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六話

 通話を終えた彼女はスマホをぽいと放った。ごろりと寝転がって私を見上げる。伸びた手が私の指先に触れる。とっくに感覚を失っている私は応えることもできない。絡まる指の熱が少しだけ神経を灼いた。

「お待たせしーちゃん」

 彼女の笑みはいつも無邪気だ。

 私に向くそれらは、いくつ重ねても同じ形に見える。

 彼女は少しも変わっていなかった。

 少しも。

 私はどうだろう。

 自分ではあまり変わったようには感じない。

 会話しながら呼吸をするのはやはり苦手だ。彼女の傍にいると相変わらずため息は絶えなかった。パジャマのもこもこにはまあ少し慣れた。彼女のいたずらは心臓に悪いけれど、まだ絶叫は上がらない。

 ―――ああ、そういえば。

 ひとつだけ、少しだけ、違っているかもしれない。

「うん」

 頷く。

 彼女の言葉に私は。

 それだけで彼女は満足げに咲き、じゃれつくように私を抱きしめる。少し勢いが強くて肺が潰される。たまった鬱屈が強引に外に吐き出された。彼女が重りとなって綺麗な空気を思う存分に吸うことはできない。そもそも、この部屋の空気を吸ったところでか。

 解放される腕に血液が巡っていく。細胞の全てが解放に打ち震えるようなこの瞬間が嫌いだった。骨の髄から広がるような痺れは単純に不快だ。まるで他人の腕を突然に与えられたみたいだった。紛らわすように彼女を抱いた。

 感覚の鈍い指先をひやりとした黒髪に沈ませる。頭皮に触れれば指先に感じるちくちくとした心地で、リハビリのように刺激する。彼女はそうすると無意識なのか目を細める。頭に触れられることが好きなのかもしれない。それとも苦手なのを我慢しているのだろうか。どちらでもよかった。彼女の感情などどうでもいいことだった。

 私は少しだけ生意気になった。

 脳の奥で響く嬌声が私のなにかを腐らせたのだと思う。それは例えば怒りで、憎しみで、憐憫で、哀れみで、それとも愛か。彼女に向くはずだったなにかが失われたせいで、私は少しだけの自由を手にした。投げやりになったとも言う。

 くわえるはずの指先は彼女に触れた。閉じるばかりだった目で彼女の表情を追った。

 彼女はどうしてかそれを受け入れている。

 気まぐれだろうか。それともそもそもそんなことに興味はなかったのかもしれない。明日にでも拒まれるようになるのかもしれない。ならないかもしれない。彼女の気持ちは深く考えないようにしている。問うなどもってのほかだ。知らないままでいいのだと思う。きっとそれが一番平和だった。多分、サクノと私にとっては。

 指先の感覚はなかなか戻ってこない。いつか本当に神経に障害が残ってしまわないかとちょっぴり不安だった。ため息と入れ替えに、甘く華やかな香りが肺を満たす。

 彼女の髪からは今日もピーチローズが香っている。

 もうそれはお泊りの香りになっていた。サクノのお泊りを知ったコトリがその翌日には自前のマットレスを持って押し掛けてきたのには驚いたけれど、ともかくその持ち主はもう三人だ。今この瞬間にふたりきりでも、それは彼女だけの匂いではない。連想する順番はきっと彼女が一番最初だろうけれど。それだけだ。それだけ。

 彼女がもぞもぞと動く。

 私の両の手が彼女のそれと重なる。

 指が絡み合う。

 それに意味はない。単なる手慰みだ。からかっているようなもの。けれど多分私の指先に意思はあったのだと思う。少なくとも彼女の笑みはそう思っているようだった。

 ぐっと顔が近くなる。彼女は唇だけで恋人みたいだと囁いた。

 彼女にとっての恋人とは何だろう。身体を重ね、指を絡ませ、囁きを交わしながら眠るのが彼女の理想なのだろうか。案外彼女もロマンチストなのかもしれない。それともそれが私の理想だと思ってからかっているのか。……考えるまでもなさそうだった。

 私はなにをしているのだろうとふと思う。

 今の状況に意味はあるのだろうか。

 彼女を拒まず、こうしてベッドに上がり込ませている今に。

 自然と自嘲めいた笑みが浮かぶ。

 あるわけもなかった。意味などないのだ。こんなことに。

 彼女にも。もちろん私にも。

 彼女はいつそれに気がつくのだろう。


 どうして私だったんだ。


 私じゃなければきっともう終わっていた。この暑苦しいパジャマは肌になじむことはなかった。彼女の気まぐれに気がつくこともなかった。きっと彼女はもう何度も終わっている。だって彼女はあまりにも変わらないじゃないか。だからそれは間違いないはずだった。それなのにどうしてこんな私を選んだんだ。

 疑問は頑なに肺から外には出ようとしなかった。

 いつも通りのことだった。

 私は彼女の指を振りほどくように手を引いた。彼女は拒まない。気球のように肺が膨らんでいく。その熱が誰のものなのか、私にはもう分からなくなっている。それを知る方法は簡単だった。直接触れてみればいい。

 灯りを消す。

 月明かりさえ届かない私のベッドで、星だけが煌めいている。

 嬌声は響いている。いたぶるように、からかうように。

 そこに誘うような声を聞くようになったのは、誰のせいだろう。

 この嬌声は、一体誰のものだろう。

 彼女を包むヴェールに触れる。私の手を彼女は拒まない。透き通るように肌に触れると彼女はぴくりと震えた。瞬きに星が散る。

 熱は、きっと彼女のものだった。

 そう思いたくて、私は彼女の炎にためらいもなく手を突き入れた。

 すぐに脳の奥の声は遠ざかっていく。神経を逆流して、耳介を過ぎ去り、信号となって鼓膜を揺らした。耳元に触れる吐息さえもがあまりにもリアルだった。


 今日も、親友の恋人と私のベッドで寝ている。

ひとまずおしまい。

続きはまたしばらくの後に。

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