4. 個人教授
奇妙なことに、その日から私には個室与えられ、先生と机をはさんでのマンツーマンの火星語の教育が始まった。その先生とはだれあろう、あの美しい姫君だった!
もっとも、先生との机の間には鉄格子で仕切られていたが……。
あんな醜態―――これ以上考えられない、恥ずかしい出会いを克服したといえば自分自身にうそをつくことになる。これが、地球で普段生活している酒田での出来事だったら、立ち直ることは絶望的だろう。彼女が生活している地域を避け、思い出すごとに自責の念に襲われることだろう。だが、ここは地球でも、日本でも、ましてや地元、酒田でもなくバルスームだった。あまりにも自分に正直な姿を見せた反動で、何かが吹っ切れた感じがした。
そう! 私はこういう男なんだ! あなたに、男として欲望を感じた。
さらに食堂での出来事が決定打となった。どちらも、私自身がためらう、あるいは、踏み越えられない一線を越えた出来事だったのだ。だから、彼女と正面に対したときには、その目の視線を堂々と受け止めることができた。
だが、美しい先生に前では、私はすこぶるいい生徒だった。以前英会話にあこがれて、ものの3日ほどでほうり投げてしまったときとは大違いの熱心さに、自分ながらもびっくりした。もっとも、目の前にこれほどまでに美しい人がいれば、その人と意志の疎通がしたいと考えるのは当たり前だろうが。彼女も意外なほどに、この教育課程に熱中しているようで、それこそ寝る時間以外はいつも私と向かい合っていた。
そんなこんなの一週間がすぎるころには、発音が怪しくて相手が何度か聞き返すことはあっても、私の方はほぼ完ぺきに聞き取れるまでになった。
彼女の名前は、リア・ソリスといった。
名前からわかるようにジョン・カーターとデジャー・ソリスの娘―――末娘である。名前の由来は彼女が孵卵器から出てきたとき乳母が、あまりにもデジャー・ソリスとそっくりなのに驚いて叫んだ「リア、バルデ、デジャー・ソリス!」(あら!ちっちゃなデジャー・ソリスさま)の言葉が、もとになっていた。ヘリウムの国民は敬愛の意味を込めて、「小さなプリンセス」とたたえていた。
ジョン・カーターとデジャー・ソリスは、もう一人の娘、姉のターラがわがままいっぱいに育ってしまったという苦い経験に懲り、リア・ソリスには厳しい躾けを施していたようだ。
今回の飛行船での旅も、母のデジャー・ソリスが若いころおこなった火星の気象観測地図のその後の調査だった。その時にデジャー・ソリスはジョン・カーターと運命の出会いをしたのだった。出発前デジャー・ソリスはこういって末娘を送り出した。
「小さなソリス、よく聞くのです。この旅は、ただの観測だけが目的ではないのですよ。母はおまえに試練というものを与えます。自分自身を見つめ直し、自分というものを知るという意味あいもあるのです。ほぼ一年もの間には、いろいろな苦しいことがあるでしょう。母はおまえのようなころに父と出会い、そして愛し合うようになりました。あのような素晴らしい出会いを用意してくれた運命の神に、今でも深く感謝しています。さあ、リア・ソリス、行ってきなさい。そして、見つけるのです、自分にとって大切なものを」
リア・ソリスはそこまで説明して、机の上に積み上げたれた本の類いをわきによせ、両手を組みあわせてひと呼吸おいた。
「カイ・・・父のジョン・カーターはこのバルスームにたった一人でやって来て、誰もが考えもしなかった偉大なことを成し遂げました。わたくしも娘としてはもちろん、ヘリウムの国民の一人として深く尊敬しています。母への愛のために父がおこなった数々の武勇伝は、今でも戯曲となって数々の舞台で演じられているほど。あなたもジャスームから来られたと申されていますが、姿形も皮膚の色もまるでちがう。ひ弱そうなあなたが囚人食堂で、あの怪力ゴーダスをコブシの一撃だけで打ち殺してしまったとは到底信じられない出来事。それに謁見の時の……殿方のものを拝見したのはあれが初めてでした。母は、ジャスーム……地球人があのように、大量の布で体を隠しているのがどうしてもわからないと言っていましたが、今のわたくしにはわかったような気がいたします。あなたは見た目はひ弱な子供のようで、中身は大胆で剛腕。いったい、あなたは何者なのです?」
私は慎重に、頭の中で言葉を組み立てながら答えた。
「お父上の大元帥ジョン・カーターの武勇伝は、地球でも本の形になって読みつがれています。私はジョン・カーターとデジャー・ソリスの熱烈な一崇拝者にすぎません。一生に一度でいいからバルスームに行ってみたいという思いが高じて、今日という日になるのですが、正直なところ地球では全く平均的な人間です。むしろ体格的には痩せてるほうでしょう。取るに足らない男の望みが、ここバルスームに来ることでした。あの日、毎日のように切望していた待望のバルスームにやって来ることができ、興奮の冷めやらないうちに、あなたのような素晴らしい女性を目にすることができた。お父上は、バルスームの女性についての説明が謙虚すぎたようです。予告なしにあの謁見となって、私は己の心を隠すゆとりもありませんでした。ご無礼については深く恥じ入っている次第です」
そう言って私は頭を下げた。リア・ソリスは視線を外さないままに熱心に聞き入っていたが、やがて大人のコブシぐらいの革袋をとりだすと、中身を机の上に出した。一目でジェタンの駒であることがわかった。
「火星のチェス人間」でこの将棋にも似たゲームが登場したとき、実物をこの目で見たいものだと思ったが、こんなにも早く見ることができるなんて!
ひとつひとつを手に取って、鉄格子越しに私に渡しながら説明してくれた。
「敵の黒い駒は昔敵対していたホーリー・サーンがモデルとなっています。オレンジの駒は我がヘリウムの英雄や王家の人たち。戦士の駒の一つは兄のカーソリス、もう一つは父のジョン・カーター」
手渡された駒の一つ一つを子細に見ながら、その芸術的なまでに緻密な彫刻に深い感動を覚えた。戦士の駒の二つは、モデルが親子ゆえ全くよく似ていたが、よくよく見ると微妙な違いがあった。でもどっちがジョン・カーターなのかは、正直なところわかりかねた。
「あなたにはわからないと思います。バルスームの人間はある程度まで年を重ねると、肉体的な年齢の区別はつきません。兄のカーソリスも最近は父と同じに威丈夫となり、見た目で違うところは肌の色ぐらいなので、色のついてないジェタンの駒では、我がヘリウムの国民しか見分けられないと思うほどです。そしてこれが王女の駒です」
小さな小さな、小指ぐらいの大きさの駒だったが、リア・ソリスが私の手のひらにのっていた。高く結い上げた髪の毛の一本が見えると勘違いするほどのできで、彫りの深い顔は誰が見てもリア・ソリスとわかっただろう。私は無性にこのジェタンの駒が欲しくなった。どれぐらい先かわからないが、いつかは必ず手に入れて見せると自分自身に誓いをたてていた。
当然のように王女と組みになる王の駒の存在が気になった。手に取ると驚いたことに顔が彫られてなかった。
「このジェタンの駒は、わたくし専用のもの。無理を言って王の駒は魂を入れていません。いつの日か……愛する人が私の前に現れたときこそ、その駒は完成することでしょう」
この一週間、鉄格子をはさんではいたが、彼女とふたりっきりで一つの部屋にいたという気安さから、このとき口に出してはいけないことを言ってしまうことになる。
「私がその候補に……王になりたいと言ってもかまわないでしょうか?」
言った瞬間、リア・ソリスの表情から自分がまずいことを言ったのに気がついたが、後の祭りだった。
「ヘリウムの王女に向かってなんということを! 神をも恐れぬ冒涜です! そのようなことを口に出してはいけません! 考えることさえ許されないことなのです。あなたに対する好奇心で、長居がすぎたようです」
リア・ソリスの目は明らかに怒りで燃えていた。考えられないほどの屈辱を受けたあまり、体がわなわなふるえている。ジェタンの駒を奪うように私の手からもぎ取ると、革袋に入れて立ち上がった。
「あなたがバルスームの人だったら、この場で打ち首を命じていたでしょう。地球人カイ、ヘリウムの王女リア・ソリスは、これまでのことを見なかったし、聞かなかったことにいたします。大それた希望を持つのは、この場限りでやめるのです。あなたの身柄は、父のジョン・カーターに引き渡すまでは特例として客人として扱い、ラング・ランドに預けます。これからは、二度と会うことはないでしょう」
私に話をさせるスキも与えず、リア・ソリスは荒々しくドアを閉めて退出してしまった。二度目の失敗に、さすがに自分自身の考えの甘さに腹が立った。同時に彼女にたいしても無性に腹が立った。希望の一かけらも残さない態度にがっかりするどころか逆に、いつか自分という存在を認めさせてやると、ひとり興奮していた。愛とか何とかの問題ではなく、これはプライドを傷つけられたことへの怒りだった。