奇跡
「あーつまらない」
私は父親の仕事についてきたことを心底後悔している。
何がナホン帝国だ。
水の無い地上の国なんてまったくもって面白くない。
そもそも地上と空が別々にあるということが気に食わない。
地上は海底で、空は常に水によって遮られているほうがいい。
その方がシンプルで分かり易い。
その中を好きに泳ぎまわりたいのだ。
だが、この地上の国というのは狭いプールとか言うのでしか
私が泳ぎまわれる場所が無い。
河や近海で泳ごうとすると
いつも護衛たちが止めに入ってくる。
「お嬢様、お嬢様って!!いい加減にしなさいよ!!」
バシャーン!!と思いっきり両足でプールの水を蹴る。
尾ひれなんて退化した。
ご先祖様たちは、足と尾ひれを変化させて
使い分けていたらしいが
そんなこと、今の時代にできるものは居ない。
室内の百メートルほどの長さのプールを泳ぎ回り、私は気付く。
「そうだ。勝手に外に出ればいいじゃない」
私だって水棲族の成人だ。
いくらブガモウラの娘だからって、誰に私の自由を止める権利があるのだろうか。
よし、思い立ったが吉日である。
私は、プールから素早く出て、身体を軽く拭き、保湿剤を体中に塗りたくり
そして服を纏う。今が真夜中だからって
そんなのは関係ない。ロングコートを羽織り、ハットを目深に被り
マスクとサングラスをつければ、水棲族だって誰も気付かないだろう。
出て行ってやる。後のことなんか関係ない。
この檻の様な、屋敷から出て行ってやる。
「幸ちゃん、お散歩しにゃいかー」
猫間さんがコタツの周りをウロウロしながらうるさい。
「ダルイから、明日で良いか……」
僕はコタツに突っ伏して、夜のテレビ番組を見ている。
「だめだにゃー。私も外に出られるように
設定を作りかえるって、昨日約束したじゃにゃいか」
「昨日は酔っ払いすぎてたんだよ。久しぶりに暖かかったから」
「でもでも、運動したほうが、気持ちも変わるにゃ」
「夜中だぞ?不審者と間違われるよ」
「幸ちゃん、最近引きこもり気味だから、人が居なくて
楽だにゃ?」
猫間さんはよほど外の世界に行きたいらしい。
「ねーえー。私が良い事してあげるからー」
「いや、ほんとそれはやめてくれ……」
服を自在に消して、裸で覗き込んできた猫間さんに仕方なく
服を着てくれといいつけて、僕は立ち上がる。
イマジナリーフレンドとの実態の無いセックスなんて
加奈子と付き合った後の僕には何の意味も無い。
「やったにゃ!!おっそとおそとー!!」
猫間さんは始めての外出に喜んでいる。
外を知らないわけではないが、初めて猫間さんの姿のまま
外に出られるのが嬉しいらしい。
自分の姿が映らない鏡の前で、様々な服を試している。
「こんなのどうにゃ?」
「寒さを感じないからって水着はやめてくれよ」
「じゃあ、晴れ着にするにゃ」
真っ赤な着物姿になった猫間さんと一階に降り
コートを着て前のボタンを全部とめて、マフラーを幾重にも巻き
そしてキャップを被って、玄関の扉を横に開ける。
「さむっ」
外は真っ白だ。
「わー!!月夜だにゃ!!」
「ほんとだ……雪は止んだんだな」
誰も居ない住宅街の夜道を猫間さんと歩く。
街灯に照らされながら。
「ねー幸ちゃん、出てきてよかったにゃ」
「まぁね。猫間さんも外でも活動できそうだな」
「これで幸ちゃんも寂しくないにゃー」
「……」
幻しか友達が居ないなんて、余計寂しくなる気がするが
今はそれは考えないようにしたい。
歩き続け、坂道を登り
街が一望できる墓地の近くの公園へと向かう。
ベンチに座り、高台から夜景を眺める。
「あれが、工場で、あっちが繁華街だにゃ」
「そうだな。あの辺りが僕たちが住んでいる場所だよ」
「綺麗だにゃー」
「そうだな……」
戦争の傷跡は表向きはもう無い様なものだ。
僕が何もしない間にも、世の中は復興していく。
ベンチに座って、隣ではしゃぐ猫間さんの言葉を聞き流していると
「あ、あの……お兄さん」
とロングコートにシルクハットを被り、サングラスをかけ
そしてマスクの顔色の悪そうな怪しい女から声をかけられる。
「……お金ならありませんよ」
「そうじゃなくて……あのお兄さんのところに一晩泊めて……」
僕は女の言葉を待たずにベンチから立ち上がり
その場を去ろうとする。
こんな怪しい女と関わるほど、お人よしじゃない。
「幸ちゃん、困ってるみたいだにゃ。話だけでも聞いた方が……」
「猫間さんはだまっててくれ」
と言った僕に、怪しい女が
「彼女さん……何とか引きとめてもらえませんか……お腹がすいてて……」
とその怪しい女が猫間さんにすがってくる。
「あっ、あなた!!私が見えるにゃ!?」
猫間さんの方が驚いて、飛び上がっている。
「え……はっきり見えますけど、それが何か……」
「ちょっと待ってて下さいにゃ」
と猫間さんは、怪しい女から離れて、僕と二人で小声で
「幸ちゃん。あの人、何か変だにゃ」
「だな。どうする」
「……私としては、お友達になりたいにゃ……」
確かに僕の脳内友達に過ぎないはずの
猫間さんを見れる人がこの世に居るだなんて
それは今はもう去ってしまったナホンの神様が
くれた奇跡かもしれない。
と思ってしまったのが間違いだったと
すぐに僕は思い知る。