エラそーなわんこの正体(1)
目の前がちかちかして、心臓がどくどく鳴っている。恐怖のあまり、全身が震えていた。唇に、自分の息を感じる。まだ、生きているのだ。
「う……っ」
ユーリは呻きながら、のろのろと目を開ける。植木がクッションになったのか、かろうじて命は助かったようだった。首を持ち上げると、クリスティーナの部屋が暗くなっているのが見えた。
今のうちに逃げなきゃ。
歩きたいが、足をひねったのか動けない。かぎ裂きだらけの侍女服を見下ろし、泣きたくなった。
──泣いてる場合じゃない。生きているのが知られたら、クリスティーナに殺されてしまう。ユーリは暗闇の中、必死に這うが、ただの侍女なのでさほどの体力もなく、すぐに息を切らしてしまう。
「うう、なんで私がこんな目に……っ」
半泣きになりながら這っていたら、がさ、と茂みが鳴る音がした。びくりとしてそちらを見ると、赤く光る二つの目があった。黒々とした体。荒い息。するどく光る歯。
「っひ!」
ユーリの背筋に、ぞわっと悪寒が走る。野良犬? いや、犬にしては大きい。まさか狼?
こちらに近づいて来ようとした獣に、ユーリは慌てて十字架を突き付けた。
「く、来るな化け物!」
化け物はくんくん十字架のにおいをかぎ、ぺしっと叩き落とす。それから、ユーリに近づいてきて、再びくんくんにおいをかいだ。ユーリはあまりの恐怖に固まっていた。
たべる、つもり、なのだろうか。
ユーリは硬直したまま、ぎぎぎ、と視線を獣に向ける。間近で見ると、見たことのない獣だと確信した。犬や狼に似ているが、少し違う。目を凝らすと、額に傷あとのような白い毛が生えていた。
赤い瞳と目が合った──と思えば、べろん、と頬をなめあげられる。
「うぎゃあ!」
思わず叫んでから、あわてて口元を覆う。騒いだらクリスティーナに気づかれるかもしれない。獣は首を傾げ、ユーリの足元に視線をやった。いきなり足首を踏まれ、ぎゃあ、と悲鳴をあげる。
「いた、いたい、ふまないで」
獣はべそをかいたユーリの襟首をくわえ、ずるずる引きずり出す。
「ちょ、なにす、離して!」
なに、どこに連れてく気!? 必死にもがくが、獣の力はすさまじく、足を怪我しているユーリにあらがうすべはない。悲鳴を上げることもできずに、ユーリはずるずる引きずられていった。
獣がユーリを連れて行ったのは、教会内にある納屋だった。藁の上に身体を投げ出され、ユーリはうめく。引きずられたせいで、全身から土の匂いがした。獣はわん、だかきゃん、だか鳴いて、藁をユーリの身体にかぶせた。ばさばさと顔に降ってくる藁の隙間から、ユーリは獣を見る。
「な、なんなの」
獣はばう、と吠え、傍らに寝そべった。なんなんだろう……一日寝かせて食べるとか、そういうことなのだろうか。おそるおそる起き上がろうとすると、赤い瞳がすかさずこちらを見た。
またばうっ、と吠え、歯を見せる。逃げるな、という牽制? ああ、きっとユーリを非常食にする気なんだ。
「わかったから……」
獣に食われるか、クリスティーナに殺されるか……。どちらも嫌だけど。
「もういいや、寝よ」
藁に潜り込み、目を瞑る。ユーリは基本的に、物事を深く考えられない性質だった。
☆
──起きてください。
ユーリはん、と身じろぎをした。誰かがよんでいる。いったい、誰だろう。
「起きてください、聖女さま」
「うぐ」
口をふさがれ、息苦しさでうめく。目を開くと、赤い瞳がこちらを見下ろしていた。見知らぬ男がユーリの口を塞いでいる。ユーリはぐぐ、と手をのけながら、
「っう……な、誰」
「やだな、私を呼んでくださったじゃないですか。私を呼べる人間は少ないのですよ。あなたは『本物』だ」
彼が身をかがめると、艶やかな黒髪がさらりと流れた。その整った面立ちに、ユーリはぼうっと見とれる。きれいなひとだ。長い指がユーリの頬に触れ──ぐいと引っ張った。
「ぐえ」
「なのに妙な女に殺されかけて、お間抜けにもほどがありますよ、聖女さま」
「聖女さまって、誰のこと、いひゃい」
頰をひっぱられ、ユーリはうめく。
「ああ、自分のこともご存じない。残念な脳みそでございますね。振るとサイコロみたいな音がするのかな? それとも昨日落ちた時に全機能が停止したのですか?」
なにこの失礼なひと。
「停止してないし! っていうかあなた、誰なの!」
「名前などない。人間は「イグニス」と呼んでいるようですが」
──え。イグニス?
「い、イグニスって、悪徳の?」
「人間に悪徳呼ばわりされる筋合いはないが」
「聖伝」で姿絵を見たことがあるが、こんなにきれいな姿ではなかった。それに、彼は人間にみえる。
聖女が聖霊を呼び、騎士団が聖霊を先頭に戦う。その対象が、「影」と呼ばれる存在だ。「影」は人に害をなすと言われており、取り憑かれて死んだ人間も何人かいる。
この国、ディアスに伝わる聖なる書物、「聖伝」によれば、「イグニス」は聖霊にもかかわらず人に害をなす悪しき獣であり、「影」を生み出す存在だと言われていた。ふと、昨日ユーリをここまで引きずって来た生き物が見当たらないのに気づく。
「ねえ、昨日の犬は?」
イグニスは無言で、黒い獣へと姿を変えた。
「うそ、あなたが昨日の犬!?」
彼は眉をあげ、ユーリの頰を強い力で引っ張る。
「いたたた」
「犬ではない。人間に媚びを売るだけしか能のない生き物と一緒にしないでいただけますか」
「犬は可愛いし賢い……」
「犬の知能は豚以下ですよ」
「いたい、わかったからほっぺ引っ張らないで」
ユーリが痛みにうめくとイグニスは手を離し、
「さ、起きたなら行きましょうか」
「行くって、どこに」
「あの偽聖女を殺しに行くに決まっているでしょう?」
殺すという単語に息をのむ。
「な、そんなことできるわけないでしょ!」
「なぜです。あなたはあの女に殺されかけた。目には目を、歯には歯を。やられたら五百倍はやりかえさねば」
「ご、ごひゃくばい」
なんとも過激である。平和に育ってきたユーリには、思いもつかない。やっぱりイグニスって、危険なんだ……。そもそも聖霊を呼んだはずなのに、どうしてイグニスが来てしまったのだろう。
とにかく、なんとかこの男を騎士団に引き渡さねば。まずは話に乗るふりをして……。そう思っていたユーリの腹がぐうう、と鳴った。
イグニスが耳に手を当てる。
「はて、なんでしょう、今の音は。腹の中に虫でもいるんですか?」
ユーリは真っ赤になり、
「生理現象だよ、昨日の夜から何も食べてないし……」
「なるほど。人間は大変ですね。食べなければ生きていけないとは」
「あなたは? やっぱり人間を食べるの?」
「食べませんよ、そんなまずいもの」
なぜまずいとわかるのだろう……。やっぱり食べたことあるんじゃ。ユーリが冷や汗をかいていると、イグニスが立ち上がり、戸口へと向かう。ユーリは慌てて声をかけた。
「ちょ、どこ行くの」
「あなたの餌をとってきてあげます」
「餌って」
そのまま出て行った彼を見送り、ユーリはすかさず起き上がろうとした。が、足にずきん、と痛みが走って、再びしゃがみこむ。
「うぐう……」
今が逃げるチャンスなのに。足首に触れてみると、熱を持っていた。まさか折れてはいないと思うが……。
立ち上がろうとしてぷるぷると震えるユーリを見て、戻ってきたイグニスが「なに生まれたての小鹿みたいな恰好してるんですか?」と尋ねてくる。
「はあ……」
力尽きてしゃがみこんだユーリに、食材が差し出された。
「これだけあれば足りるでしょう」
「いや、生だし……」
とってきてくれたのはありがたいが、生の肉を食べる勇気はない。わがままな聖女だな。イグニスはそうつぶやき、手のひらにぼうっと炎を出した。
「!」
瞬く間に肉がこんがり焼ける。あっけにとられるユーリに、「どうぞ」と差し出した。
「あ、ありがとう……」
今のがイグニスの力なのだろうか? イグニスは人には従わず、ただひたすら、その地獄の炎で人々を焼く悪しき獣だと聖伝には書いてあったが……今のところ、彼はユーリの助けになっている。
でも、さっき「殺す」とか言っていたし、なにせ教会が定めた「悪徳」だ。無害とは思えなかった。彼は完食したユーリを見て、
「よくお食べになりますね」
ユーリは顔を赤らめた。
「お腹すいてたんだもん」
「腹がくちたところで、さあ行きましょう」
「でも私歩けないし、うわあ」
いきなり抱き上げられ、ユーリはもがいた。
「ちょっ! こわい怖い!」
「仕方ないでしょう、歩けないのだから。しかし不便ですね。負傷した足を挿げ替えることもできないとは」
「できるかっ!」
こちとら普通の人間なのだ。聖霊と一緒にしないでほしい。イグニスはユーリを抱え上げたまま納屋を出て、ふわりと宙に浮いた。
「ひー、飛んでるー!」
「いちいち騒がないでください、落としたくなるでしょう」
「ひい」
落とされてはたまらない。ユーリはぎゅ、とイグニスの腕に縋りついた。ふ、と彼が笑った気配がする。
「それでいい。おとなしく捕まっていてください」
イグニスは聖女の部屋の窓辺に降り立ち、中を覗き込んだ。
「いませんね……中へどうぞ、聖女さま」
「え、うおっ」
なかば落とすように床へおろされ、ユーリはうめく。聖女の部屋の絨毯は重厚だったので、足には響かなかったのだが……。
敬語を使うし「聖女さま」呼ばわりするくせに、やけに扱いが雑なのはなぜなのだろう。慇懃無礼ってやつかな。室内には、クリスティーナも聖霊もいなかった。たぶん、会議に出席しているんだろう。イグニスは優雅にベッドに腰かけ、
「しばらく待ちましょう。そのうち帰ってくるでしょうし」
待機の様子である。ユーリはこの部屋の主めいた顔をしているイグニスを見上げ、
「あなた、本当に聖女様を殺す気なの」
「同じことを何度も聞かないでもらえますか? あなたの脳みその容量が少ないのはわかりますが」
「少なくないし」
ユーリは憮然としながら、昨日聖霊が出てきた鏡を見た。ユーリの血で、「ESPRIT」と書かれている。それを指でなぞりながら、
「ねえ……どうしてあなたはきたの?」
「あなたが呼んだから」
いつの間にか背後に立っていたイグニスに、ユーリはぎょっとする。
「え」
彼は赤い瞳でこちらを見下ろし、
「呼んだでしょう。字を書いて」
「あなたは呼んでない。聖霊を呼、むぐ」
むぎゅ、と頰を引っ張られ、ユーリは呻いた。
「私も聖霊ですが。余り物扱いされるのは不愉快だ」
「うう、それに、聖霊を呼んだのはクリスティーナさまだよ」
「あんなアバズレに聖霊が呼べるものか」
「あ、あばずれ?」
聞きなれない言葉に、ユーリは目を白黒させた。聖霊なのに、随分口が悪い。
「魂結という言葉を?」
「こんけつ?」
ユーリは首をかしげた。また聴きなれない言葉だ。
「しらない。なに?」
「無知な娘だな」
「失礼な、っ」
背後から伸びてきた、彼の指先がユーリの指に触れた。ひやりとした感触に息を飲む。
「神の導きで聖霊と、人間──聖女が一つになること。聖霊と人間はふたつで一つ。だから聖霊は人間を求める。クリスティーナに隷属させられた、あの聖霊もね」
「一つになるって……」
ユーリが顔を赤らめたら、イグニスが鼻で笑った。
「別にいやらしい意味ではないんですがねえ」
「な、そんなこと思ってないし!」
つまり、とイグニスは続けた。
「聖霊は人間を必要とする。炎でも風でも、他の聖霊たちも」
「その話が本当なら、イグニスはなんで悪者扱いされてるの」
「私を真に制御できる人間が滅多にいないからでしょう。教会が擁立する人間すべてに、力がそなわっているとは限らない。イグニスは偽の聖女に怒り、燃やす。それが悪徳とされてきたわけです」
「そんな……」
つまりは、イグニスは理不尽にひとを害していたわけではないということか。今まで教会で聞いた講義は何だったのだ。呆然とするユーリに、イグニスがささやいた。
「言ったでしょう。人間はうそをつく。自分の利益のために、簡単に他人を害す。だからあなたも、あの偽聖女に報復を──」
「だめだよ」
「は?」
「どんな理由があろうと誰かを殺すなんてだめだ。そんなことしてたら、イグニスだって悪者のままなんじゃないの?」
ユーリの言葉に、イグニスが眉をしかめた。
「つまり、あなたは偽聖女に復讐する気がないと?」
「うん、クリスティーナ様もきっと話せば分かってくれ、むぐ」
彼がいきなり口を塞いできたので、ユーリは苦しくて呻く。
「うぐう」
「イライラするのでそれ以上話さないでください」
鏡に映ったイグニスは、その言葉通り非常にイラついているようだった。
「やっと本物の聖女を見つけたと思ったら、頭が弱いうえに聖女ぶっているだけの偽善者とは……がっかりです」
「ひどいよ! わ」
イグニスはユーリを解放し、鏡に触れた。どんどん、その身体が吸い込まれていく。
「……!」
イグニスは冷たい目でこちらを見て、
「あなたはそこでぼーっとなさっていていてください。偽聖女は私が片付けます」
「え、ちょっ、待っ、ぐえ」
イグニスが完全に鏡に吸い込まれた。慌てて追おうとしたユーリは、硬い鏡面に顔を押し付ける。押しても引いても、鏡はうんともすんともいわない。
「うぐ……た、大変だ」
ユーリは、足を引きずりながら戸口に向かう。戸を開くと、侍女仲間のミーシャが立っていた。彼女は目を丸くして、
「うわ、ユーリ。あんたどこ行ってたの。あんたがどこにもいないって、今朝から騒ぎになってたわよ」
「ミーシャ、聖女さまは!?」
「会議中だから、広間にいるけど」
広間まで、この足ではかなりかかる。ユーリはふと、アイシャの脇にあるストレッチャーに気づく。多分、茶器を片付けに来たのだろう。
「これ借りていい!?」
「え? あ、ちょっとユーリ!」
ユーリは返事を待たずにストレッチャーを押し始めた。廊下から階段まで押していき、上に乗る。ごくりと唾を飲み、壁に手をつき、思い切り反動をつけた。
「せー、のっ!」
ストレッチャーが傾き、階段を下りはじめる。
「ひいいい」
階段のでこぼこを下りていくせいで、ストレッチャーがガタガタ揺れ、視界が上下に揺れる。あ、ぶつかる! そう思った時にはすでに遅い。ユーリは壁に激突し、そのまま階段を転げ落ちた。




