれたんだ」
姿がなくても、気持ちはそばにある。
そのことが、何よりの力になる。
木箱を抱えたまま桜を見上げると、ふいに背後から声がした。
「それは、昔の花守たちが残したものだ」
振り返ると、そこに――風が立っていた。
「……来てくれたんですね」
「少し、遅くなった」
風はいつものように仮面をつけていたが、その声にはやわらかさがあった。
凛花は木箱を見せながら、尋ねた。
「これは、あなたが置いてくれたんですか?」
「正確には、この庭にいた者たちの記憶だ。私は、それを伝えただけ」
その言い方に、凛花はふと気づいた。
「……風様は、ずっとここにいるんですね。この庭に、桜とともに」
凛花の問いかけに、風はうなずいた。
「私はこの木が植えられた頃から、この場所を見守っている。生きていた頃も、命を終えたあとも――ずっと、ここに」
その言葉に、凛花はとくんと胸を打たれ、一歩彼に近づいた。
「それは……どういう意味ですか?」
「名もなく、記録にも残らぬまま散った者は、この世にとどまることがある。誰かの記憶に咲くことすらなく、風のように消えかけた者が――この桜に、願いを残して」
そのとき、凛花の胸がぎゅっと締めつけられた。
あたたかくて、でも少し悲しくて。
「風様……あなたは、咲かせたかったんですね。この桜の木を」
風は、何も言わなかった。
ただ、ひとひらの風がふわりと凛花の頬をなでた。
「わたし……この桜の木を、咲かせたい。あなたの願いも、きっと、この桜に宿っているから」
そのとき、桜の枝がそっと揺れた。
ひとつの蕾が、かすかに光を受け、淡い色をのぞかせる。
凛花は、目を見張った。
まだ咲いてはいない。
けれど、もうすぐ咲きそうな――そんな気配。
風もまた、それをじっと見つめていた。
「想いは、枝に宿る。そして、見る者の心に咲く」
その言葉とともに、風はまた、静かにその場を離れようとした。
「待って……」
凛花の声に、風が立ち止まる。
「今度……もう少し、あなたのことを教えてくれませんか?」
少しの沈黙のあと、仮面の奥から声が返ってきた。
「……いつか、花が咲いたら。そのときに」
そう言い残して、風は庭の奥へと消えていった。
凛花はひとり、夜明け桜の下に立ち、枝先の蕾を見上げる。
その小さな命は、風の記憶とともに、そっと揺れながら――
確かに、春の足音を待っていた。