幸一
加奈子は僕に、その時こう言った。
「幸一さん、別れてください」
時は、帝舞三十八年。大戦の傷跡も深い時期のことだった。
「なんで、僕と別れるんだい」
とは訊かなかった。どこまでもつまらない僕と
快活で生命力に溢れた加奈子の愛が、途切れていっていることは
薄々は分かっていたから。
東花咲の橋の上、雪が舞い降り始めた。
加奈子は小さく
「さよなら……ありがとう……」
とだけ言って、僕の前から姿を消した。
失恋か。何度目だろうか。
いっそ、強度の近視と、持ち前の虚弱体質で受からなかった
徴兵検査に受かっていれば、こんな苦しい想いはしなかったのかな。
という刹那的な憐憫は、すでに使い果たしていて
僕の心の中には、大きな虚無のポッカリ開いた穴が広がっていた。
東花咲河の、冬の凍える流れの中に
いっそ、身投げしようとも思ったが、この人通りの多さでは
すぐに無様に救出されることが、容易に想像できて
僕はすぐにやめた。
帰りの電車の中、つまらぬ事を言い合い、クスクスと笑う女学生たちが
僕の憔悴しきった顔をあざ笑っているような気がして眼を伏せる。
前の大戦中に、連合国に寝返った祖父は、
莫大な財産と我が国の平和と引き換えに、若干の名誉を失った。
父はそんな祖父に反発して、自立して会社を立ち上げ
そして一人息子の僕を大学までやったが
僕はその大学を一年で行かなくなり、そして戦争でうやむやになり
こうして何年もしがない無職状態を続けている。
父から仕送りを絶たれ、行き場が無い僕を受け入れてくけたのは
まだ存命の祖父だった。
透明なガラス装置の中、人口体液に全身が浸かった祖父は僕にこういった。
「幸一よ……何が良いか悪いか何ていうのは
あとになってみんと、分からん。爺ちゃんの金で
好きに遊んだらええ。四十でも五十でも、お前が
やりたいこと見つかったときに、その金を使って
使い切って、天国の門でも、地獄の蓋でも開けたらええんじゃ」
祖父の言っている事の深意は、僕にはまったく分からなかったが
当面生きていてもいいと言う事は伝わり、僕の錯乱していた精神を多少安定させてくれた。
その時の僕はとっくに寿命の尽きた体を延命させ、この大戦後の世界を
見つめ続ける祖父の異様な様子に疑問一つ持たずに
「ありがとう」
とだけ伝えて、その超高層ビルの最上階から退出した。
そんな昔のことを思い出しながら、女学生達を避けて
電車から駅のホームに降りる。
祖父から貰った金で借りた、
大戦前に建てられた寂れた一戸建てに帰る前に
近所の酒屋に寄る事にする。
「幸一っちゃん!!加奈子さんとはその後どうかね」
禿げて恰幅の良い店主に
「さっき別れた……」
と告げると
「うわぁ、そりゃおっちゃん悪かった!!一本おまけしとくよ!!」
店主はあっさりといつも買う麦芽酒に、コラムニャスとか言う
西洋の虫を浸けた酒瓶を足してくれる。
「なに……これ……」
その巨大な芋虫がプカプカ浮かぶ青い酒瓶を怪訝な目で見ると
店主は禿げ上がった頭を叩きながら、
「効くんだぜ!!元気なるよ!!」
威勢よく、麦芽酒の代金を僕から受け取る。
酒屋から追い出されるように出て
雪がシンシンと降る住宅街の狭い道を歩いていく。
家にたどり着くと、雪が降り積もり
いつもどんよりと暗い我が家の外見が
さらに冷たく、暗い光景になっているのに少しホッとする。
ガラッと立て付けの悪い玄関を空けて
室内に入ると、すぐに家人である、猫間さんが迎えてくれる。
ちなみにこの方は、現実の存在ではない。
僕の妄想上の"元"恋人である。
「あらー加奈子さんとは、別れたにゃね?」
猫間さんはかわいらしい栗色の髪に大きな猫耳を二つピクピクさせて
こちらの様子を伺う。格好は部屋着にエプロンだ。何かを作っていたらしい。
「知ってるだろ?お前は僕なんだから」
「設定は大事にゃ。私は、家の中だけの存在だにゃ」
「はいはい。作るんじゃなかった、お前なんか」
妄想を自分の脳内だけで現実にするという技法を知った
中学生の頃の僕は、猫間さんを一年かけて創り出し
戦中で贅沢が禁止されていて、運動も苦手で、友達も居ない
勉強だけの孤独な中学生活の癒しにした。
「童貞君にあーんなことや、こーんなこともしてあげた仲だにゃ?
二人で春画見て、私の裸体をリアルにしていったにゃ」
「頭の中を読まないでくれ。僕は疲れてるんだ」
いつの間にか裸エプロンになっている猫間さんを見ないようにしながら
軋む階段を上がっていく。不気味なこの家屋を何故、僕が棲家にしているかと言うと
この暗い雰囲気が気に入っているからだ。
まるで、僕のしがない青春のようである。
二階にあがり、電灯をつける。猫間さんは着いてきていない。
一階で何かをしているようだ。
コタツの電気を入れて、テレビをつけようとするが
ポンコツなので上手く受信しない、僕はテレビの横っ腹を軽く叩くと
やっと本日のニュース番組が始まった。
「本日のニュースです。進駐軍のブガモウラ司令官は、我が国の幸観帝と
年始の定例会見をされました。お互い平和な国を作っていくことで一致していくとのことです」
紫の冠を被り、着物を着た陛下とともに、死んだ魚が腐ったような顔のブガモウラが映る
水棲族のマー・グルス国との戦争にこの国は敗戦した。
そしてその後、たしか五年、僕たちの国は占領されたままになっている。
とは言え、庶民は暢気な物で、皆激しい戦争があったことなんて
すっかり忘れてしまっている。
いつの間にか、コタツで隣に座っていた猫間さんが
「平和が一番にゃよー」
と言いながら、テーブルの上にうつ伏せになって腕を伸ばす。
「ああ、そうか、僕は先月24になったのか」
加奈子と付き合っていたときも、お互いの誕生日を祝ったりなんか一度もしなかった。
それで良いとずっと思いこんでいた。
「幸ちゃん、忘れてたお誕生日会するにゃか?」
「いいよ。妄想と一緒に祝ってもしょうがないし」
「ええー。昔みたいに私といいことしにゃいかー?」
「いいって。しばらくそういうのは沢山なんだ」
僕は眼鏡を外して、コタツの上に置き、寝転がる。
ニュースではアナウンサーが今年、一番の降雪を伝えていた。