【6】
風邪が流行っている、と言ったのはルーシャンであるが、まさか自分が風邪を引くとは思わなかった。着々と引っ越しの進んでいる、年末のことである。
「寒空の中薄着の姉さんは風邪ひかないのに……」
「お前が風邪の患者を診察していたからでしょう。みんな、私にうつすまいと必死だからね」
頭を撫でられてベッドに横になったままそちらを見ると、メイが微笑んでいた。特段美人というわけではないメイだが、整った顔立ちではある。笑っていれば可愛いと思う。姉さんだけど。
「じゃあ、姉さん、ここにいたらいけないんじゃないの……」
ルーシャンだって風邪だ。うつったらどうするのだ。メイは苦笑する。
「そうか。せっかくホットレモネードを作ってきたが、いらないんだな」
「飲む~」
重い体を起こして、メイからホットレモネードを受け取った。メイの作るホットレモネードはたっぷりはちみつが入っている。これを自分ではなくジーンが飲むようになるのだろうか、と思うと、レシピを教えてほしくなる。
「結局僕は姉離れできない……」
しくしく泣きながら言うと、頭を撫でられた。メイは基本的に面倒見が良い。年は一年と少ししか変わらないが、ずいぶんルーシャンのことを甘やかしてくれた。
「姉さん、ジーンにもこういうことするの?」
鼻をすすりながら尋ねると、メイは「ジーンにはしたことないなぁ」と言った。
「ジーンに姉さん取られちゃうんだね……」
自分で激推ししたくせに、そんな言葉が漏れる。やっぱり姉離れできていない。
「私だって、お前をニーヴに取られてるよ」
もう一度ルーシャンの頭を撫でて、メイは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、薬飲んで寝てなよ。私は仕事に戻る」
今、人が少なくて超絶忙しいのだ。これ以上メイが空ければシャーリーに恨まれてしまう。ルーシャンも「うん」とうなずいてメイを見送る。ホットレモネードを飲み切ってマグカップをサイドテーブルに置き、薬も飲んでベッドにもぐりこんだ。たくさん寝たと思ったが、まだ眠れる自分にびっくりした。
次に目を覚ますと、ニーヴが覗き込んでいた。ルーシャンを目が合うと、ニコッと笑う。今日もかわいい。
『おはよう。体調はどう?』
「ん。少し楽」
メイと話していた時よりは、熱が下がっている気がした。気のせいかもしれないけど。ニーヴのほっそりした手がルーシャンの額に触れる。触れたが、小首をかしげた。わからなかったらしい。だが、ニーヴは読心能力がある。
『でも、少し元気になったようでよかった』
スケッチブックに書いた文字を見せられた。ルーシャンも横になったままへにゃりと笑う。
『今夕方です。お腹はすいていませんか』
メイがやってきたのは昼過ぎだったから、三時間ほど寝ていたらしい。そして残念ながらお腹はすいていなかった。食べた方がいいのはわかっているのだが。
『食べられそうなものはありますか? 果物とか』
「あ、果物なら少し食べられる気がする……それか、姉さんのカスタードプディング」
なぜかわからないが、風邪から回復して着たらこれが無性に食べたくなる。いろいろさがしたのだが、当たり前だが同じものは発見できなかった。
ニーヴは驚いたように目をしばたたかせ、『伝えておきます』とスケッチブックに書いた。あまり期待はしていない。今、忙しいはずだからだ。
ニーヴがむいてくれたオレンジを少し食べ、薬を飲んでもうひと眠りすることにした。次に目が覚めるときはもう少し楽になっているといいな。
ぎしりとマットレスが沈んだ。ここはアイヴィー城の病室だが、いいベッドとマットレスから順に引っ越ししているので、ルーシャンが寝ているやつは少し古いものだ。きしんでも不思議ではない。
唇に柔らかいものが触れて、さすがにルーシャンは目を開けた。ベッドに腰かけたニーヴが身を乗り出していた。キスされたのだ。
「風邪、うつるよ」
うん、とうなずかれた。もう一度唇が触れる。今度はちょっと長かった。ゆっくりとニーヴが離れていき、にこりと笑う。その唇が『おやすみ』と動いた。ルーシャンはちょっと眠れなさそうな気がしたが、目を閉じると間もなく眠気が訪れた。やはり、体調があまりよろしくないんだな……。
再び、目を開ける。外は暗いようだが、時間的には早朝だ。この国の冬は夜が長い。
起き上がって伸びをしてみる。丸一日寝ていたからか、だるさはあるものの熱は下がったような気がする。手元のライトをつけ、水差しから水を飲む。なんだかおなかもすいてきたような気がする。
だが、人が来るまではおとなしく寝ていようと、お手洗いに行ってから再びベッドに横になる。が、今度は眠くならないのでベッドに横になっているだけだった。暇だ。もう一日休んでいる必要がありそうなので、本でも持ってきてもらおうか。
「おはよう」
ドアが開いた。声は姉のものだ。だが、ててて、と駆け寄ってきたのはニーヴ。二人で来たらしい。
「おはよう、姉さん、ニーヴ」
ニーヴののどが小さく「ん」となって、彼女は微笑んだ。メイが明かりをつけ、ニーヴがカーテンを開ける。
「え、大雪」
しんしんと雪が降っていた。道理で暗いわけだ。なんとなく納得してしまった。
「昨日の夜から降ってる。おかげで私たちも城内に缶詰め。まあ、家具とかほとんど向こうに送っちゃったから、家でもそんなに違いはないんだけど」
姉はおおざっぱだが、さすがにやることは期日内にきちんと終わらせる。そういう才能なのだと思うが……数日前に、ずっと使っていた家を片付けて、まだ使うものは引っ越し先に送ってしまっていた。ルーシャンはアイヴィー城内に部屋を借りているので、比較的身軽だが、九年近くここで暮らしているメイはそうはいかなかった。ものが多いのだ。引っ越し順としては、メイたちはしんがりだ。少ない物資でしばらく過ごすことになる。
「それより、体調はどう?」
「あ、うん。ずいぶんいい。おなかすいた」
そう言うと、メイは笑って「大丈夫そうだね」と言った。
「プディング作ったけど、食べる?」
「食べる。え、作ったの? 忙しいのに?」
「ニーヴに聞いたから」
と言われたのでニーヴを見ると、どや顔だった。ありがとう。
「私たちも外に出られなかったし、城の中で暇だったから。人も少ないし」
「もう半分くらい引っ越ししてるもんね……」
ルーシャンも熱で倒れなければ、すでに引っ越し先に移動している予定だった。メイトとニーヴはしんがりだが、ルーシャンは半ばほどの移動予定だった。
「でも、大雪で予定が狂ってるんじゃないの?」
ニーヴからプディングを受け取り、メイには温かい紅茶にはちみつをたっぷり入れたものを受け取った。
「至れり尽くせり」
「風邪の間だけだよ」
「そう言いながら、姉さん僕らに甘いよ」
ニーヴが深くうなずいた。彼女もそう思っているらしい。メイは肩をすくめただけだった。
「ニーヴ、見ていてやれ。私は引っ越し予定を組みなおしてくる」
「予定狂ってるんじゃん。姉さん、ありがとう。大好き」
「ん」
あっさりとメイが出て行く。ニーヴは残って、ルーシャンと一緒にカスタードプディングを食べていた。
「小さいころ、姉さんがよく作ってくれたんだ。熱が出ると無性に食べたくなるんだよね」
ニーヴがルーシャンの言葉を受けてスケッチブックに、『おいしい』と書く。メイの作るお菓子は、大体おいしい。初めてのものを作るとたまに失敗するが、それは稀だ。
『食べたらまた寝てくださいね。今日一日は休養です』
ヴィオラか誰かに言われたのだろう。ニーヴがスケッチブックに書いて見せた。ルーシャンは笑ってうなずいた。そうだろうと思っていた。
起きたらたぶん、もっとお腹がすいていると思う。
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