41時限目 凍える私の手をとって
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
暖色に暗く灯った廊下を駆け、ひたすらに息を切らす。
耳に残る呪いを、足枷を引きずりながら、わたしはただひたすらに走った。
走り、逃げ、怖く、嫌で、嫌いで、恐れ、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに。
『ねぇ、貴女はどうして──────』
「満弦さん……わたしは、────わたしはっ」
一時間ほど前のことだった。
「咲夜ちゃん。ちょっと」
「……! どうしたんですか」
毅然とした両者は、前日の微笑みあいなど忘れたようで。
爽やかな暖色のブラウスに身を包んだ満弦さんは、不意にわたしを呼び止めた。
意図は分かる。
心のぽっかりと空いたわたしは、心の満ち満ちたこの人に諭されるのだろう。
そう思いながら満弦さんの背を追い歩いていった。
着いたのは、昨夜と同じ満弦さんの自室。
シーツのシワなど一つもなく、昨夜と同じ光景に喉を鳴らす。
満弦さんはぽすっとベッドに座るが、どうにもわたしは座ることが出来なかった。
「……座りたくないなら、そのままでも良いわ」
「…………はい、すみません」
隔壁のある発言に、唇を少し歪ませる。
だが、わたしは変わらず座ることはない。
あのゲームは満弦さんが提案してきたことだ。であるならば、あの少女に会わせるのも満弦さん、もしくは先生の差し金。強制的に心を開かせて何かをさせたかったのだろう。思惑通りに嵌まってしまう自分が情けない。
先生らの思惑がもしその通りならば、満弦さんだって少なからず何かしらのことは聞いているはずだ。
そうであれば、素直に話をすることはできない。わたしは先陣を切って発言した。
「満弦さんは、先生かレナちゃ――――あの人から何か聞いているんですか?」
「いえ、何も。――――ただ、あなたが話すことがあるようだったからここに呼んだだけよ」
嘘偽りのない瞳。真剣な表情で私を見つめる。その瞳の奥には何の害意も感じられなかった。曇りなき眼に少し身じろぎしてしまう。頑張ってわたしは口を開いた。
「わたしは、自分でも中々自由奔放だと思ってます」
「…………そう」
「気ままで同調することもありますけど、でも嫌なことは嫌ってちゃんと言えるし、だから─────」
「だから、何かを言われる筋合いはない?」
「………………」
満弦さんは、昨夜とは豹変して超然とした態度で、だがどこか優しさの残る声でそう言った。
思わず理解が追い付かなくなる。ゆっくりと届いた言葉を噛み砕いて、首を縦に振った。
「貴女のそれはとても良いと思うわ。高校生にしては十分すぎるほどの理性と完結した考え。他人を捨てることなく、自分も捨てない。並の大人にだってできることでもない」
「っ? あ、ありがとうございます」
「───────」
満足そうな笑みを浮かべて、冷蔵庫に備えていただろう飲み物を開けた。とくとくとグラスに注ぎ、大人っぽく揺らして一口飲む。
呑み込んで、もう十分だと言わんばかりに。
…………
…………
「…………あの」
「なに?」
「それで話は……?」
「これで終わりだけど」
「なっ、えっ!?」
「わたしは自己管理の真っ当な人間には怒りはしないわ。ただ、できないと怒りはするけど」
グラスの飲み物を更に一口。
わたしは呆気に取られて胸を撫で下ろした。
頬の筋肉の強張りが解け、微かに緩む。
「なんだ……てっきり」
「怒られるって?」
「そりゃそうですよ…………だってわたし、冷たい態度取っちゃったし……」
「その辺りは何も感じてないわ。ただ、疑問は一つだけあるけど」
「……?」
その穏やかな笑みから零れる不思議そうな表情に、わたしはつい先を望んでしまった。
さもこれが本音だというように。
これこそ、伝えたかったことのように。
「貴女は何で、好きなものを好きと言えないのか。そこだけは私にとっても不理解だわ」
「っっ!!」
刺すように。だがそれは脅迫や怒気などの鋭いものではなく。
子どもの手にしたフォークのような、そんな柔らかさと切れ味があった。
「過去のしがらみはとっくに自分で解決している。それでも貴女が素直に自分の感情を受け入れることができないのは、何か理由があるんじゃないの……?」
「………………」
「ねぇ、貴女はどうして、自分を許せないの?」
直後、わたしは走り出していた。
扉を勢いよく開け、満弦さんの声も置き去りに、自分の顔がどうなっているのかも知らずに、逃げ出した。
自分でさえも、どうして触れてほしくないのか分からない。
ただそれは、永遠に自分じゃどうしようもないことなのは分かっていた。
そしてそれを触れられることさえも─────
なんで、なんでそんなことを言うの?
満弦さんはわたしの味方じゃなかったの?
なんで? どうして?
自室に戻ろうとしたのだが、カードキーをどこにしまったのか忘れた挙げ句、いくら探しても見当たらない。
考える余地もなくわたしは誰の眼にもつかない場所へ逃げ込んだ。
一人で踞り、ついには涙さえ溢れてきて。
自分が如何に滑稽かなんて客観的に見ればすぐに分かることだろう。
だが、それでも涙は止めることはできず。
花火の音が、無闇にわたしをかき消した。
わたしは…………わたしのせいでまた嫌な思いをする人が増えてほしくない。
その感情を持ったのは、わたしが前の彼と別れた時だった。
『わたしに恋愛は向いていない』
そうレッテルを貼ることで、自分が自分から異性に眼を追わせることを無くした。
わたしが無為に迫ることで、また彼のような狂う人を、痛むわたしを作らなくて済む。
簡単なことだ。わたしが異性を好きにならなければいい。
わたしが女の子と仲良くさえしていれば、わたしのことを眼で追う人なんて現れはしないだろう。
友達を利用した───といえば聞こえは悪いだろうが、わたしはそれでも男性と接点を持つことはなくした。
都合がよかったのだ。
わたしはその限られた中でなら自由だ。
わたしの自由はここ以外には存在しないのだ、と。
それで良かった。それだけで良かった。
誰も嫌わない世界。
誰にも好かれない世界。
なんて完結した良い世界なんだろうか。
だというのに、わたしに迫る人が現れた。
相手は学年を誇る天才だという。わたしには不釣り合いだ。役不足ではなく、純粋にレッテルが合っていない。
そこからは分からないことの連続だ。
わからないことなのに、わからないままに、わたしの世界を侵食する。
嫌なのに、怖いのに、受け入れたいと。
またしても分からない感情が邪魔をする。
分からない、分からない、分からない。
ただ、その手に触れたい。
それを許す理由が分からない。
それを拒む理由が分からない。
綴るには一ページにも満たない感情に、疑問に。わたしはわたしでさえ気持ちの整理がつかなかった。
この冷たい手は、抱えきれない疑問を持つだけで、ただの一度も熱を持つことはなかった。
足音がする。
息を切らして、辛そうに呼吸をしている。
「……っ…………おい」
不意に耳につんざく男の声。
荒げた息はまだ戻らない。
「そこで、何してんだよ」
暗い暗い陰の中、わたしはその嫌な声に顔を上げた。
なんでこんなに音が鮮明なのだろう。
そう思って耳を澄ますと、既に花火は終わっていた。
あぁ、そうか。花火は終わったんだ。
もう、どうでもいいことなのに。
「返事ぐらいしろよ!」
「────っ」
その罵声に思わず反応してしまい、肩がビクッと揺れる。
そもそも何故彼はここにいるのだろう。花火はどうしたというのか。
勝手に楽しんでればよかったのに。
どうしてわたしなんかを探していたのだろうか。
どうして、どうして……。
「とりあえず─────立てるか?」
棘のある口調は変わらないまま、わたしは伸ばされた手を取るか悩んだ。
手を伸ばせずにいた。
俊巡した後、一人でゆっくりと立ち上がる。
「どうして…………ここが分かったの」
「は? そんなのは別にいいだろ」
「良くないよ! だって、わたしなんかのために」
自分が嫌になる。
わたしが声を大きくすると、彼は一瞬表情を崩した。後頭部をさすり、ぽつぽつと、ここに至った経緯を教えてくれた。
奏ちゃん達から行方知れずを聞いたこと。部屋もラウンジもビーチ一帯も、どこを探しても見当たらなかったということ。そして、最後は彼の勘という悪辣な偶然により探し出してきたということ。
「だからって……ここが分かるわけ───」
「誰にも知られたくないのに、誰かに見つけて欲しい。だから君は、ビーチの陰に居たんだろ」
食い気味に即答する彼は、吐き捨てるようにそう告げた。
ビーチの陰……それは以前わたしと一緒にいた友人が、彼のいる前で発していた誰の眼にも触れないような場所。花火の打ちあがっている場所とは正反対に位置する誰も気づかないような場所。
当然、普通に考えればこんな場所に行き着くはずはない。
ホテルの回りだっていくらでも隠れる場所なんてあるだろう。わたしを見つけるなんて無理無茶なんて誰もしたくないことを。だというのに。
目尻に浮かぶ涙を拭き、鼻を啜る。
「なんで……」
「何でも何も、僕は君に伝えるべきことがあるからな」
「…………?」
すぅっと息を吐き、夜も帳の落ちた九時に、彼の声はわたしの耳朶を打つ。
「君の考えが嫌いだ」
「っっ!! 急に何…………」
「急でもない。僕は端から君の考えが嫌いなだけだ」
「考えって……あなたに私の何が分かるの!?」
「わかるよ、サヤ」
「…………!!!」
その呼び方に一瞬考えが怯む。だってその呼び方をする男の人は、わたしがつい昨晩出会った相手しかいないからだ。彼には一度たりとわたしの話をしたことがない。だというのに知っているのだとしたら、彼女は――――
「ひどい人」
「今はそんなことはどうだっていいだろ」
拭っても拭っても涙はまだぼろぼろと落ちていく。あぁ、なんで止まってくれないんだろう。早くとまってほしい。早くわたしの前からいなくなって。わたしを一人にさせて欲しい。
一人だったらまだ、時間が経てば全て解決できるというのに。
氷室くんはそんなわたしの考えなんてまるで興味もないように言葉を紡ぎ始めた。
「君がどれだけ辛いことを経験したのか、君の口から聞いたよ。どれだけ悲しかったのか。どれだけ無理をしてきたのか。
――――そして、どんな結論に達したのか」
「それがなに」
話の意図が読めず苛立ちを見せてしまう。やはり自分を嫌いだと思ってしまう。
本当はそう思っていないのに。本当はもっと素直になりたいのに。
しがらみが邪魔をして、わたしは一生─────
「だから、その考えが不愉快なんだ」
「…………考えって、あなたに何が分かるの?」
「知らない。知ったことか。ただそんな自動的に生産された答えに僕は納得したくないし、理解も示したくない」
「理解って……結局わたしはあなたのことはなんとも思ってなくて! 付きまとわれるのも嫌なの! だからもう放っておいてよ!!!」
「それこそ知るか。他人を理由にして生きる方が楽なのか? 他人をそうさせた自分が理由になる方が楽なのか? 僕はそうとは思わないな」
「わたしは今の状況で満足してるの! わたしが良いって言ってるの! なんであなたがそんなこと勝手に決めるの!? 関係ないでしょ!? たかだか話して一日ちょっとでわたしのこと分かったような口きかないでよ!!!」
「ならちったぁ自分のことばっかじゃなくて目の前の相手を見ろよ!」
「っっっ!!!」
挑発的な言葉は加速する。わたしを怒らせたいの? もう放ってよ。いなくなってよ。
怒号のように私へ向けるその言葉は、まるでわたしへの好意など微塵も感じられなかった。
不意な怒気に、わたしは俊巡してしまう。
核心づいたその棘に、思わず息を飲む。
一拍おいてわたしは反論した。
「あなたには向き合ったでしょ!? これ以上どうこうする義理もないし! そもそもわたしのこと騙して近づいて、わたしはあなたを好きには─────」
「今は好きとか好きじゃないとかの話なんかじゃない!」
更なる怒気を孕むその声に、わたしは敵する如くいっそう声を大きくした。
波が小さくさざめく。月影法師は波のせいでゆらゆらと揺らめいていた。
ホテルの明かりがぽつぽつと、灯り出す。
「なんであなたがわたしの心を決めるの!?」
「キミが間違った基準で判断してるからだろ!? それを勝手に本心だなんて、そんなの間違うに決まってる」
「そんなの知らない! わたしは知らないの!」
あぁ、だんだんと目頭が熱くなってくる。
涙だ。眼前の男性とどう接していいのか分からず、また涙が出てきている。なんでこの人はわたしなんかにつきまとうのだろう。もう一人にして欲しい。だというのになんで、なんでわたしは――――
「そんなのこれから知ってけばいいだろ! 間違いなんて犯してそっからだ。間違った分正してけばいい!」
「それがまた間違うかもしれないじゃん!!」
「そうならまた直してけばいいだろうが!」
「そんなの……わたしには分かんない。分かんないよっ!!!」
分からない。どうすればいいのかさえ、どうなるべきかなんていうのは。正解なんて誰も教えてくれない。
ぼろぼろになった顔で、砂浜を涙で濡らしながら、わたしは不安定に立つ。
「僕にだって分かるもんか! ただ分かるのは! キミを理由に振るのは間違ってる!」
「!!」
「例え僕じゃなくたっていい。誰が告白するにしろ、自分自身を理由にした答えは相手を見てないのと同じだろ! それだったらまだ僕の短所を言われた方がマシさ!」
滲む視界でわたしは彼を見る。頭が茹ってきているみたいで、体の重心が保てない。
いよいよ彼すらも言葉が継ぎ接ぎになってきたのか、自棄になって声を荒げ、わたしの肩を握る。力が強くなる。彼も同じ気概だったのか、苛立ちか興奮か憤怒か罪悪感か、彼はどうとも言えぬ表情で告げてみせた。
「だぁもう結局言いてぇのは! ひよって頭ごなしに恋愛から逃げてるんじゃなくて! ちっとは向き合って見てやってくれってだけなんだよ!」
っ…………
「誰でもいい。誰でもいいんだ。それがたまたま、僕であればただ嬉しいって。それだけなんだよ…………」
所在なさげに、それこそ告白している人間には到底思えないだろう。おずおずと、さっきまでの威勢はどこへ行ったのやら。減速した勢いはまるで生気をなくしたかのように衰える。
照れくさくなったのか肩に置く手さえ放し、バッと体を遠退けた。
なんでよ。あれだけ勢いよくわたしのことをどうこう言っていたのに、急に照れ臭くなって。しかもこの期に及んで告白なんて、どうかしている。
思考は全てそれに奪われて、わたしは目の前の人のことしか考えられなくなっていた。自分のことなんか、考える余地を許してくれなかった。
思わず笑ってしまった。こんな弱気なのに、引っ張る所はあんなにも勇ましく、格好いいのだから。
「……っふふ……。なにそれ♪ ホントに、変なの」
「っ!! 笑うなよ……」
本当に、本当におかしなヒトだ。こんなにも、意識を奪われてしまうのだから。
あぁ、なんて。
なんて綺麗なんだろう。
「…………ねぇ」
「…………?」
「わたし、やっぱりあなたが好き」
毅然とした表情を取り繕おうとしていた彼は、急な告白に目を白黒させた。あまりにもおかしくて、おかしくて思わず笑ってしまう。こんな急に告白されるなんて予想だにしていなかったのだろう。これだけ人を狂わせておいてそれとは……罪作りもほどほどにして欲しい。ここまでされたら意趣返しの一つくらいしてやらないとただ負けているみたいじゃない。
わたしはひとしきり笑ったあと、すぅっと深呼吸をして─────彼のワイシャツを引っ張り、
「「────────」」
頬に、キスをした。
「…………ふふん♪」
「……あのなぁ…………」
「嫌だった?」
「っ…………そうじゃないけど…………」
二人して顔を赤くさせながら、眼を合わせる。彼は耐えきれなくなったのか、顔をそらして海を見た。
そして海に浮く月を眺め、彼は意を決して叫ぶ。
「付き合って欲しい」
「──────……むぅ。そういうのって真正面で言うものじゃないの?」
「うるさい…………こうでもしないと、今直視できないんだよ」
「っ♪ えへへ…………。はい、喜んで」
彼――――氷室くんの手を握り、揃って海へ足を向ける。
あぁ、氷室くんの手はとても──────────とても、温かかった。




