第三話「花に触れる手」
日が落ちてしばらく経った頃、凛花は灯籠の明かりを頼りに、夜明け桜の元へと向かっていた。
昼間は、また心がささくれた。
女官たちの言葉にはとげがなくても、その仕草や目配せに、凛花はすぐ気づいてしまう。
――あの娘、美貌だけでここへ来たのよ。
――顔ばかりで、何の芸もない。
言葉にされずとも、目は語る。笑顔の奥にある本音に、凛花は子どもの頃から敏感だった。
歯を食いしばり、反論もせず、笑いもせず、ただ静かにやり過ごす。
それが自分にできる、精一杯のふるまいだった。
『この顔』であるかぎり、自分はずっとどこかで浮いてしまうのだと――そう諦めていた。
だからこそ、この桜の元に立つと、不思議と心がほどける気がした。
咲かないまま、じっと立ち続けるこの木は、どこか自分と似ている気がして。
「こんばんは……まだ咲いてはいないのね」
凛花はそっと蕾に手を伸ばした。
そのとき――
「まだ、『誰か』の想いが足りないのだろうな」
その声に、凛花は驚いて振り返った。
仮面の青年が、昨夜と同じように立っていた。
黒漆の面には月明かりが淡く映っている。
「……風様」
そう呼ぶと、彼は微かに仮面を傾けた。
「覚えていたか。人に名を呼ばれるのは、久しぶりだ」
「名ではないのでしょう?」
「それでも、呼ばれると不思議と息が通るようだ」
くすりと笑ってしまいそうになる。けれど、その冗談めいた言葉が、どこか心に優しく沁みてきた。
彼は桜の木の根元に視線を落とした。
「昼間、この桜の下にいたな。女官たちの言葉は、冷たい風のようだった」
「……見ていたのですか?」
「風は、いつも庭を巡っている」
凛花は思わず笑ってしまった。
それが本当かどうかも分からない。けれど、久しぶりに誰かの前で笑った気がした。
「何か可笑しいか」
「いえ……なんだか、少し救われただけです」
言ってから、胸の奥がきゅっとなる。
笑ってもいいんだ、というあたたかさを久しぶりに思い出したのだ。
「私は……この顔のせいで、ずっと孤りでした」
誰にも言えなかったことが、自然と口をついて出た。
言葉にすれば、涙になりそうだった。
「顔は、ただの器にすぎぬ。美しい花も、香りや命を持つからこそ、人を惹きつけるのだ」
「……優しい言葉ですね」
「事実を言ったまでだ。偽りのないものが、いちばん強い」
その言葉に、凛花の中で何かがゆっくりと動いた気がした。
風はそう言って、桜の幹に手を添えた。
「この木は、ずっと咲かぬまま、それでも立ち続けている。誰にも見向きされなくても、誰にも抱かれなくても、そこにあるだけで美しい」
「……私も、そんなふうに在れたら」
「もう在っている。そう見えている者が、ここに一人」
胸が、ふっと熱くなった。
私を、そう見てくれる人がいる
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいのだと、凛花はそのとき初めて知った。
沈黙が、桜の間を満たした。
やがて、風がそっと手を伸ばし、凛花の指先に触れた。
指先から、掌へ。花に触れるよりも繊細な動きだった。
掌がじんわりとあたたかくなる。胸の鼓動が、少しだけ速くなる。
「冷えている……今夜は、よく眠れ」
その一言が、なぜだか涙ぐみそうになるほど優しくて――
彼が手を離した瞬間、凛花は思わず声をかけていた。
「待って……あなたは、本当は何者なの?」
思わず口をついて出た言葉に、風は一度だけ立ち止まり――
「答えは、いつか花が咲くときに。そのときに教えよう」
そう言い残して、風は夜の帳へと消えていった。
凛花は、ひとり桜の下に立ち尽くした。
その枝先に、小さな変化があったことに気づくのは、もう少し先のことだった。