五話
「はい、コーヒー」
「わはー、ありがと」
湯気のたつマグを両手で受け取る彼女。手のひらに触れる熱に、慌てて取っ手に持ち替えては恥ずかしげに笑う。揺れた髪から嗅ぎなれたピーチローズが香る。脳裏に浮かんだ彼女の姿は瞬きで消えるほど朧気だった。
ぷくりと膨らんで蕾のようになる唇。花弁の隙間からふうふうと吹く吐息が湯気を躍らせた。来客用の新品のマグカップが初めて触れる唇が彼女のものであったことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
「あんますっぴん見ないでほしいんだケド」
ついじろじろと見つめていると、彼女は唇を尖らせる。
そこで初めて私は彼女がすっぴんなのだと気がついた。考えるまでもなく当然のことだったけれど、なぜか不思議な感覚になった。彼女はこんな顔をしていただろうか。
ぼんやりとした疑問を弄びながら、私は素直に謝罪をする。ついでにすっぴんも可愛いのだと余計なことを言ったら、彼女は真っ赤になってマグカップで顔を隠した。そういう仕草は正しく彼女らしい。
しみじみと納得する。
私の部屋には今、サクノがいるのだ。
頭にタオルを乗せた湯上りの姿でベッドに腰かけている。やましいことはない。夕立に降られた彼女を、私の部屋が近かったから応急処置的に連れてきてしまっただけのこと。そしてシャワーを貸して、パジャマを貸して、コーヒーでもてなす。親友なら当たり前のことだ。やましいことなど、あってたまるか。
「あ、もう止んでるじゃん外」
「ほんとだ。……ずいぶん運が悪かったね」
「ほんとだよもう」
黄金色に染まる窓の外。夕立はもう過ぎ去って、残ったのは憂鬱の水溜まりだけ。水面をちゃぷちゃぷ蹴飛ばした彼女は、ふと自分が長靴を履いているのを思い出したみたいに私を見る。
「でも、しーの家にお邪魔できてラッキーかも」
「そう?」
「だって今までなかなかタイミング合わなかったじゃん。ちょうどしーの方が休講になってなかったら、わたしびしょ濡れで帰ることになってたよ」
「そうだね」
頷きは、白々しく映らなかっただろうか。タイミングが合わないのは、だって、私の意思だ。まさか鉢合わせるわけにもいかないし、部屋のどこに彼女の面影があるのかも分からない。すっかりと風景に馴染んでしまって私の気がついていないそれにサクノが気がついてしまったら、私たちの関係は全てが終わりだ。きっと傷つくのは、サクノだけ。
だから彼女がこの部屋にいるというのは、今まで、ただの妄想でしかなかったはずなのに。
どうして今、彼女はここにいるのだろう。
そんなことを不思議に思って、彼女の姿を盗み見る。
サクノは、最近少し綺麗になった。
透明過ぎて見えなかった彼女の魅力がほんのわずか白濁して可視化されたからだと思う。きっともっと彼女は綺麗になるのだろう。私の目からは彼女の表情さえ見えなくなるほどに綺麗になっていくのだろう。彼女のすっぴんを見る機会が、いったい、この後どれほどあるのかは分からなかったけど。
それは喜ばしいことだ。素直に思う。そこに嘘はない。親友が幸せでいることをどうして厭う必要がある。もちろん、恥ずかしげに赤面する彼女が見られなくなるかもというのは少し残念だ。けど、少なくとも今のところはそれもまだ先の事のように思えるし。
ああ、だから彼女は、ここにいるのかもしれない。
いつかの先がやってくる前に。そんな無意識の思いがあったのかもしれない。
「ねえ、サクノ」
呼びかける。こてんと小さく首を傾げる仕草。明るめの髪がさらりと流れた。
「今日、泊まっていかない?」
私が言えば、彼女の瞳はきらきらと輝いた。
「いいの!?」
「うん。どうせ服も乾かさなきゃだし」
「お泊まり!わー、久しぶりかもそーゆーの!」
わあわあと喜びはしゃぐ彼女に、ついついこちらまで嬉しくなってくる。お泊まりひとつでこんなにも喜んでくれるのなら、細かいことは気にせずにもっと誘っておけばよかったのかもしれない。だって妄想の中の彼女よりも、目の前の現実の方が遥かに愛おしい。
せっかくだし動画でも撮っておこうかとスマホに触れて、今は使えないんだったと思い直す。なにかもったいなく思えるけれど、心のカメラにしっかりと収めておくことにした。思い出の解像度には少しだけ自信がある。
ひとしきり喜ぶ彼女を撮影して。
さて、そうと決まればお泊まりの準備だ。
大学生がお泊まりをしようというのだから当然夜のお供が欲しいところ……と言っても、まだ未成年の私たちにそこまで大人ぶる度胸はない。せいぜいがノンアルコールのカクテルくらいのものだけど、そこまでいくとあえて選ぶ必要も感じなかった。どちらかといえばお菓子がメイン。
彼女が恥ずかしがったから、仕方なくお揃いのパジャマでやってくる近くのコンビニ。その灯りに負けず夜通し戦えるくらいは詰め込んでお会計。顔見知りの店員の下世話な視線はホットスナックで誤魔化した。
戻るまでのほんの短い時間すらも待てずに、アメリカンドッグとチキンを食べさせ合いっこする私たち。多分相当バカっぽく見えているんだろうなと思う。けれど、そんなことは楽しいからどうでもよかった。
テーブルに並んだお菓子とジュースを満足げに見下ろすサクノ。思いついたように構えるスマホをひょいと取り上げる。「わ」と開いた口にはラミィを放り込んであげた。せっかくだからと購入したせめてものアルコール分だ。もむもむと頬を弛めながら首を傾げる彼女の目の前で私もひとかけのチョコレートを口に放り込む。洋酒の香りが鼻腔を抜けて、ほんの少しだけ胸が踊った。
くすくすと笑った私は、サクノの顎をからかうように指先で弾く。
「今日はサクノを独り占めしたいな」
「あはは、なにそれー。こんなので酔っちゃったの?」
「酔っ払ってなんかないやい」
「酔っ払いが言うやつ!」
適当なテンションで押し切って笑い合う。そのまま適当な話を振れば、サクノはスマホのことをすっかりと忘れてしまう。ベッドの縁に隣合って盛り上がるうちに、笑い声に紛れてスマホがベッドの奥に滑り落ちたことにさえ気が付かなかった。
私は少しだけ、彼女との距離を詰めた。
真似して寄りかかってきたサクノの無邪気な笑いがくすぐったい。彼女はあまりにも無防備だ。だから近づく度に信頼の鎖が可視化されていく。私はその鍵をもうとっくに捨て去っていた。そのことに私は安堵していた。
今ほどに、彼女が初恋の人でよかったと思ったときはなかっただろう。
そのおかげで私は、この愛おしさの隣でこんなにも親友を続けられている。破れた風船にもう空気は入らない。それはどこまでも幸福なことだった。
それなのにどうして、肺に空気が溜まるのだろう。
「あっ」
チョコレートがもうとっくに無くなってしまった頃。サクノが突然壁掛け時計を見やる。ずいぶんと正確な体内時計だなと感心していると、彼女は慌ててスマホを探し始めた。
「もう九時じゃん!やばー、スマホ、あれぇ?」
相も変わらず律儀なことだった。思った通り彼女は乱れてもいない前髪を気にしている。なんとなく働き者の三男を見つめて歩調を遅らせてみるけれど、このままではきっと間に合わないだろう。
私は。
「―――ベッドの裏とか、落ちちゃってない?」
「え、あ!……あったぁ!ありがと!えと、」
「いいよいいよ。ああ、あと気を使わせたくないし私のことはわざわざ言わなくて大丈夫だよ。ゆっくり話して」
「うわぁー、ありがと!ごめんね!ベランダ借りる!」
どたばたとベランダに出ていった彼女は窓を閉めながらスマホを耳に当てる。
見上げれば秒針が最後の一時を刻んだ。一斉に動いた針が一日を四分の一だけ切り取る。残された時間が、なぜかとても心もとないように感じる。熱心に見つめてみても針は止まらないし、逆走もしない。速度を緩めるように見えても、それさえ錯覚だ。刻々と、決まったリズムで針は進んでいる。
彼女の声は夜に遮られて聞こえない。秒速1.4mの彼方はあまりにも遠い。室内の明かりに慣れた目でもその表情さえ捉えられなかった。夜というのはこんなにも眩いものだったろうか。
蛾のようにベランダに出た。
彼女に気がついた様子はない。手すりに身を預けて月の向こうの誰かを見上げている。そっと手を振ってその視界を遮った。
驚いて振り向く彼女に、しぃ、と指を立てる。コップに注いだジュースを差し出せば彼女はそれを受け取った。たぶん笑みを浮かべていると思う。嬉しそうな笑みだ。私には見えない。だってそれは私に向けられている笑顔じゃない。想像しようとしてもそれはできない。思い出はあまりにも鮮明で、それ以上を重ねるには明確すぎた。
彼女は綺麗だ。
彼女を包む透明だったものは、彼女の輪郭をすらぼやけさせている。
そっと指を伸ばした。輪郭を確かめるように。指先は簡単に膜を突き抜けて彼女に触れる。些細ないたずらだ。見覚えのあるはずだった彼女の笑みがちらりと覗いた。思い出の輪郭を今に重ねようと歪めたら、もう二度と戻らなくなった。
彼女は私の手を取った。指が絡まる。無意識の手慰み。彼女の意識は夜の果てにある。私はどうだろう。私の指に意思はあったろうか。
そんなことを考えている間に、どれほどの時間が経ったというのだろう。
彼女の笑みが、私に向けられた。彼女が目の前にいる。
こまったような、気恥しいような笑み。恋人ができたとそう教えてくれた彼女に、祝福を告げたときみたいな。
「しーってそんな寂しがり屋だったっけ」
「あー……ごめんね、邪魔して」
「んーん。いいよ。なんかあったの?しーが甘えてくるのなんて珍しいじゃん」
手を繋いで部屋の中に戻る。
なにかあったか。考えてみるけれど、彼女への応えに相応しそうなものはなかった。
「あれかな、ほら、大人じゃないの、私だけになっちゃったから」
「あぉあ……ぉあ、ぇあー」
顔を真っ赤にしてくるくると視線をさまよわせるサクノに苦笑する。もう少し耐性を獲得していてもいいのに。そう思ってぽんぽんと頭を撫でると、彼女は不服そうに唇を尖らせた。
「そんなこと言って、カンペキ子供扱いしてるし」
「そんなことないよ」
「むむぅ」
そんなことありありに思えるらしく、まったく納得してくれない。
それをチョコレートでなだめていると、話題はなぜか私にどうやったら恋人ができるのかという話になった。女子会の定番、恋バナというやつだ、多分。
どうやったらもなにも今のところは恋愛をしてみようというつもりはない。そんなふうに伝えてみるんだけど、今日はなにか妙にしつこい。気になって問い詰めてみると、私の恋愛相談に乗ってビシバシと後押ししてみたいとかいう理由らしい。サクノだって初めての恋人なのに、もう恋愛マスターのつもりでいる。彼女がマスターなら、コトリなんてドクターを名乗ってもいいだろう。
「しーってさ、ジッサイいないの?こう、びびびー、みたいな」
「うーん。記憶にはないね」
サクノの場合も、一目惚れとかではなかったし。確かそう、泣いているのを見かねて声をかけたんだ。どうして泣いていたのかまでは覚えていないけど、それから懐かれて、仲良くなって……まあ、そんな感じの流れだった。びびび、というよりは……すっ?
今の私に、果たしてびびびと来ることはあるのだろうか。なさそうな気がする。
なんにせよ私が乗り気じゃないから、サクノもみるみる勢いを失っていく。結局誰か気になる人ができたらすぐに相談するようになんて結論になって、サクノの恋愛講座は一旦幕を降ろすのだった。
「でも意外かも。しーってそういうの気にするんだ」
さくさくとスナックを食べながらなんの気なしに呟くサクノ。
まあ、実際はそんな気にしてる訳でもないんだけれど。
「そうかな」
「うん。なんかこう、しーってそういうの気にしなさそうな感じ」
「……まあ、他の人の経験歴とかならどうでもいいけど。ふたりのことだからねえ」
無難に応えると、サクノはむむむと難しそうに眉根をひそめた。彼女なりに慰めの言葉でも考えているだろうか。可愛らしくて眺めていると、彼女はまるで見落としていたものでも見つけたようにぱちくりと瞬く。
「じゃあいっそ―――」
そして続けようとした言葉は、出だしで途切れる。
「いっそ?」
続きを促すと、彼女はぱくぱくと口を開閉させて急速に顔を赤らめる。
いったいなにごとかと首を傾げる私の視線に耐えきれないとばかりに顔を背け、彼女は勢いよく立ち上がった。
「ね、眠くなってきちゃった!」
「むしろ元気いっぱいに見えるけど」
「夜もこんなに遅いし!」
「十一時すぎだけど」
「いいから寝ます!」
「はあ。まあ、いいけど」
どうしても眠りたいらしい。ほんとうに、いったい何を言おうとしたのだろうか。むしろ気になって眠れない。
じろじろ見つめていると、彼女は視線から逃れるようにベッドの端っこで丸まった。私は当たり前のように一緒に眠ろうとして、さすがにそれはまずいかと思い直す。気にしすぎといえば気にしすぎだろうけれど、仕方がないので座布団を枕にカーペットの上で眠ることにした。
「しー、なにしてるの?」
「なにって、寝ようかと」
「や、わたしだけベッドとかむりだって。おいでおいで」
ぺそぺそとベッドを叩くサクノ。
ぱちくりと瞬いて戸惑っていると、ばっふばっふとパワーが増す。
従ってベッドに上れば、彼女は満足げに笑った。
「じゃー、おやすみ」
「おやすみ」
ころんと背を向けて横になる彼女をしばし眺めて、私も横になった。
明かりを消す。
じぃ、としていると、サクノの寝息はすぐに聞こえてきた。むにゃむにゃと、可愛らしい寝言も。
しばらくして私は起き上がる。
彼女を起こさないようにと手を伸ばし、テーブルの上のスマホをとった。
切りっぱなしだった電源をONにする。
起動画面を通り過ぎれば、大量の通知が直ぐに降り注いだ。
メッセージと着信。コトリからのものと、彼女からのもの。
まずはコトリに返信しておく。なにも言わず五限目をサボってしまったから、随分と心配させていたらしい。ちょっと外に出たら夕立に降られてやる気がなくなったということにしてみた。すぐに既読はつく。しかも案外納得のいくものだったようで、呆れや怒りを表現するスタンプが連打された。時々ハッピーが混ざるのは多分ミスだろう。まさか私がいなくてよかったという意味ではないはずだ。
今度ノートを見せてと一方的に送ってから、次。
どうやら今日は来ないという連絡だったらしい。気まぐれなものだ。タイミングが合う、というサクノの言葉。あれはあながち間違ってもいなかったのかもしれない。
私は、傍らで眠るサクノの肩を引いた。
ごろりと転がる彼女はむぐぐと唸りながらも目を覚まさない。しばらく様子を見てから、抱き寄せるようにして頬を触れさす。彼女の頬は暖かくて柔らかい。こんなパジャマがなくたって、きっと抱き締めれば心地がいいのだろう。
暗闇の中のピーチローズが胸を疼かせる。
誘われるように胸元のボタンをひとつだけはだけさせた。
鎖骨の下あたりに散る花びら。
静かに甘い香り。
そっと花弁を食む。
わざと唾液の跡を置いた。
カシャ。
不慣れな自撮りで、見せつけるような笑みを切り取る。
画面に映る自分の姿は、なるべく見ないようにした。
私はそれを彼女に送り付けると、またスマホの電源を切った。
もうひとつのスマホを手に取る。
振動の一つ目で受け取った。
「お返し」
電源を切る。
音は全てなくなった。
脳の奥で反響する声だけがなくならない。
おやすみ。
マイクに口付ける。
私は心地よい眠りについた。




