第五話「一つの蕾と、自然の理」
数日が経った。
夜明け桜の蕾は、ほんのわずかずつではあるが、確かにふくらんでいた。
そのことに気づいたのは、凛花だけではない。
いつしか庭を訪れる女官たちが、桜の木の前で足を止め、目を細める姿が見られるようになっていた。
言葉にこそ出さないが――
その視線には、わずかな期待と、少しの不安と、そしてほんのりとした温もりがあった。
それは、凛花にとって初めて見る光景だった。
美しさだけで測られてきたこれまでの人生において、こうして自分が関わった何かが、人の気持ちを動かしている――
そのことが、ひとしずくの水のように、胸の奥を潤していた。
「このまま、咲いてくれたらいいのに」
そうつぶやいた朝、風が強かった。
雲が空を速く流れ、枝がざわめく。
そして、ぽたり――と、足元に何かが落ちた。
それは、ふくらみかけた蕾のひとつだった。
凛花は、慌ててかがみこむ。
けれどその蕾は、すでに命を絶たれたように、しずかに地に伏していた。
「……ごめんなさい」
自分のせいではない。
けれど、守ってあげられなかったような気がして、胸がぎゅっとしぼられる。
ふと、背後に気配を感じた。
振り向くと、そこにいたのは――
「……風様」
あの仮面の青年だった。
いつのまにか、音もなく現れていた。
「落ちたのか?」
「はい。まだ咲く前だったのに……」
凛花は、そっと掌に蕾を乗せた。
その小さな命が、あたたかさを失っていくのが分かる。
風は、その手元を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
「花も、人も、咲く前に散ることはある」
「……そんな言い方、悲しすぎます」
「だが、それも自然の理だ」
そう言いながら、風は足元の落ち葉を払い、地面に小さな穴を掘った。
「その蕾を、そこへ」
言われるまま、凛花は手のひらの蕾を穴へと移した。
風が、そっと土をかぶせる。
その仕草は、まるで祈りのように静かだった。
「……ありがとう」
「礼などいらぬ。咲かずに終わった花にも、想いはある」
その言葉が、胸にじんと響いた。
咲けなかったとしても――
想われたことに、意味がある。
風は立ち上がり、夜明け桜を見上げた。
「それでも、まだ他の蕾は生きている。焦ることはない。咲く時は、必ず来る」
「……ほんとうに、そうでしょうか」
「そうであってほしいと願うことが、すでにその時を近づける」
その言葉に、凛花は思わず目をそらせなかった。
仮面に覆われたその顔の奥に、確かな何かが宿っている気がした。
「風様は……なぜ、そんなに桜のことを知っているのですか?」
凛花の問いかけに、彼は少しだけ沈黙した。
「……かつて、私はここにいた。桜が植えられた、ずっと昔のことだ」
「え……?」
「いや、昔語りなど今は不要だな」
そう言って、風はふっと笑ったようだった。
仮面の奥の笑みが見えたわけではない。
でも、たしかにそう感じられた。
「花に話しかけてくれているな」
「え?」
「夜、来られぬときもあるが、耳だけは貸している」
凛花の頬が、ふっと赤くなる。
見られていたことよりも、自分の声が届いていたことに、くすぐったいような嬉しさを感じた。
「なら……今夜も来てください。桜の話を、また一緒にできたら嬉しいです」
そう言うと、風はほんのわずか、うなずいた。
「咲く日が近づいている……それは、君の言葉が、よく風に乗るようになった証拠だ」
次の瞬間、彼の姿はふっと風とともに消えていた。
本当にそこにいたのか、夢だったのか――
けれど、足元の土の感触が、彼の存在を教えてくれていた。
凛花はもう一度、桜を見上げた。
ひとつ失われた蕾のぶんまで、残された蕾たちは、空へ向かって枝を伸ばしている。
その姿が、たまらなくいとおしかった。
「……咲くときが来たら、ちゃんと見ているからね」
その言葉が、小さな風に乗って枝を揺らした。
夜明け桜は、静かにその声に耳を澄ましているようだった。