第七話 古代の九州国家群と、神武東征の真実
パソコンで、日課の投資株価のチェックをしていると、玄関のチャイムが鳴って、次いで鍵を開ける音が《ガチャガチャ》して、祐子が入ってきた。
「早かったじゃないか、でも『いちいち』チャイムを鳴らさなくても、いいんじゃないの?」
「だめよ、晴明って、私が来るって言っても、下着姿で、寝腐っていることがあるでしょ。
レディに対する礼儀がなってないんだから。」
昼に祐子からメールがあって、今日は早上がりとかで、『夕飯は(祐子の)手料理にするから、任せなさい。』と連絡が来ていた。
買い物袋から取り出した品は、牛肉、椎茸、豆腐に長ねぎ、しらたき、生卵。すき焼のタレもある。
すき焼き確定だっ。
「なんだ、すき焼きじゃん。それって手料理かよっ。」
「なによ、すぐ食べれるから、いいでしょ。
あんたって、私が気合い入れて作ったフランス料理を、箸で食べる人だからね。腹に入るものなら、文句ないでしょ。
それにね、鍋なんて一人じゃ、なかなか食べれないでしょ。」
ご講説、痛み入ります。確かに、すき焼なんて、一年ぶりくらいだ。祐子がキッチンで、手早く切り分けた材料を運んでくる。
鍋とポータブルのコンロを、用意するのは、俺の役目だよね、やっぱり。
《ぐつぐつ》と煮えてくる、すき焼きの鍋を前にして、祐子が俺の隣に《ピタリ》と寄り添ってくる。
「なんか、食べ辛くない?」
「いいのっ、偶に、晴明成分の補充が必要なの。」
まずい、まずいよ。祐子の体温が伝わって来て、これはヤバイケースだよ。
「 · · · 、そう言えば、この前。邪馬台国は九州にあったって、話したけどっ。
大和朝廷の前身も九州にあったんだよね。」
「そうよ、宮崎県日向市の立磐神社には、神武天皇が東征の船出の前に、腰掛たという岩が祀られているわ。」
「神武東征ってさ、日本書紀によると、紀元前667年とかなってるけど、絶対に嘘だよね。
たぶん、3世紀頃の出来事だと思うよ。
初代〜10代までの在位年数を春秋の1年に2倍表示だと推定すると、約195年間になるんだ。
10代の崇神天皇の没年を318年とすれば、318年−195年= 213年頃 神武即位となる計算だ。
それはまあ、置いといて、神武東征の理由は、なんだと思う?」
「古事記には、米作のために、広い平原のある土地が必要だから、それを求めて、ということになってるわ。違うの?」
「違うだろうね。周りの国を攻められないか、攻められて、国を捨てたか、逃げ出したというのが、真相だろうね。
ウエツフミという古文書が、大分県の大友家辺りに伝わっているけど、それによると、大分県南部には、『ウガヤフキアエズ王朝』が紀元前1,000年頃から、紀元後300年頃まで存在したという記録があるんだよ。
神武東征が行なわれたと思われる《3世紀の九州》には、邪馬台国が、以前に推理したとおり、福岡県、佐賀県、長崎県の北部九州に在った。
そして、九州南部の熊本県、鹿児島県には、熊襲か隼人がいた。
『ウガヤフキアエズ王朝』も入れると、3世紀の九州は、少なくとも三大勢力が、覇権を争っていたわけだね。
その中にあって、元々海洋民族だった大和朝廷の先祖は、周辺国の圧迫を受けて、新たな土地を求めて、移民を決意したというのが真相だろうね。」
「そっかぁ、東征なんて強がりで、本当は移民なのね。」
「祐子。神武東征の概略を教えてよ。」
「いいわ。神武東征は、神武天皇が22才(45才)の時に、長兄の『五瀬命」』達と共に日向(宮崎県)を出発し、九州東岸を北上して、豊予海峡(大分市沖)では、「珍彦」を水先案内人として、宇佐(大分県)へ向かったの。
この珍彦は、椎根津彦という名前を賜り、東征後半で大活躍しているわ。
宇佐(莬狭)では、国神夫婦が足一騰宮を造って、神武一行に饗宴を奉ったとか。
その後、筑紫(福岡県)の「岡水門」を経て、安芸(広島県)の「埃宮」に滞在したの。
翌年春に、吉備(岡山県)に到り、高嶋宮を建て1年半(3年)居住する間に、軍船を整備し食糧を備蓄。一挙に天下平定しようと体制を整えたとあるわ。」
「宇佐に滞在したのは、どのくらい?」
「日本書紀では、10月5日に日向を立ち、11月9日に筑紫に至るとあるから、2〜3週間かしら。」
「あのさ、『足一騰宮』って住居だよね。わずか2〜3週間の滞在のために、数日で造れるものなの?」
「造るのは無理ねぇ、空家でも改築したのかしら。」
「う〜む、珍彦というのは、多分宇佐(邪馬台国)の敵対小勢力だね。神武東征に追従して、邪馬台国の宇佐や筑紫に攻勢を掛けたけど、敵わなかった。そんなところかな。」
「えっ、宇佐では歓待されたのではないの?」
「滞在期間が短かすぎるよ。宮を造ったなんて見え透いた嘘だね。
宇佐や筑紫には、同類とも言える海洋民族がいたはず、邪馬台国に臣従を良しとしなければ、おそらく、海戦と上陸戦になったろうね。
結果、撃退され、諦めたというところだろうね。」