92 爺やのその後
火曜日。放課後。
昨日キーネンの爺やである楠木正蔵さんが救急車に乗せられていくのを見送って以降、キーネンから音沙汰はない。無論、連絡先の交換なんてしてないので当然だが、こんなに気になるならしておけば良かったかもしれない。
私は放課後になってすぐにオケ部へ向かうと、キーネンの姿を探した。
いた……!
「キーネン! 楠木さんどうなった!?」
「V1――香月か……あぁ一命を取り留めた。そうか、お前へは連絡していなかったな。
お前の迅速な対応が功を奏したのだ。雇い主として感謝するぞ香月。
元V1――水無月にもそう伝えてやってくれ。心配していたようだったからな」
「そっか~良かった~」
私はへなへなとその場に座り込みそうになってしまう。
そうしてなんとか足を踏ん張ると、水無月さんにメッセージを送った。
“爺や一命を取り留めたって!”
すぐに返信が来た。
“そう……! 本当に良かったわ!”
水無月さんもとても嬉しそうだ。
「香月、それはそうと練習だ。定期演奏会までは3週間を切っているのだからな!」
キーネンは意気揚々と私へ練習を促す。
私はキーネンの私と水無月さんの呼び名がV1と元V1から、香月と水無月へと変化しているのに気付いている。これはキーネンルートで最も重要なフラグなのだ。
名前で呼ぶだけならば今までも何度かはあった。
しかしキーネンは爺やが一命を取り留めた場合にのみ、指揮時以外にパート名で人を呼ぶことをやめるようになる。これこそが、キーネンが他者に心を開くきっかけになるのだ。
キーネンの爺やを助けたことで自動的にフラグを立ててしまったわけだが後悔はなかった。楠木さんには天羽さんを助けるときにもお世話になったのだ。
キーネンが私や神奈川さん、そして水無月さんを好きになり始めてしまうかもしれないけど、からといって爺やを見捨てるなんて選択肢はない。ないのだ。
私はそこまで畜生にはなれない。
それに3人でキーネンのヘイトを分割すれば、きっと大丈夫。
私はそう思いながら楽器室へ行き、ヴァイオリンの準備を始めた。
∬
オケ部での練習後。キーネン家でのアルバイトを終えた私は水無月さん、神奈川さんと共に、休憩室兼ロッカーにいた。話題は爺やの話だ。
神奈川さんが話し始める。
「楠木さん、心臓発作だったんですって。
香月さんが早めに救急車を呼んでくれたおかげで助かったんでしょう?」
「うん……まぁね」
私が答えると、水無月さんが「えぇ……命に別条はないようで本当に良かったわ」と続ける。
「キーネンが心を許してるのは爺やくらいだもんね。ほんと助かってよかったよ」
私が言うと水無月さんが気付いたらしく、神奈川さんを見た。
「神奈川さん。今後、斎藤くんになにか頼られたりとかがあったらいつでも相談して頂戴」
「え? うん。分かったけどどうして?」
水無月さんの言葉に神奈川さんは軽く困惑している。
「楠木さんがいなくなったことで、相談相手がしばらくの間他の人に移ると思うからよ。
まぁ神奈川さんが主従関係を超えて、斎藤くんと良い仲になりたいって言うなら邪魔はしないつもりよ……」
「あぁそういうことね! 別に私にはそういうつもりないから!
お金のためにやってる仕事だしね。分かったわ。なにかあれば相談させて貰います」
神奈川さんはそう言って微笑んだ。
「でも、私よりも香月さんや水無月さんの方が今のところ斎藤くんに近いんじゃないの?」
神奈川さんが勘ぐるような表情で私と水無月さんとを見やる。
「私はそういうの一切ないから!」
「私も……別に骨折していた期間、秘書業に専念していただけよ。
それも雨宮さんが出来る仕事だし、骨折が治った今、私がぜひにとやるべき仕事じゃなくなったわ」
私と水無月さんが答え、神奈川さんが「ほほ~んなるほど!」と理解を示してか示さずかにやりと笑う。
「さぁ、着替えも終わったことだしさっさとお暇しましょう。
明日からは修学旅行だもの」
水無月さんが鞄を持って休憩室兼ロッカーを出る。
それに私と神奈川さんが「はーい」と続いた。
 




