第四話「静かな芽吹き」
朝の光が、几帳越しにやわらかく差し込んでいた。
その光に目を細めながら、凛花は静かに身を起こす。布団の中に残る、かすかな温もりさえ、今朝はどこかやさしく思えた。
昨夜の記憶が、まだ胸の奥に残っている。
仮面の青年――風と名乗ったあの人の声。
「よく眠れ」というたったひと言が、こんなにも深く心に残っているのが、不思議だった。
その声に包まれるように、昨夜はぐっすりと眠れた。
あんなに深く眠れたのは、後宮に来てから初めてだったかもしれない。
装束に着替えをすませ、凛花は庭へ向かう。
女官たちが動き出す前の、ひんやりとした空気。草木の葉先に小さな露が光り、鳥たちもまだ少しの鳴き声。
そんな時間が、凛花は好きだった。
そして、夜明け桜の前へと足を運ぶ。
その姿を目にしたとたん、胸の奥がふっと静まり返る。
「……あれ?」
目をこらすと、枝の先にひとつだけ、ふくらみはじめた蕾があった。
昨日までは、ただ固く閉じたままの蕾だったのに――
今朝は、その形がほんのわずかに変わっている。
指先ほどのふくらみ。けれど、その小さな変化は、凛花にとって驚きだった。
まるで桜が、ほんのすこしだけ微笑んでくれたような、そんな気がした。
「咲きそう……なの?」
そっと近づき、枝に触れないようにしながら、目を細めて見つめる。
空気はまだ冷たいのに、心の奥がじんわりと温かくなっていく。
風の言葉が思い出される。
――誰かの想いが足りないのだろう。
では、この蕾は、誰かの想いが届いた証なのだろうか。
もしかして――
あの人と話したこと、笑ったこと、少しだけ心を開いたこと。
それが、桜に伝わったのだとしたら。
そう思っただけで、胸がふるえるような気がした。
そのとき、背後から小さな足音が近づいてきた。
振り返ると、見習いの女官が、まだあどけなさを残した顔で立っていた。
「凛花さま。お食事の支度が整っております」
「あ……ありがとう。すぐ戻りますね」
女官は頭を下げたあと、ちらりと夜明け桜を見上げた。
そして、目を見張るようにして「わぁ……」と小さく声を漏らした。
凛花はその横顔を見つめて、心がふわりと軽くなるのを感じた。
誰かとこの桜の変化を分かち合えた。
それだけで、こんなにも嬉しいのだと知った。
桜は、ただそこにあるだけではない。
誰かのまなざしに応えるように、静かに時を重ねている。
そして、自分もまた――誰かに見つけられたいと、心のどこかで願っていたのだ。
* * *
午後になり、凛花は書院の掃除を命じられた。
庭から吹き込む風に、紙障子がかすかに鳴っている。
女官長の目は相変わらず厳しいが、冷たさは感じなかった。
そのかわり、目の奥にほんのわずかな興味の色があった。
もしかしたら、夜明け桜の噂が少しずつ広まっているのかもしれない。
「夜明け桜、見たわよ」
通りがかった年上の女官が、ふと声をかけてきた。
「咲くかもしれないんですって? 本当に?」
「……ほんの少しだけ、蕾がふくらんでいました」
「へぇ……まあ、咲かなくても、それなりに風情はあるものね」
その言い方は少し意地悪にも聞こえるけれど、声の調子はやわらかかった。
誰かが関心を持ってくれている――
それだけで、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
掃除が終わると、凛花はそっと墨と筆を持ち出し、細い短冊に言葉をしたためた。
『咲かずとも 想いは枝に 宿るもの』
書いた文字を見つめながら、自分の想いもまた、どこかで誰かに届けばいいと思った。
夕暮れどき、凛花は再び庭へ向かった。
風に会えるかもしれない。そう思っただけで、足取りが少し軽くなる。
けれどその夜、彼は現れなかった。
それでも、凛花は桜の前に立ち続けた。
ほんの短い間でも、桜と向き合う時間が、日に日に心を癒していく。
「……今日も、お疲れさま」
ふくらんだ蕾に、そっと語りかける。
誰にも聞こえない、ひとりごと。
けれど、その声はまっすぐ桜に届いている気がした。
月は雲に隠れているようだが、空はやさしく静かだった。
桜は咲かなくても、ちゃんと誰かが見ていてくれる。
夜明け桜の枝先は、まるで返事をするように、音もなくそっと揺れていた。