1. あこがれの火星に
思いもかけず火星に旅することになった。そのいきさつに関しては、今はまだ話すことはできないが、とにかく私は今火星にいて、この文章を書いています。
気がついたとき最初に思ったのは「ここは火星なんだ」という既知感と、肌にちくちくするような日差しの強さだった。火星は地球と比べて太陽から遠い惑星というのは知っていた。それならば当然のように火星の気候は寒いだろうと思っていたから、ここはまだ地球のどこかなのだろうか・・・と最初とは正反対のことまでぼんやり考えていた。
仰向けになった状態から上半身をおこし、あたりに目をやるとその疑問は一蹴した。広大な平原のただ中に―――まるで黄色のじゅうたんを敷いたような―――私は横たわっていた。黄色いコケのようなその植物を手でむしり取ると、においはほとんどなく、表面は乾燥していて枯れたワラのような手触りだったが、切断面からは見る見るうちに水滴が盛り上がってきている。コブシで地面を打つと、厚い絨毯を打つような感覚で、ほとんど音はしない。
体の向きを変えようとして、初めて自分が素っ裸なのに気がついた。ここが本当に火星だったとしたら、バローズの小説を読んでいたから事前にわかっていたはずなのだが、やはりショックは大きかった。急にこの荒涼とした黄色の草原?が、私という人間の存在を拒絶しているかのような孤立感に襲われ、自分がちっぽけなものに思えてしまう。さっきまでは心のどこかで「火星に来たんだ!」とはしゃいだ部分もあったのだが、衣服を身にまとっていないだけで大きな喪失感―――人間としての自信が抜け落ちていった。
ジョン・カーターは手記には書いてなかったが、やはりこんな気持ちに襲われなかったのか?
彼の場合、アリゾナとかアメリカ南部の暑いところに住んでいた期間が長いから、上半身裸の機会が多かったから、慣れっこになっていたのか? しかし、パンツを脱いだまま生活していたことはないはず。誰もいないのに、思わず股間を手でおおう自分が情けなかったが、長い間の生活習慣を変えることはむずかしい。ましてや、人に見せるほどの肉体ではないし。
起き上がろうとして、ジョン・カーターの教訓を思い出した。むやみに立ち上がると、火星の低い重力のせいで体が飛び上がってしまうはず。上半身をねじって腹ばいになり、腕立て伏せをためしてみる。体が、紙のように軽い。なるほど、これじゃ普通に立ち上がったら体が地面から離れてしまうはずだ。何回も面白くて腕立て伏せを繰り返すと、そのうち手が地面から離れてしまい、足の指がついた状態で体がふわりと浮いたが、元に戻るときのスピードはかなりゆっくりしていた。恐怖心は湧かず、倒れたショックも楽々手で吸収できるほどだった。それこそ、指一本で体が支えられるほどの低重力。もっとも、慣性は重力ほど減るわけではないから注意が必要だが。
立ったり座ったり、歩いたりの練習をどのくらい繰り返したか?あたりが急に暗くなってきたなと思ったら、ぱっと夜になった。映画館の映写が始まるときに落とされる館内の照明のように。と、同時に、天空に2つの月が現れた。
肉眼でも多少いびつな形をしているのがわかる2つの月は、速いほうがみるみる移動していくのが見てとれた。それとともに、黄色のコケの平原に落ちる2つの私の影も移動していく。また、平原のコケのかすかなおうとつの影も刻一刻とその表情を変え、その移り変わりぐあいは神秘さを越えて不気味なくらいだった。この光景を最初に見た驚きは、決して忘れないことだろう。
暗さとともに肌寒さを覚えた私は、ようやく自分の身の安全について思いいたった。これから夜半、明け方にかけてはずっと気温は下がり続けるだろうと予想された。今のままでは、次に太陽が私の体を暖めるときは、かなり手遅れになってることだろう。もうすでに、歯ががちがちいうほどに気温が下がってきていた。
たまらずコケのしとねに腹ばいになると、かすかに温みが伝わってくる。何気なしに手で黄色いコケをむしり取ると、子供の頭ほどの塊がごそっと抜けてきた。これだと思い、次々コケをむしり始めると、ものの数分で人がすっぽりはいれるくらいの穴ができた。30センチぐらいの深さになっても黄色いコケは乾燥した柔らかいワラのようだった。
穴に横たわり、体の上にむしり取ったコケをかけると思いのほか温かい。冷たい空気が直接肌にあたらないせいもあるが、それよりもコケの深部から蓄熱された熱が伝わってくるようだ。
いったい、この表面を覆う黄色いコケはどのくらいの厚さで表土をおおっているのか?後で人に聞いて知ったことだが、その時私はかなり危険なことをしていたのだ。このコケは、2メートルから3メートルぐらいの蓄積層を持っているのだが、地面の表面に見える黄色の部分はすでに活動を停止している組織で、水分の貯蔵と温度が逃げない役目をしていて、その下に活発に生きていて水分と栄養を捕食している組織がある。つまり、この平原は下部から成長し、上へ上へとふくらみ続けているのだ。
水分が乏しい過酷な環境。穴をもっと深く掘って、成長中の組織の中に体を横たえていたら、水分を十分に含んだ私の体はコケにゆっくり絡みつかれ、生きながら肥料になっていたという。ここは、飢えきった惑星なのだ。幸いその時は30センチほどしか掘らなかったので、枯れた部分しかなかったので、ことなきを得たのだが。
2つの月の動きを目で追いながら、私は今火星にいるんだ!ジョン・カーターがいる火星にいるんだと興奮して、いつまでも寝につけなかった。ようやく睡魔が訪れたころ、もう一つの月のような星が地平線より上ってきた。見かけは、地球から見る月の10分の1ぐらい大きさの、青い星だった。これは、地球だなと感じた。こんなに地球が近いなんて、ここはやはりバローズの火星、バルスームなんだ……。