第二話「宵の桜と、仮面の君」
日が落ち、宵の帳がゆっくりと下りていく頃。
凛花は、庭のはしに立つ一本の桜の木の前にいた。
――夜明け桜。
咲かぬまま三十年、蕾だけを宿したままの桜。
その世話をするように言いつけられたのが、今日からだった。
すずめの鳴き声はもう消え、水の音と風のそよぎが耳に届く。
遠くで、かすかに鈴の音が鳴っているようだった。
「美しいものには、きっと理由がある。咲かぬままの桜には、どんな訳があるのかしら……」
剪定ばさみを手に、凛花は小さくつぶやいた。
花を守る仕事の心得は、つい昨日教わったばかり。不安は尽きなかった。
それでもこの桜には、初めて見るのに、なぜか心が近くなるような気がした。
「咲いても咲かなくても、美しいものは美しい……それだけで、いいのかもしれないわね」
枝先に手を伸ばした、そのときだった。
ふと気配を感じて、振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
長い衣をまとい、顔には黒漆の仮面。
その面には繊細な模様がほどこされているが、表情はうかがえなかった。
「……どなた?」
思わず声が震えた。
ここは後宮。男子が入れる場所ではない。
彼は、兵でも、下働きの男でもなく、どこかこの世の人とも思えぬような、静かな気配をまとっていた。
青年は、しばらく黙っていた。
凛花の手元の剪定ばさみと、夜明け桜をゆっくりと見つめているように見える。
「その木に、触れるのか?」
低く穏やかな声だった。
仮面をしているのに、なぜか目が合っているような気がする。
「命じられました。わたしが、この木の世話をするようにと」
「……そうか」
青年は一歩、木に近づいた。
その足取りは風のように静かで、鳥が枝にとまるように自然だった。
「この桜には、物語がある。聞いたことはあるか?」
「咲かぬまま三十年……という話しか、まだ聞いていません」
「この桜は、想いを映す桜だと言われている」
凛花は、思わず息をのんだ。
「想いを、映す……?」
「そうだ。咲いたとき、その花びらには、もっとも強く願われた想いが浮かぶ。けれど、その想いがかなわぬものなら……桜は、決して咲かぬとも言われている」
それは、どこか悲しい言い伝えだった。
恋、祈り、許し、別れ――後宮には、さまざまな想いが満ちている。
その想いのすべてが、この木に宿り、咲かぬままでいるのかもしれない。
「それなら……咲かないままでも、幸せなのかもしれませんね」
そうつぶやいた凛花に、青年は仮面の奥でふっと笑ったようだった。
低く、小さな笑い声が風にまぎれて聞こえた。
「それでも、人は花を咲かせたいと思うものだ」
「……あなたも?」
「咲かせたいと思った。かつては、な」
その言葉の奥に、何か遠い記憶の気配を感じた。
けれど、深くは聞けなかった。夜の庭は、あまりに静かすぎて。
「あなたは……誰なのですか?」
凛花がたずねると、青年はゆっくりと、桜の蕾に触れながら答えた。
「私は、花の番をしている者……それで十分ではないか?」
「……名前も教えてくれないのですか?」
「名は、ときに重すぎる。今は、『風』とでも呼んでくれればいい」
――風。
たしかに彼は、どこからともなく現れた。
風の名は、よく似合っていた。
「それでは、また」
風と言った青年は、静かに宵闇の中へと姿を消した。
凛花は、しばらくその場に立ちつくしていた。
見上げた枝先には、開きそうで開かない小さな蕾が、夜の風にそっと揺れていた。