001A 海上の少年少女 その1
20XX年7月の末。僕は生まれて初めて海上へと出ていた。
一面に広がるのは陽光を反射してキラキラと眩しく光る海面だ。前を向いても海、横を向いても海、船縁に乗りだして後ろを覗いてもやっぱり海海海だ。島影が全く見えないので少し怖く感じるのが少々情けない。
会員制SNSさまよいあにまるの管理人さんにレジャー施設へと誘われた僕は、DEクリエイティブ社から送られて来た書類のいくつかに署名して送り返し、今日この時を無事に迎える事が出来ていた。
ただ不思議なのは、僕に何の興味もなく家に居る事もほとんどない“あの人たち”が保護者同意書類に署名し、何時もは月に一度か二度置いて行く少しのお金を10倍ほども置いて行った事だ。
管理人さんが保護者に連絡をすると言っていたが、人に何か言われたくらいであの人たちが言う事を聞くだろうか……?
「うー! わー! たー!」
僕は暗く沈みはじめた気持ちを紛らわせるため海へと向かって叫んだ。とは言え此処は大海原の上。うねる波が立てる海調の音が叫び声を飲み込み、僕一人の存在など大きな海からすればちっぽけなものだと知らしめてくれる。
「あはは、ちょっと恥ずかしいかな。青春ドラマでもあるまいし」
叫ぶだけ叫んで冷静になった僕は青春のほとばしりに気恥ずかしなり、幸いにも誰に聞かれる事も無かったと胸を撫で下ろして人気の無い甲板を振り返った。
広い甲板には間隔を開けて置かれた数脚のティーテーブルと椅子があるが、軽食などを出す本来のテラスが中二階の方にあるせいで人っ子一人座っていない。まあだからこそ海に向かって叫ぶなんて恥ずかしい真似が出来たのだけれど。
さて、到着までまだあるみたいだし船室の休憩所に行くかな、と足を踏み出した僕だったが。ふと人の気配を感じて中二階のテラスへと続く階段へと振り向いた。
其処に女の子が居た。見るからに小さな女の子だ。その手には軽食堂から持ってきたと思われるコップやお菓子などを載せたトレイを持ち、波で揺れる船で歩きなれていないのかふらふらとした足取りで階段を降りていた。
「危ないなあ」
漁船より数倍は大きい中型のフェリーと言えど波の影響はある。海は穏やかだけれど船体が緩やかに揺れているのを感じる。その所為もあってか少女のただでさえ危なっかしい足取りは見るに耐えないほど弱弱しい。
ここで絵に描いた様なイケメンなら少女を助けに走るのだろうけれど、生憎と僕はイケメンとは程遠い引き籠り少年である。見ず知らずの女の子を観察するだけでもストレスを感じるのに、手を差し伸べるだなんて選択肢は無い。
しかしその時、運悪く大波が来たのだろう。船体が少し傾き、揺り返しで反対方向にも少し傾いた。
すると当然のようにただでさえ危なっかしかった少女の足取りが危険水域を超え、階段から足を踏み外した。
「きゃっ?!」
バランスを完全に崩した少女がかすれたように小さな悲鳴を上げ、コップやお菓子をまき散らしながら宙に体を浮かせる。
「危ない!」
船室に戻ろうとそちらの方へと向かっていた僕は咄嗟に脚を蹴りだし、体を縮みこませる少女の下へと体を滑り込ませた。
トスンと驚くほどに軽い少女の体が胸の上に落ちてくる。それでも階段に預けた背中が段差で痛むが、それを思考の外に追いやって少女を抱き留める。
そこで安堵の息をはこうとした僕の頭にジュース入りのコップが落ちてくる。ご丁寧な事に後頭部辺りに落ちたコップはポコンと間抜けな音を立てて跳ね返り、中身のジュースを僕の頭にぶちまけて転がっていた。
なんてこった。何となく泣きっ面に蜂と言う言葉を思い出した僕は、少々ゲンナリとしながらも頭を後ろに振ってジュースの水滴を払い、呆けたように見上げてくる少女に声を掛ける。
「だ、大丈夫ですか?」
「……? ??」
改めてみると本当に小さな女の子だ。小学生だろうか? でもこのフェリーってあの誘いを受けた人かDEクリエイティブの関係者しか乗っていないと聞いたのだけど、中にはこんな小さな子も居るのか。
「大丈夫?」
「……あ、あり、がと」
再び問いかけてみれば今度こそ返事が返ってきた。突然の事故にまだ驚いているのか消え入りそうな小さな声だけれど、返事は確りとしている。
もう大丈夫だろうと判断した僕は体の上に乗せていた少女をゆっくりと下ろした。
「…………」
のだけれど。なんだろうか? 少女はじっと僕の顔を凝視している。背中を階段から起こして立ち上がり、ジュースに濡れて不快にべた付いた髪を上げている間もずっとだ。
本当に小さな少女なので僕を見上げる形で、なんだか凄く気まずい。
「えっと?」
う、うう。引き籠りの僕には人の視線はキツイ。それも今までの人生で全く接点の無かった年下の女の子の視線ともなればなおさらだ。僕は誤魔化すように強張った笑顔を浮かべ、一体どう反応すればいいのかと思案する。
そんな情けない僕の顔を見ていた少女がハッとした顔で口を開いた。
「……ひょっとして、フヨウ?」
「え?」
ポリポリと頬を掻く僕を見上げた少女が言った。フヨウと。それは僕の名前に一文字足した自虐全開のハンドルネームで、さまよいあにまるだけで使っていた呼び名だった。
つまりこの少女はたった四人、管理人さんを抜けば三人しか存在していなかった利用者であると言う事だ。僕は少女の見た目と雰囲気からして浮き上がった一人の名前を言葉にする。
「ひょっとして、スズメ、さん?」
「……うん、スズメ。……やっぱりフヨウなんだ」
少女の声は感情すら読み取れない小さな物だったけれど、そこにわずかな喜色を感じた僕は改めて小さな少女を、スズメさんを見る。
背は低い。と言うよりも全体的に小さい。正に雀だ。僕を見上げてくる褐色の瞳は見た目に反して凄く力強いけれど、艶々とした綺麗な黒髪の頭頂部がハッキリと確認できるほどの身長差があった。
僕の身長が中学二年生にしては高めなほうの167㎝だと鑑みれば、スズメの身長は140㎝あるかないかかもしれない。白いワンピースの袖や裾から覗く枯葉の様に細く白い手足と相まって、触れれば折れてしまいそうな雰囲気であった。
「……想像よりずっと男の子っぽくて、びっくり」
「あはは、そうかな。まあ体だけは頑丈だから」
言われてみればそうかもしれない。身長もそうだけれど、内向きな性格に反して僕の体は同年代と比べてガッチリとしている。亡くなったお爺ちゃんに教えられた武術の修練を引き籠りながらも続けているせいだろう。
まあ使い道も見せ場もまったく無い体なので、普段気にする事がないのだけれど。
「……あ、ごめん、フヨウ。汚しちゃった。……あと、ありがと」
「わっと、いいよ。怪我が無くて良かった」
スズメが肩に下げた赤いポシェットから可愛らしいハンカチを取り出し、ジュースで汚れた僕の肩を拭おうと手を伸ばしてくる。一番汚れて居るのは頭なのだけれど、身長差が有り過ぎて頭まで手が届かないからだろう。
僕はスズメの綺麗なハンカチが汚れてしまわないようにやんわりと断りを入れ、お尻のポケットからグチャグチャに丸まったハンカチを出して頭を拭う。
「……むう。これだから男は。フヨウ、頭下げて」
「え、いや、いいよ」
「……下げる」
「はい」
ううむ。小さくてもやはり女の子か。有無を言わさぬスズメさんの態度に僕は反射的に膝を下ろした。お爺ちゃんによく「女の言う事にゃあとりあえず頷いておけ。口じゃあ勝てんのだし、ヒスを起こされては適わんしな」と教えられていたせいかも知れない。
頭に手が届くようになったスズメが一生懸命と言った風体で髪を拭ってくれる。
うう、気恥ずかしい。スズメがいくら小さい言えどやはり女の子なのだ。男の僕とは違った甘ったるい匂いが目の前で揺れる起伏のない胸元から香ってくる。
「……でも良かった」
「え、何?」
視線の位置を決めかねて気がそぞろになっていた僕にスズメが話しかけてくる。スズメの視線は丁寧に拭ってくれている頭や肩に向いているのだけれど、硬くなっている表情が少しほぐれるのが見えた。
「……フヨウがフヨウで。見た目はちょっと意外。でも気の弱そうな笑顔は想像通りだった」
「それって、褒めてるの?」
現在絶賛引き籠り中なので自覚はしているのだけれど、男としては気が弱いと言われれば何ともプライドを刺激される。プライドなんて生まれてこのかた一度として持った事はないけど。
「……これで良し。でも後でシャワーして」
「ありがとうスズメ。それじゃあ散らかってるのを片づけてからテラスでお茶でもしよう」
「……それってナンパ?」
違います。