あなたが私を殺したの?
春の陽光が庭園に降り注ぎ、ティーテラスを淡い金色に染めていた。
吹き抜ける風がバラの香りを運び、柔らかな色合いの木のテーブルにあたたかな日が落ちる。
繊細なカトレアの模様が描かれた磁器のティーカップからは、湯気を立てる紅茶の香りが漂っていた。
エリシア・ローゼンベルクは、銀のポットを傾けながら、静かに琥珀色の液体をカップに注ぐ。
細く流れる紅茶のしずくが、光を受けて揺れながら消えていく。
その時、庭園のアーチの向こうから、すらりとした黒い影が近づいてきた。
「すまない。遅くなった」
低く抑えられた声が響く。
顔を上げると、そこに立っていたのは、ヴィクトル・アイゼンハルト公爵令息。
エリシアの婚約者だ。
漆黒の軍服に身を包み、冷ややかな灰色の瞳には感情は浮かんでいない。
──婚約して、もう三年になる。
だが、彼が饒舌になったことは一度もなかった。
お茶会は月に一度。
二人で過ごす時間をエリシアなりに積み重ねてきたつもりだが、その無表情から彼の心の内を知ることは難しい。
エリシアはゆるく微笑み、彼に向かって手を伸ばした。
「いいえ、ちょうど今、紅茶を淹れたところです。お砂糖はいりませんよね?」
「要らない」
変わらぬ返事に、エリシアは心の中で小さく笑う。
彼は甘いものを好まない。だが、ティーカップを手に取る仕草は、いつもどこか丁寧だった。
紅茶に口をつけるヴィクトルを眺めながら、エリシアはカップの縁に指を滑らせる。
その時、彼がふと眉をひそめた。
「何かついている」
「……え?」
「動くな」
静かに立ち上がると、ヴィクトルは手袋を外し、エリシアの肩へと手を伸ばした。
指先がかすかに触れる。
一瞬だけ、その温もりに息が詰まる。
──そこには、細くしなやかな黒い毛が絡んでいた。
ヴィクトルはそれを摘み取り、指先で弄ぶように眺める。
光を受けた毛は、しなやかに艶めいていた。
「……猫の毛か?」
その言葉に、エリシアは軽く瞬きをする。
「ああ……本当ですね」
指先で摘んだ黒い毛を見つめながら、彼は無言のままそれを指先で払い落とす。
小さな毛が風に乗り、舞い上がって消えていく。
「お前、猫を飼い始めたのか?」
「……飼っているというわけではないのですけれど。懐かれたといいますか」
そう言いながら、エリシアはティーカップをそっと置いた。
──思い浮かぶのは、昨夜のこと。
月の光が差し込む静かな夜、窓辺で丸くなっていた黒猫の姿だった。
──それは、一週間前のこと。
夜の庭は、銀の霧に包まれていた。
噴水の水面が淡く揺れ、風が草花を静かに撫でる。
エリシアは月を眺めながら、静かに石畳を歩いていた。
昼の喧騒から解き放たれるこの時間が、何よりも好きだった。
ふと、背後に何かの気配を感じた。
振り向くと、そこにいたのは一匹の黒猫。夜闇に溶け込むような、深い漆黒の毛並み。黄金に輝く瞳。
それはまるで夜空に散った星の欠片のように、静かに光を宿していた。
猫はじっとエリシアを見つめていた。
警戒しているわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、彼女のことを知っているかのように、真っ直ぐに見つめていた。
その時、不意に──
「ああ。やっと会えた」
「……!」
エリシアは息を呑んだ。
しかし、猫はまるで当然のように続ける。
「エリシア・ローゼンベルク」
「……ええ、そうですが」
黒猫はしなやかに足を踏み出し、彼女の足元まで近づいた。
「俺は未来を見る祝福を持っている」
「……未来を見る?」
「そうだ」
低く、落ち着いた声。
それはどこか懐かしい響きを持っていた。
「いますぐに婚約を解消しなければ、お前は婚約者に殺される」
エリシアの心臓が大きく跳ねる。
「……何を言っているの?」
「……信じるかどうかは、お前次第だ」
猫の金色の瞳が、冷たく光る。
「けれど、未来は決まっている」
夜風が吹き、エリシアの髪が揺れた。
──ヴィクトルが、私を殺す?
冷静で、無愛想で、でも時折、優しさを見せる彼が?
「そんなはずは……」
「そう思うなら、俺の言葉を無視すればいい」
猫は静かに彼女を見つめる。
その瞳の奥には、決して揺るがない確信があった。
「……お前はまだ、何も知らないだけだ」
その言葉は、月光の下に落とされた呪いのように、エリシアの胸に深く刻まれた。
午後の陽光が傾き、屋敷の廊下に長い影が落ちていた。
開け放たれた窓から春の風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れる。
バラの甘い香りが微かに漂い、エリシアは小さく息をついた。
つい先ほど、婚約者のヴィクトル・アイゼンハルトを見送ったばかりだった。
彼は最後に一度だけこちらを振り返り、何かを言いかけたようだったが、結局、何も言わずに去って行った。
茶会はいつものように淡々としたものだったが、彼の言葉や仕草がふと心に残ることがある。
冷たいだけの人ではない。
時折、ほんの少しだけ、見えない温もりのようなものを感じる瞬間がある。
(……私は、彼のことをどれくらい知っているのかしら)
そんなことを考えながら、自室へ向かおうとしたその時。
──ふと、背後から強い視線を感じた。
ぴたりと足を止める。
静寂の中、確かに誰かが見ている。
ゆっくりと振り返ると──
黄金の瞳が、じっとこちらを睨んでいた。
「……あら。猫さん。ごきげんよう」
黒の毛並みを持つ、猫はしなやかな尾を揺らしながら、エリシアを真っ直ぐに見上げている。
まるで、何かを問い詰めるように。
「なんだよ、あいつとずいぶん仲良さそうだったな」
「あいつ……?」
「ヴィクトル・アイゼンハルトだよ」
エリシアは、思わずくすりと笑ってしまった。
「まさか……嫉妬?」
「は!? 馬鹿か、お前!!」
猫さんの毛が逆立つ。耳を伏せ、尾をぶんぶんと勢いよく振る。
あまりにも分かりやすく、不機嫌そうなその姿が可笑しくて、エリシアはさらに笑ってしまう。
「ふふっ、可愛い」
「……っ、可愛くねぇ!!」
猫さんがぶすっとした顔でそっぽを向く。
「俺が嫉妬なんてするわけないだろ! ただ、お前が妙にあいつに気を許してるから忠告してやってるんだよ!」
「ふうん……?」
エリシアは頬杖をつきながら、じっと猫さんを見下ろす。
相変わらず、素直じゃない。
そして、何かを隠している。
それだけは確かだった。
「でも……」
黒猫の尾の動きを目で追いながら、エリシアはそっと呟く。
「猫さんが私のことを気にしてくれるの、なんだか嬉しいわ」
その言葉に、猫さんの動きが一瞬止まる。長い尾の先が、ぴたりと静止する。
「……っ」
そして、すぐにそっぽを向いた。
「……勝手にしろ」
つまらなそうに呟くと、猫さんは廊下をすたすたと歩き去っていく。
だが、その尾の揺れがさっきよりもやわらかく揺れているのを、エリシアは見逃さなかった。
──この猫さんはいったい何者なのだろう?
夜の帳が下り、窓の外では月がひっそりと輝いていた。
カーテンの隙間から流れ込む風が、室内のろうそくの灯をわずかに揺らす。
エリシアは、机に向かい、白紙の手紙を前に静かにペンを走らせていた。
インクの匂いが漂い、筆先が滑らかに紙の上をすべる。
──親愛なるヴィクトル・アイゼンハルト様
書き始めた手紙は、婚約者からの招待に対する返信だった。
今度の舞踏会、彼と同伴で出席することになる。
王城で開かれる夜会には、貴族の娘たちが華やかな衣装を纏い、各国の要人が集う。
公爵家の令息の婚約者である彼女が、共に出席するのは当然のことだった。
さらさらと綴りながら、エリシアはふと手を止める。
彼とはもう三年の付き合いになるけれど、こうして「婚約者」として寄り添う機会は、それほど多くなかった。
静かで、寡黙で、感情の読めない人。
けれど、決して冷たさだけの人ではない。
そのとき、目の前に黒い影が飛び込んできた。
「ちょっと!? 何するの!」
エリシアは思わず声を上げる。
机の上にしなやかに跳び乗り、手紙の上にどっかりと座る影。
漆黒の毛並みを持つ、黄金の瞳の黒猫。
「……お前、また勝手に入ってきたのね」
猫は、気にした様子もなく優雅に前足を舐めていた。
「まったく……手紙が台無しになるじゃない」
エリシアはため息をつきながら、猫の頭を軽く押してどかそうとする。
だが、猫さんは意地でも動こうとしなかった。
むしろ、ペン先に興味を持ったのか、前足でちょいちょいと触れてくる。
「……」
さらに、長い爪を出し、するりと紙の表面を引っ掻いた。
「……ちょっと!? 何するの!」
慌てて手紙を引き寄せるエリシア。
「……ちょっとしたイタズラだ」
猫さんは、ふいと視線を逸らしながら答えた。
エリシアは、不満そうに手紙を確認する。
幸い、破れはしなかったが、爪痕が薄く残ってしまっている。
「もう……書き直さなきゃいけないじゃない」
「どうせ大したこと書いてないだろ」
「そんなことないわよ」
「ふーん……お前はその舞踏会の階段で転ぶよ」
「……え?」
突然の言葉に、エリシアは動きを止めた。
「まさか……?」
猫さんの金色の瞳が、じっとエリシアを見つめる。まるで、確信しているかのように。
「俺は未来が見えるって言っただろ」
「……」
「お前、あの舞踏会で階段を踏み外す」
静かに語られた未来。
それは、冷たい夜風のようにエリシアの心をざわつかせる。
「……冗談、でしょう?」
「さあな」
猫さんは大きく伸びをすると、ひらりと机から飛び降りる。
「でもまあ、お前が気をつければ回避できる未来かもな」
ふわりと尻尾を揺らし、猫さんは部屋の隅へと歩いていく。
「な、なによそれ! ちゃんと教えてくれないの?」
「言っただろ。俺は未来を見るだけだ」
その言葉を最後に、黒猫は部屋の奥の椅子の上に飛び乗り、静かに丸まった。
エリシアは手紙を持ったまま、その姿を見つめる。
(……本当に、私が舞踏会で転ぶの?)
猫さんの言葉は、冗談なのか、本当なのか。
どちらにしても、彼はこれまでに何度か未来を言い当てている。
──もし、彼の言う通りなら。
この予告された未来の先に、一体何が待っているのだろう。
エリシアは、ゆっくりとペンを置いた。
まだ、書き終わらない手紙を前にしながら、胸の奥に微かな不安を抱えたまま。
夜会の音楽が、優雅な調べを奏でていた。
ヴァイオリンの旋律が天井に響き、微かにピアノの音がそれに寄り添う。
シャンデリアの燭光が金の糸を紡ぐようにホールを照らし、貴族たちの華やかな笑い声がシャンパンの泡のように弾ける。
足元に広がるのは、磨き上げられた大理石のフロア。
ゆるやかなカーブを描く天井には、美しく彩られた天使のフレスコ画が微笑んでいた。
エリシアは、しとやかに微笑みながら、静かにフロアを歩く。
柔らかな光を受け、薄青のドレスが緩やかに揺れる。
金糸の刺繍が施されたそのドレスは、まるで花弁のように華やかで、けれどどこか儚げだった。
胸元には伯爵家の紋章が刻まれたペンダントが光る。
それは彼女の誇りであり、同時に、自分がこの場に立つ理由を示す証でもあった。
──気をつけなくては。
階段を降りる前に、エリシアはそっと裾を持ち上げた。猫さんの言葉が、頭をかすめる。
「お前はその舞踏会の階段で転ぶよ」
言われた通りにしないつもりはなかった。だからこそ、慎重に足を運んだ。
──不意に、裾を引かれる感触があった。
誰かの靴が、彼女のドレスの端を踏んでいた。
「あっ──」
気をつけていたはずなのに。バランスが崩れ、視界がぐらりと揺れる。
滑るようにして足がもつれ、身体が前へと倒れかけた。
冷たい床がすぐそこに迫る。
その瞬間、伸ばされた腕が、彼女をしっかりと支えた。柔らかく、けれど決して揺るがない力強さで。
「……気をつけろ」
静かで低い声が、耳元で響く。
エリシアの腕を取り、しっかりと支えているのは、婚約者のヴィクトル・アイゼンハルトだった。
灰色の瞳が、僅かに細められる。けれど、驚きや呆れの色は見えない。
そこにあるのはただ、変わらない冷静な光だけ。
彼は表情を変えず、そっと手を離した。
その指先が離れた瞬間、肌に残る微かな温もりが、やけに際立つ。
「す、すみません……」
エリシアは軽く息を整え、ドレスの裾をそっと直した。
鼓動が、ほんの少しだけ速まっている。
ヴィクトルは、何事もなかったかのように目を逸らし、再びホールを見渡す。
けれど、あの手の温もりが妙に優しくて。
いつも冷静で感情を表に出さない彼が、ほんの一瞬、確かに自分を支えてくれたことが、胸の奥でざわめきを生む。
(この人は、本当に冷たい人なのだろうか……?)
そんな疑問が、ふと心をよぎった。
ヴィクトルは、一人の給仕を呼び止め、お盆の上の色とりどりのグラスから、迷わぬ動作ですいっとひとつ、グラスを受け取った。
「飲むか」
彼が差し出したのは、琥珀色の液体が揺れるグラス。
エリシアは少しだけ首をかしげ、ありがとうと受け取った。
「私、アップルジュースは大好きなの」
「知ってる」
「……え?」
思わず、エリシアは彼の顔を見た。
ヴィクトルは淡々とした表情のまま、別の給仕を手招きし、新しいグラスを受け取る。
そこに注がれたのは、透き通った金色のアップルジュースだった。
「どうしてわかったの?」
「見ていればわかる」
さらりとした答え。
けれど、それは簡単に言えることではないはずだった。
エリシアは、一瞬だけ言葉を失う。
(私の好みなんて、誰かに話したことがあったかしら……)
そう思ったけれど、ヴィクトルは特に何かを説明する様子もなく、視線をグラスの表面へと落とした。
「色は青が好きだし、花はカトレアが好きだろ」
「……」
喉の奥で、言葉が止まる。
確かにそうだった。
彼女は昔から、青色が好きだった。
空の色、水の色、静かに夜明けを迎えるときの深い青。
カトレアの花もまた、幼い頃からの好きだった。
けれど、そんなことを誰かに話した記憶はほとんどない。
貴族令嬢は好きな花はだいたい薔薇が多く、カトレアはあまり聞かない。
「……どうして知っているの?」
「言っただろ」
ヴィクトルは、静かにグラスを傾ける。
「見ていればわかる」
エリシアは、彼の横顔をそっと盗み見る。
いつも静かで、感情の読めない人。
けれど、彼は確かにエリシアのことを見ていたのだ。
それを知った瞬間、胸の奥が不思議な熱を帯びた。
月が高く昇り、夜の静寂が部屋を包み込んでいた。
窓の外では、春の夜風がそっと庭の花々を揺らし、遠くで梟が一度だけ鳴く。
部屋の中では、キャンドルの灯がゆらゆらと揺れ、壁に淡い影を落としていた。
エリシアは、鏡の前で髪をほどきながら、溜め息をひとつ零した。
──本当に転んでしまった。
舞踏会の階段で、慎重に足を運んでいたはずなのに。
誰かの靴が裾を踏んで、あっという間にバランスを崩した。
そして、彼に支えられた。
(まさか、本当に猫さんの言った通りになるなんて……)
考えれば考えるほど、不思議な気持ちになった。
彼──ヴィクトルが支えてくれたことも。
そして、猫さんが「未来を見た」と言ったことも。
その時、窓の向こうから、かたんと小さな物音がした。
エリシアが振り向くと、闇の中から黒い影がひらりと飛び込んできた。
「……また勝手に入ってきたのね、猫さん」
漆黒の毛並みを持つ小さな訪問者。黄金色の瞳が、月明かりを反射して淡く光る。
「言った通りになっただろ」
窓辺に優雅に腰を下ろしながら、黒猫はどこか誇らしげに尻尾を揺らした。
「……本当に転んだわ」
「だろ? 俺は未来が見えるって言ったはずだ」
「あなたは、未来を変えることはできないの?」
「さあな」
猫さんは小さくあくびをしながら、くるんと丸くなる。
「お前が気をつければ、回避できる未来だったかもしれない。まあ、結果的にそうはならなかったが」
「……なんだか納得いかないわね」
エリシアはふっと微笑み、窓を閉めながら猫さんの隣に腰を下ろした。
「ねえ、猫さん」
「なんだ?」
「祝福があるって、どんな感じ?」
ふいに、エリシアは問いかける。
この世界では、神からの祝福を授かることはごく普通のことだった。
戦士なら剣の祝福を、医者なら癒しの祝福を、商人なら富の祝福を。
貴族のほとんどは何かしらの祝福を持っている。
──けれど、彼女にはそれがない。
「お前は祝福を持たないのか?」
「……ええ。私には、何の祝福もないわ」
エリシアは静かに微笑んだ。
祝福の内容は、誰にも教えないものだ。
それこそ、自分に祝福がないことを伝えるのは、結婚したとき、ヴィクトルが最初で最後になるだろう。
そこに猫さんが先に加わるのは不思議な気分だった。
「だから、たまに考えるの。もし私にも祝福があったら、どんなものだったのかなって」
「……」
猫さんは、しばらく何も言わなかった。
「なぁ、お前は祝福がないこと、気にしてるのか?」
「……少し。でも、それが私だから」
それを悲しんだことは、昔あったかもしれない。けれど、今は受け入れていた。
祝福がなくても、エリシアはエリシアなのだから。
猫さんは、じっと彼女を見つめた。その黄金の瞳に、ふと何かが宿る。
「祝福なんて役に立たない。一番大事なときには使えない力だ。俺なんて人生で一度しか使えないしな」
「え? 未来を見るのは一度だけなの?」
「いや。すまん、忘れてくれ」
猫さんはすいと顔をそむけると、ぽつりと言った。
「……お前は、祝福なんかなくても綺麗だよ」
「……え?」
エリシアは、一瞬だけ言葉を失った。
猫さんの声はいつものように淡々としていたが、内容は突拍子もない。
エリシアは、思わず笑ってしまう。
「ふふ、冗談も言うのね、猫さん」
「そんなことはない。青いドレスも似合っているし、カトレアの花も誰よりも君に似合っている」
彼は猫なのに、人間のような口調で話す。
その言葉を素直に受け取るのは、なんだか妙な気がした。
猫さんの瞳が、どこか寂しそうに光るのを見た。
「……」
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに、月明かりの下で尻尾を揺らしていた。
朝の陽が高く昇るころ、エリシアのもとに一通の伝令が届いた。
「公爵様より、お伝えするよう申しつかりました」
メイドが恭しく差し出したのは、ヴィクトル・アイゼンハルト公爵からの呼び出しの文。
受け取ったエリシアは、封を切り、そこに書かれた内容を目で追った。
──オペラの観覧券が手に入った。
前にエリシアが観たいと言っていた、王都で人気の演目。
(……覚えていたのね)
ヴィクトルは普段、彼女の話に興味を示さないように見えていたが、こうしてさりげなく覚えていることがある。
それが少しだけ嬉しくて、エリシアはそっと微笑んだ。
──仕事のあとに行く。劇場前の広場で待ち合わせたい。
待ち合わせの時間は夕方。
「……わかった、と伝えて」
エリシアはメイドに返事を託し、そっと封を閉じた。
夜の舞台に向けて、着替えを準備しなければならない。
メイドたちが支度を整え、優雅な装いを用意するなか、彼女の胸には静かな高揚感があった。
窓辺に差し込む夕暮れの光が、部屋の中を赤く染めていた。
身支度を整えたエリシアが最後に手鏡を覗き込んでいたそのとき。
窓の外から小さな音が聞こえた。振り向くと、そこには漆黒の影があった。
窓枠の上に、金色の瞳を光らせる黒猫。
「……また勝手に入ってきたのね」
「今日は絶対に出かけるな」
猫さんの声は、いつになく真剣だった。
エリシアは微かに眉を寄せる。
「どうして?」
「行ったら……お前は馬車にひかれて意識不明になり、3年も目覚めない」
部屋の空気が凍りついたようだった。
その金色の瞳は、深い焦燥を滲ませていた。
「……冗談でしょう?」
「そんなわけないだろう。俺はこんなたちの悪い冗談は言わない」
猫さんはまっすぐエリシアを見上げた。
それは、決して嘘ではないと告げる瞳だった。
エリシアはそっと息を呑む。
「……ヴィクトルは? 私との待ち合わせで馬車にひかれるなら、ヴィクトルは大丈夫なの?」
「……」
猫さんは答えなかった。
けれど、その沈黙こそが答えだった。
「……ねえ、猫さん。いいえ、ヴィクトル、本当のことを教えて」
エリシアは微笑んだ。
「どうして俺がヴィクトルだと……」
猫さんの言葉が、途切れる。
エリシアの心の中で、点と点が繋がった。
本当はどこかでわかっていたのかもしれない。
すべての物事がそこに集約していくかのようにつながっていく。
「ねえ、あなたはヴィクトルなんでしょう? 祝福で猫になったの?」
「……俺の祝福は、過去への干渉だ。それもいくつか制約があって、いまは未来から意識だけを飛ばして猫の体を借りている状態だ」
「そう。それで、ヴィクトル。あなたは、その馬車でどうなるの?」
「……」
猫さんの耳が、かすかに伏せられる。
そして、ようやく絞り出すように答えた。
「待ち合わせの広場で、暴走した馬車が俺に突っ込んでくる。そして、君は……」
「あなたのかわりにひかれたのね」
静かに、言葉を紡ぐ。
猫さんは、目を伏せた。
「なら、私は行かなくちゃ」
エリシアは立ち上がった。
「どうして……!?」
「私が行かないと、あなたがひかれてしまうわ」
彼の代わりに。彼を守るために。
「頼むから行かないでくれ」
猫さんの声は、かすかに震えていた。
「俺は過去の自分とは会えない制約があるんだ。俺は広場には行けない。頼む……お願いだから、行かないでくれ。ここにいてくれ」
「でも、あなたがひかれてしまうわ」
「俺はもしかしたら軽傷で済むかもしれないだろう」
「そんな保障はないじゃない。でも私なら、たとえ意識がなくても、3年後まで生きているんでしょう?」
「いやだ。目覚めない君を待つなんて、もう耐えられない。俺は君が笑ってくれてさえいれば、それでいい。俺のことなんて捨て置いてくれ」
ああ。なんて必死に、悲しそうに、辛そうに、愛の言葉をしゃべる猫なのだろう。
エリシアは心からの笑みを浮かべた。
ぴくりと黒い耳が動く。
そっと、黒猫の小さな身体を抱きしめる。
その毛並みは、夜の闇のように柔らかく、けれどどこか儚かった。
「大丈夫。未来で会いましょう」
耳元で囁くように言うと、エリシアはそっと彼を離した。
黒猫の金色の瞳が、かすかに揺れる。
けれど、もうエリシアの決意は揺るがなかった。
部屋を出ると、廊下にはメイドが待機していた。
「お出かけの準備を」
エリシアは静かに告げる。
「今すぐ、ヴィクトルのところへ向かうわ」
メイドは軽く頷き、すぐに外出の支度を整える。
マントを羽織り、髪を整え、最後に薄手の手袋を嵌める。
その間、黒猫は何も言わなかった。
ただ、部屋の奥でじっと佇んでいた。
エリシアは最後に、一度だけ振り返る。
──窓辺に座る黒猫の姿があった。
その金色の瞳は、どこまでも寂しげだった。
けれど、エリシアは微笑む。
「行ってくるわ」
そう告げて、彼女は運命の広場へと向かった。
夜の帳が下りた王都の広場は、灯火に照らされ、柔らかな金色の光を帯びていた。
劇場へ向かう貴族たちが談笑しながら行き交い、馬車が石畳を滑るように進んでいく。
穏やかな夜だった。
少なくとも、その瞬間までは。
エリシアは足早に広場へ向かい、息を整えた。
ヴィクトルはまだ来ていない。
だが、彼は必ず来る。
そのときだった。
──遠くから、蹄の音が響いた。
けたたましい馬の嘶き。
重く響く車輪の軋み。
エリシアが振り向いた瞬間、目に飛び込んできたのは、暴走する黒い馬車だった。
制御を失った馬たちが狂ったように走り、御者の姿はない。
ただ、制動をかけることなく広場へ突っ込んでくる。
そして、進路の先にいるのは──
ヴィクトル・アイゼンハルト。
「……!!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
走る。令嬢生活の中で、こんなに走ったことは一度もない。
スカートの裾が翻り、風を切る。
靴音が石畳を打ち、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。
間に合う。
間に合え。
間に合わせる。
「ヴィクトル!!」
彼が驚いたようにこちらを振り向く。
馬車の轟音が広場を揺るがす。
ぶつかる──!
その瞬間。エリシアはヴィクトルを突き飛ばした。
──そして、代わりに自分の身体が、暴走馬車の軌道に入る。
衝撃。
身体が宙を舞う。
「エリシア!!」
遠ざかる視界の中で、ヴィクトルがこちらへ手を伸ばしていた。
彼の顔が、いつになく歪んでいる。
冷静な彼が、今にも崩れそうな表情で、必死に名前を呼んでいた。
──そんな顔しないで。
私は、あなたが生きていれば、それでいいのだから。
意識が、ゆっくりと浮上していく。
どこか遠くで、鳥のさえずりが聞こえる。
柔らかな陽の光がカーテン越しに差し込み、心地よい温もりが肌を撫でる。
だが、瞼は重く、頭は鈍い霧の中にあるようにぼんやりとしていた。
──ここはどこだろう。
うっすらと目を開けると、見慣れない天蓋が視界に入る。
繊細な刺繍が施されたカーテンが揺れ、室内は静寂に包まれていた。
柔らかなシーツの感触が肌に馴染み、ふと、自分がベッドに寝かされていることに気づく。
(……私は、たしか……)
思い出そうとした途端、全身に鈍い痛みが広がった。
腕も、脚も、思うように動かせない。
まるで長い間、眠り続けていたかのように、身体が自分のものではないようだった。
微かに指を動かそうとすると、何かが手を包み込んでいることに気づく。
(……?)
そっと視線を向ける。
そこには、一人の男がいた。
朝の光を帯びた黒髪。
長いまつげに覆われた閉じられた瞳。
しっかりとした手が、彼女の手を握りしめ、ベッドに突っ伏して眠っている。
それは、ヴィクトル・アイゼンハルト。
だが──
彼の雰囲気は、彼女の知るものとはどこか違っていた。
肩幅は広く、以前よりも体つきがしっかりとしている。
漆黒の軍服は、より洗練された刺繍が施され、袖口には格式ある紋章が刻まれていた。
長く伸びた前髪が額にかかり、疲れたような顔をして、彼はエリシアの手を握ったまま眠っている。
(……ヴィクトル?)
思わず、彼の名を呼ぼうとした。
しかし、声が掠れ、うまく出ない。
それでも、微かに指を動かすと、握られていた手が僅かにぴくりと震えた。
次の瞬間、ヴィクトルの指が強くエリシアの手を握りしめる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が開かれる。
いつも鋼のように冷静だった灰色の瞳が、滲むような熱を帯び、彼女を見つめていた。
エリシアは、その瞳の奥に、幾千もの夜を超えてきたような深い感情を見た気がした。
静寂が落ちる。
そして──
「……ああ。やっと会えた」
ヴィクトルの声は、低く、震えていた。
まるで、何年も待ち続けた末に、ようやく辿り着いたかのように。
──あの夜、暴走馬車に轢かれた自分。
──必死に名前を呼んでいたヴィクトルの声。
──そして、猫さんが言った「三年も目覚めない」という言葉。
(……私、本当に三年も眠っていたのかしら?)
答えを知るのが、怖かった。
けれど、今はただ、この目の前の男が、どれほどの時間を耐えてきたのかを思うと、胸が締めつけられるような思いがした。
エリシアは、微かに唇を開く。
「……おはよう、ヴィクトル」
かすれた声だった。
けれど、それを聞いた瞬間、ヴィクトルは微かに瞳を揺らした。
そして──
強く、強く、彼女の手を握りしめた。
ご都合主義ハッピーエンドになっちゃいました。
会えてよかったね!と思った方はよければポチッとお願いいたします(* ᴗ͈ˬᴗ͈)”