エラそーなわんこの正体(2)
「っっ……」
ちかちかと星が点滅し、頭がぐわんぐわん、と揺れた。脳みそを揺らしていると、ふ、と影が落ちた。
──なんだ、このアホすぎる娘は。
そんな声が聞こえる。
「え?」
──私の姿は見えないだろう。声だけを聞け。
ユーリはキョロキョロ辺りを見回した。何もないように思える……。しかし確かに、低く響く声は鼓膜を揺らしている。なにかがいる。が、正体がみえない。え? おばけ?
──名をなんという?
「ゆ、ユーリ」
──おまえに、イグニスを御することができるか?
「わからないけど、止めなきゃ……イグニスは、人殺しをしようとしてる」
──あれは炎の聖霊。性格は苛烈だ。飼い主以外には牙を剥き、時には殺すこともある。しかし、飼い主に足る者の言うことは聞く。
「飼い主……」
やっぱり犬なのか。
──おまえに真の力があれば、何かしらの聖句であれを御することができるはず。
「え、聖句って、どんな」
──なんでもよい、自分で考えよ。強く御する言葉だ。よいな。では──行け。
次の瞬間、ユーリの足から急に痛みが引いた。
「!」
触ってみると、熱を持っていた右足がなんともなくなっている。
「治っ……た?」
今のはなんだったのだろう。
「って、それより早く行かなきゃ」
でも聖句って、なんにしたらいいんだろう。
「走りながら、考える!」
ユーリは起き上がり、広間に向かって走り出した。
☆
クリスティーナは教会内にある、広間にいた。会議は滞りなく進んでいくが、一向にユーリの死体が見つかったという話が出ない。たかが侍女といえばそれまでだが、神の領域である教会内で人が死ぬのは本来忌みごと。死体が見つかれば、必ず議題にあがると思っていたのだが……
「聖女さま?」
声をかけられ、クリスティーナはハッとした。そうして、笑みを作る。
「はい、なんでしょうか、リカルド様」
こちらを見つめていたのは、騎士団の団員、リカルドだった。貴族の生まれである彼は、品のある顔立ちをした中々の美青年だ。恐らくクリスティーナに気があるのだろうが、意気地がないのか一向に誘ってこない。
──ひと晩くらいなら付き合ってあげてもいいのだけれど。聖女がそんなことを考えているとはつゆ知らず、リカルドは瞳をクリスティーナの背後に向ける。
「その青年は?」
「ああ……」
クリスティーナは柔らかく微笑む。
「風の聖霊です」
言葉を放った瞬間、場内がざわめいた。神官が口を挟む。
「しかし、昨日聖霊は降臨しなかったのでは」
「ええ、昨夜、鏡から出て来たのです。私たちの祈りが通じたのでしょう」
「さすが聖女さまです!」
リカルドが嬉しげに声を上げる。カイとバルドーは、どこか納得していないように顔を見合わせていた。
なによ、もっと私を崇めなさいよ。クリスティーナはムッとしつつ、
「力を見せてあげなさい、ルピナス」
ルピナスは手を突き出し、
「風よ吹け、ルアッハ」
巻き上がった風が、書類を巻き上げ、バサバサと音を鳴らす。広間におおっ、とざわめきが起きた。リカルドは前髪を跳ねさせ、目を輝かせている。バルドーは、前髪が乱れた、と櫛で治していた。カイは飛ばすなよ、とつぶやきながら書類を拾い上げている。
神官長がすかさずクリスティーナを褒めそやす。
「確かに聖霊の力だ。さすがクリスティーナ、君は本物の聖女だな」
そうよ、とクリスティーナは内心でふんぞりかえった。重要なのはその言葉だ。男たちがクリスティーナを褒め称え、あげ祀る。そうでなくては聖女などなんの旨味もない──。
「どいつもこいつも、見る目のない馬鹿ばかりですか」
いきなり広間に響いた声に、その場にいた者たちは視線を動かす。広間の壁に取り付けられていた鏡から、何かがひゅん、と出てきた。それはすたりと卓上に降り立ち、クリスティーナを睥睨する。
「どうも、偽聖女さま」
漆黒の髪に真っ赤な瞳。長い手足は黒衣に包まれている。
いきなり現れた美青年に、クリスティーナはあっけに取られる。こんな美形、教会にいただろうか……?
「あなたを殺しに参りました」
その言葉に、リカルドがハッとする。
「聖女さま、伏せてください!」
「炎よ踊れ、イグニッション」
「風よ吹け、ルアッハ」
イグニスが出した炎を、聖女の前に立ったルピナスが打ち消す。イグニスは冷たい瞳をルピナスに向けた。
「おや、偽聖女に操られている見る目のない聖霊か。曇った目を聖水で洗い流したらどうだ?」
ルピナスは無言で手を突き出し、風を巻き起こした。ピッ、と頰を切り裂いた風の刃に、イグニスは舌打ちする。
「ちっ、うっとおしい。建物ごと焼き尽くすか」
獣の姿になったイグニスに、ざわめきが起きた。
「あれは……」
「まさか、炎の聖霊?」
「イグニスだ!」
「騎士団、あれを狩れ!」
イグニスはさわぐ人々を見下すようにしながら牙を剥いた。瞳に灯るのは、どこまでも冷たいひかりだ。
「やはりこの姿でなければ調子が出ないな。炎よ全てを焼き尽くせ、バーニ」
「イグニス!」
その時、台車に乗ったユーリが勢いよく広間に入ってきた。一緒、衆目がそちらへ集まる。ユーリはその視線をものともせずに、思い切り叫んだ。
「ふせーっ!」
その言葉に反応し、イグニスがさっと身を伏せる。それから、ハッとしたように頭をもたげた。
「はっ、私はなにを」
台車から転がるように降りたユーリは、テーブルに乗り上げ、イグニスにしがみついた。──わ、もふもふ。そんな場合ではないのに、幸せな心地になる。
「おい、そこをどけ、それがなんだかわかってるのか!」
リカルドが剣を突きつけながら叫ぶ。ユーリはペコペコ頭をさげながら、
「すいません、すいません、悪い子じゃないんです。ちょっと反抗期っていうかなんていうか」
「離してくださいますか、聖女さま」
イグニスは憮然としながら言う。ユーリが抱きついているせいで、不機嫌な顔がむぎゅりと押しつぶされている。
「今からこの建物ごと焼き払うつもりだったのですが」
「なに言ってるの、だめに決まってるでしょう!」
ユーリとイグニスのやりとりを見て、広間にひそひそと話す声が響いた。
「偽聖女とは誰のことだ……?」
「あの獣、いま侍女のことを聖女と呼ばなかったか……?」
クリスティーナは唖然としながらユーリを見ていた。なぜあの子が。死んでいなかったのか。あの高さから落ちたら間違いなく命を落とすと思ったのに──
とにかくこのままではまずい。クリスティーナは、とっさに思いついた言葉を口にした。
「捕縛して! あの娘はイグニスと交わり、私の暗殺を企んでいたのです!」
「ええっ」
ユーリはギョッとしてクリスティーナを見た。クリスティーナは震えながらつづける。
「ああなんて汚らわしい、獣と交わるなど!」
「し、してないですそんなこと、大体昨日会ったばっかりで」
真っ赤になるユーリに、リカルドが剣を突きつけた。
「無関係というならどけ! 今からそれを斬る」
「そ、そんな」
ユーリはぎゅっ、とイグニスを抱きしめた。なんだか一緒にいるうちに、愛着が湧いてきていた。あったかくてもふもふだし、よく見ると可愛い。
「殺さなくても……ちゃんと躾けますから!」
「できるものか。イグニスは炎の聖霊。その苛烈さを御することは、歴代の聖女たちにすらできなかった」
イグニスが憎々しげに言う。
「それは、あの女たちが本当の聖女ではなかったからです。ユーリは本物だ。私もあの風の聖霊も、ユーリが呼び出したのですよ」
再びざわめきが起きる。
「なっ……なにを言う、この犬!」
「犬ではない。噛み殺されたいんですか?」
唸るイグニスに怯まず、リカルドは叫ぶ。
「戯言をいうな、その娘が聖女だというなら、クリスティーナ様はなんだというんだ!」
「だから偽の聖女です。何度言わせれば気がすむんだ。まったく、脳の容量が少ない人間ばかりだな」
──まさか、侍女が聖女?
──クリスティーナ様には聖なる力がないと言うのか。
──しかし、確かに過越の日の祈祷では、聖霊は降臨しなかった。
──イグニスの言うことなどあてになるものか。あれは悪徳だ。
イグニスの発言が波紋を呼び、広間は疑問と不安の声に満たされた。クリスティーナは唇を噛む。この状況は、まずい。
「ではこういうのはどうかな」
口を開いたのは、騎士団長のバルドーだった。
「競い合いで、それぞれの力を見せてもらう。二人の聖女には各々聖霊がついているようだから」
「でたー、団長の思いつき」
カイがぼそりと呟く。リカルドがすかさず口を挟んだ。
「バルドー様、クリスティーナ様の力を疑うのですか!」
バルドーは、青年の言葉に肩をすくめる。
「疑ってなどいないが、私も先日の儀式では少々退屈させられたからな」
クリスティーナは内心で歯ぎしりした。この狸おやじめ、聖女を守るべき騎士団長のくせに何を──。クリスティーナの意を汲むがごとく、リカルドが反論する。
「教会はイグニスを聖霊だとは認めていないのですよ!」
──あ、そうだった。ユーリはイグニスを見下ろした。
イグニスは赤い瞳でこちらを見上げた。その目に、ユーリが映り込んでいる。この瞳、どこかで見たことがある。教会で保護された、捨て犬だ。人間不審の目。イグニスは飼い主以外には牙を剥く──。
それは、他の人間を信用できないからではないだろうか。さっきだって言っていた。「人間は嘘をつく」と。
──つまり、嘘をつかれたことがあるんだ。ユーリはごく、と喉を鳴らした。なんにしても、このままだと聖女を暗殺した罪で殺されるかもしれない。
「あ、あの」
ユーリはちいさく手を上げ、司祭に尋ねた。
「もし私が競い合いに勝ったら、イグニスを聖霊だって認めてくれますか」
「なんだと」
「なにを図々しいことを……おまえごときが聖女さまと張り合う気か!」
リカルドがユーリを睨みつけて、声を荒げる。ユーリはぎゅ、とイグニスを抱きしめながら、
「私は司祭さまにお尋ねしてるんです!」
「なんだとっ」
「──いいだろう」
司祭はユーリを見据え、
「やってみるがいい。イグニスを本当に御せるならば。しかし、その犬が何か問題を起こしたり、競い合いに負けるようなことがあれば、どうなるかはわかっているだろうな」
ユーリはびく、と震えた。イグニスがユーリの手を舐める。──大丈夫だって、言ってるのかな。勇気を奮い立たせ、
「大丈夫です、イグニスは私がちゃんと躾けます!」
クリスティーナは心の中でキイイイ、と暴れまわり、バルドーは面白そうに口もとを緩めた。
☆
ユーリが広間から出ると、クリスティーナが声をかけてきた。美しい顔は、まさに聖女のごとく、慈愛に満ちている。その背後には、風の聖霊がいた。
「その、聖霊……」
「ルピナスよ」
クリスティーナはそう答え、
「ユーリ、あなたがまさかイグニスを手なづけているなんて思わなかったわ。さっきは動揺してしまって。ごめんなさいね」
「クリスティーナ様……」
どうして私を突き落としたりしたんですか──。ユーリが尋ねる前に、クリスティーナはにこやかに手を差し出してくる。
「競い合いなんて私はしたくはないのだけど、やるからにはお互い頑張りましょうね」
「あ、はい!」
やっぱり、あれは何かの間違いだったのかもしれない。ユーリがクリスティーナの手を握ると、彼女はギリギリと力を込めてきた。
「いだだだだ」
「調子に乗るんじゃないわよ……おまえが聖霊を呼べたのは偶然なんだから。今に見てなさい」
どすのきいた声で耳元に囁いたクリスティーナは、ユーリの手を離し、さっさと歩いていく。その背後を、ルピナスが音もなくついていった。
「うう、すごい力……」
半べそをかきながら手を振ると、獣姿のままのイグニスが、冷たい眼差しを向けてきた。
「普通自分を突き落とした相手と握手しますか。頭の中がお花畑なのか?」
ユーリは毒づくイグニスの側にしゃがみこみ、うりうりと毛並を撫でる。
「だってあの人は私の主人だったんだよ。いつ見てもすごくきれいで、初めて会った時は女神さまかと思ったくらい……」
毛をもみくちゃにされつつ、イグニスが鼻を鳴らした。
「要するに顔に騙された愚か者ですね。教会のすけべじじい共と同じだな」
「そのすけべじじいには私も入っているのかな?」
振り向くと、騎士団長のバルドーが立っていた。ユーリは慌ててイグニスの頭を下げさせる。
「バルドーさま! イグニス、謝って!」
「やめてください。じじいに下げる頭はない」
「イグニスぅ!」
「はは、いいんだ。確かにじじいだからね。ほう、これがイグニスの実体か……初めて見たな」
バルドーはしげしげとイグニスを見た。
「中々堂々としていて、美しい獣だ」
「は、すぐに嘘をつくタイプの顔をしている。私に媚を売ってどうする気ですか、狸爺さま」
ユーリはイグニスを喋らすまいと、口にエプロンをかぶせた。
「っぶ」
「賢い獣だ。人を見る目がある」
バルドーは怒るでもなく、感心している。その後ろから怒れるリカルドがやってきた。
「騎士団長! なぜあの娘を庇うようなことを」
彼はユーリに視線を移し、鋭い目を向けてくる。ユーリはびくりとし、イグニスにしがみついた。
「イグニスは騎士団の敵でしょう。それを操る娘を擁護するなど」
バルドーは鷹揚に笑う。
「まあまあ、イグニスは元々聖霊ではないか。聖女に害をなさなければ狩る必要もない」
「危険はないと言い切れますか」
「クリスティーナ様には風の聖霊がついているし、イグニスは彼女が御するらしい。それにどちらが真の聖女かはまだわからない」
「な……」
リカルドが怒りに頰を紅潮させた。
「クリスティーナ様ではなく、そのちんちくりんが真の聖女だと!?」
「ち、ちんちくりん……」
地味にショックを受けるユーリ。
「見る目のない愚かな小僧が。あとでほえ面をかくがいい」
イグニスの挑発に、リカルドはまんまと乗る。
「なんだと!」
「まあまあ、落ち着けリカルド。おまえではイグニスには勝てんぞ」
バルドーはリカルドをなだめ、
「では、ユーリ殿。また後日」
彼を引き連れて去っていく。ユーリは二人を見送り、ため息をついた。
「はああ、リカルド様って怖い……」
「あの小僧、随分と偽聖女に入れ込んでいるようですね。特別な施しでも受けたのか」
「特別な施し?」
ユーリがキョトンとすると、
「まあ、お子様は知らなくてよろしい」
「なによそれ、私はもう十六なんだから」
「十六だろうが十七だろうがお子様でしょう」
「犬のくせにい」
イグニスがむっとした様子でこちらを見た。
「私は犬ではない」
「えー? さっきお座りしてたじゃない」
「ふん。──聖句を使うこと、どこで覚えたのです」
「イグニスを追いかけてる時、なんか変な声が聞こえたの」
「変な声?」
「そう。低くて良い声。イグニスを抑えるには、なんでもいいから強く御することが必要だって」
「ほう。で、伏せ、ですか」
赤い瞳が細められる。どうやら犬扱いされるのが不服らしい。見た目が犬だから仕方ないと、ユーリは思うのだが。
「効いたしいいじゃない」
「一つよろしいか」
「は? っわ」
いきなり人型になったイグニスに、ユーリはびくりとした。赤い瞳に見下ろされ息を飲む。首筋にかかった冷たい手に、唾を飲み込んだ。
「う、な、に」
「あなたが私を躾けるのではない。私があなたに従って差し上げるのです。私があなたを見限ったら、従うこともなくなる」
イグニスの指さきがユーリの頰に触れた。そうして、ぐいぐい引っ張る。
「いたいいたい」
「あなたは私のものだが、私はあなたのものではない」
「何それどういうこと!?」
「すかすかの脳みそでは理解できないでしょうが、主導権は私にあるということです」
「……ああもう、いいよそれで……」
「よろしい」
部屋に案内しなさい。尊大にイグニスが告げる。こいつを躾けるのなんか無理だ。ユーリは引っ張りつくされた頰を撫でながら思った。