16、地下牢
「カオール! ようやくお目覚めかな」
気がつくと、暗い牢獄に放り込まれていた。長いあいだ石畳の床に倒れていたらしく、身体の下側部分が我慢できないくらいに痛む。身体を伸ばそうとして、腕の自由が鎖によって拘束されてるのに気がついた。両手首に鉄の輪をはめられ、そこから鎖によって壁に固定されてるのだった。鉄の輪には頑丈な南京錠が降ろされていて、人間の力ではどうにもできない状態だった。
この牢は一辺が10メートルぐらいの正方形の部屋で、窓もないところからすると地下のようだった。唯一石の壁がとぎれるのは、入り口のスキール製の扉部分ぐらいで、灯りといえるものは、格子にはまった、人の顔ほどの大きさの覗き窓だけだった。最初の呆然とした精神状態からようやく脱した私は、声の主に注意を向けることができた。
「カオール。目覚めたのは嬉しいが、ここはいったい何処なんです? どう見ても客室には見えないし、おまけに夢でもなさそうだ。」
さきほどの、声のしたほうに顔を向けても、まだ目のほうがかすんでいるようで、はっきりとはその姿は分からなかった。それに、ひどい頭痛で頭がずきずきしていた。
「ここはゾダンガの宮殿の地下牢だ。君はここに放り込まれてから、二日ほど目を覚まさなかったよ。てっきり死体と相部屋にされたのかとがっかりしていたが、気がついてほっとしたよ。これで、ようやく話し相手ができたってわけだ」
男の声はこんな状態の中でも力強く、人に対して命令することになれている印象を覚えた。そこで私は、それに呼応するように自己紹介した。
「私の名前はカイ。奇妙ないきさつでワフーン族の族長の地位にいます。ヴィザードの皇帝サ・バンに謁見した帰り道で何者かに待ち伏せされて、この有様というわけです」
男は考え込んでるようで、次の言葉が出るまでにしばしの間があったが、やがて言った。
「私は放浪戦士のドタール・ソジャット……」
「ドタール・ソジャット!」
びっくり仰天して私は叫んでしまった。
「あなたは……もしや・・ジョン・カーターその人では?」
「し! 君は何者だ!?……どうして、私がジョン・カーターだと見破った?」
ジョン・カーターだ! 本物のジョン・カーターだ! さっきまでの頭痛が嘘のように消え、高まる興奮の中で夢中で話をしていた。
「私は地球人です! あなたの手記は地球で本になっているんです。一応バローズが創作した小説という形になってますが、かなりの評判を呼び、今では数カ国語に翻訳されています。私はバローズのファンでして、バルスームでのあなたの活躍や、デジャー・ソリスと結婚したことなども知っています。それと、カ-ソリスの活躍とか、ターラやユリシーズ・パクストンのことも読んでます。ドタール・ソジャットの名前のいきさつについても当然知っています」
本人に会えた感動で、多少声が震えたところがあったと思う。しかし、この場合誰だってそうだろうと思う。崇拝してやまない英雄との突然の対面に、私は舞い上がっていたのだ。ジョン・カーターは私の話に納得したのか、やがて言った。
「そうか。パクストンも地球からこのバルスームにやってきているからな。当然その次もあっても不思議ではないな。ところで、甥の……エドガーはまだ……生きているのか?」
「残念ながら、彼は1950年に75歳で亡くなりました。私が火星に到着したのが99年ですからずっと前のことです。彼はずっとあなたの生き様にあこがれていたようですね。歳とってからも戦争に自分から志願したくらいだし……。実のところ、私はアメリカ人ではなく日本人です。分かりますか、日本という国が? 私の姿を見たら、あなたには中国人に見えると思うのですが……。アメリカ人でない私でさえ、あなたの活躍を夢見たほどですから、世界中がどれだけバローズの物語に熱中したか、分かると思います。あなたは、軍神の赤い星にあこがれた。私はあなたや、デジャー・ソリスにあこがれてこの地に飛来したのです」
「彼が死んでから、地球では50年近くの歳月がたっていたのか……。知らなかったよ。毎日、戦いと冒険に明け暮れていたからな」
それから彼は、なぜこのように牢に繋がれることになってしまったのかを、簡単に教えてくれた。ヴィザードがゾダンガの都を占拠した時点で、ヘリウムは密偵を潜り込ませていたらしい。その密偵が、ゾダンガ市中にヘリウムの王女が、囚われの身になっているらしいと伝えてきた。単身敵陣に潜り込んだジョン・カーターだったが、うかつにもヘリウムの戦士と見破られ、捕らえられてしまったとのこと。私も、火星に到着してから今までにおこったことを、詳しく彼に説明した。
「どうやら、あなたの娘のリア・ソリスは、この宮殿の一番高い塔の中に幽閉されてるようです。もう一人のヘリウムの王女というのは確認がとれてませんが……」
「おそらくそれはデジャー・ソリスだろう。彼女は私がゾダンガに潜入していることを知っている。長い間なんの音沙汰もないことに心配し、我慢ができなくて自ら行動をとり、捕まったものと思うのが、一番理にかなう考え方だ。リア・ソリスは親の私が言うのも変だが、母のデジャー・ソリス以上に美しい娘だ。赤色人の女性というものは地球人から見ると、あまりに無防備に行動を犯す傾向にある。まわりのことが見えてないというか、要は独立心だけが強すぎてこちらが振り舞わされてしまうんだな。ターラの時は、本当にほとほと困ってしまった。だから、リア・ソリスには私なりに……地球人から見てもしっかりした躾をしたつもりだ。それに、母の美しさをそっくりそのまま、いや、それ以上に受け継いでる。……はっきり言わせてもらうが、君は私の娘……リア・ソリスに恋をしているだろう?」
私はジョン・カーターの予期せぬ唐突な問いかけに、正直に答えてしまっていた。
「愛してしまいました」
ジョン・カーターは暗闇の中でうなずいたようだった。
「やっぱりそうだろうと思ったよ。地球人から見たら、赤色人の女は女神を通り越して魔物にも匹敵するほどの美しさだ。君のように二人っきりで逃げていたのなら、若い男だったら恋しない方がおかしいからな。で、リア・ソリスのほうは、どうなんだ?」
「最後に飛行艇で飛び去る瞬間に、愛を告白してくれました。でもそれは、二人で逃走していた間に生まれた友情の感情から、思わず口に出た言葉かも知れません。平穏な生活の戻り、宮廷のどこかで私に出会ったら、リア・ソリスがその時と同じ感情を、持ち続けてくれるとは自信がないのです」
なぜか私は、リア・ソリスの愛情のことを、その場限りの一過性のものとジョン・カーターに思わせるような説明をしていた。シスのこともあり、思い悩んでの結果だったのか。確かにリア・ソリスは、目もくらむほどの圧倒的な美しさで私を虜にしてしまった。対するシスは、美しさを失い、声もなくした女性。だが、その心の美しさでは宇宙一だろう。目の前にリア・ソリスがいれば、どうなるのかはわからなかったが、今の私の思いはシスに傾きつつあった。それでもリア・ソリスに忠誠を誓った自分は、彼女を窮地より救う義務があった。それと愛情問題は別物だった。
「リア・ソリスの気持ち一つだな。娘の気持ちが変わらず、君が話し通りの男だったら、私は祝福を送るだけだ」
ジョン・カーターは、はっきりと言った。その後も話は尽きず、私はかねがね続きが知りたくて気になっていた冒険談の続きを話してくれるように、わがままを言った。その時語られたジョン・カーターの驚くべき冒険は、別の機会に述べようと思うが、ずっと聞いていても興味が尽きなかったことは確かだった。
それから話は、どうやってここから脱出するかの計画に移っていった。ジョン・カーターの話によると、意識のあるままにこの地下牢に入れられたので、ここが地下5階だということがわかっているという。食事は一日に一回、足の悪い牢番が扉を開けて、床に食器のトレイを置いていくと言うことだ。2回の食事が差し出されたが、その間私の意識は戻らなかったそうだ。足の悪い牢番はたんまり給料をもらっていて、買収にも応じないらしい。
脱出するのは早ければ早いほうがいい。遅くなれば、二人のプリンセスが良からぬ事態に巻き込まれる可能性が、それだけ大きくなる。身の回りのものを手探りで点検すると、二人とも腰布と肩ベルトを身につけていたが、ジョン・カーターはそれだけだった。私は左手の手首に「族長カイ」の腕輪と、首から下げたリア・ソリスのジェタンの駒の袋、族長の証の首から下げた干し手首、そして嬉しいことに腰のベルトに投げ縄の束が残っていた。いつも本番で使う縄は、こんなふうにきつく巻いて納めていないのだが、それとは別に何かの時のためにと、細めの縄をコンパクトに結んでベルトにくくりつけていたのだ。縄をきれいに編み込んでいたので、一種の装飾品のように見えたのかも知れない。これで脱走の計画は決まった。
縄をほどいてしごき、丁寧によじれの癖をとる。手のひらから油を吸い取っていった縄は、しだいに素直になっていった。何度か練習し、投げ縄のコツを呼び戻した。二人で綿密な脱走計画の打ち合わせをし、牢番が一日一回の食事を運んでくる時を待つことにした。
永遠とも思える時間が過ぎたと思った頃、食事を積んだワゴンを押す、がらがらという音が遠くから聞こえてきた。息をするのもはばかれる緊張の中、その音はしだいにこの牢に近づいてくる。縄を持ちなおし、準備万端怠りないことを何度も頭の中で復唱する。と、その時ジョン・カーターが小声で鋭く叫んだ。
「いつもの牢番じゃない!」
なぜ? と言いそうになった私を、彼は手で制して一心に耳を澄ませる。やがて、
「やっぱり、そうだ! いつもの牢番は足が悪くて、歩くたびに足を引きずっていた。食事のワゴンを押すときだってそうだ。びっこを引いているから、腰に下げた鍵の束が揺れて鳴るから分かるんだ。今日はその音が違う。今は縄を隠して、じっとしているんだ。」
そう言われて、私は縄を小さく丸めて背中と壁の間に挟んだ。はたして、牢の扉が開くと、明るい光が部屋の中を探るように照らし出した。昨日まで食事を運んでいた男は、何十年もこの牢に通っていたので、部屋の中を明かりで照らすようなことはしなかった。暗闇の中で牢番を捕まえ、その鍵を奪うという私たちの計画は、携帯用ラジウム灯のような明るい光で部屋の様子を調べられたら、一目でばれてしまう。
新顔の牢番は中の様子を充分に見て納得してから、食事を運び込んだ。トレイを私たちの手の届かない位置に置いてから、そっと足で場所を動かす。食べ終えたトレイも足で引き寄せてから、運び去るという用心深さだった。やがて、扉の閉まる音がし、鍵が再び閉められた。廊下を遠ざかる足音とともに、私の絶望感は大きくなっていった。
「ジョン・カーター、私たちはどうしたらいいのだろう? 今の男の様子から、不意打ちをかけることなんて不可能だ。かと言って、あの鍵がないと脱出なんて……」
「前にも何度かあったことなんだ。あれは、足の悪い牢番の息子だろう。自分に用事があると、替わりに息子をよこすんだ。その用事と言ったって、女か酒だろうと思うが。私はここに、3ヶ月以上も閉じこめられているが、今日のように彼がやってこない日が何度かあったよ。短いときで1日、長いときは一週間もだが」
「どうすればいいのです?」
「彼が来るのを待つしか、方法はないだろうな」
次の日も足の悪い牢番ではなかった。その次の日も、次の日も。こうなってくると、何もできずに待つだけの毎日が苦痛で、私は耐えられなくなっていった。
「私はもう我慢できません! こうやってじっと我慢している間にも、リア・ソリスやシスの身に何か間違いがおこっているのではと思うと、気が狂いそうだ。次の機会に勝負に出ませんか? 成功する見込みは薄いけど、こうやって黙って壁に鎖で繋がれているよりましだと思いますが」
「リア・ソリスのことを心配しているのは、君だけではない。私は今までに数え切れないほど同じように捕らえられてきた。火星人の不思議なところは、敵と分かった時点でどうしてすぐに殺さないで生かしておくのか? と言うことだが、それは私にも分からないから聞かないでくれ。捕らえられて、幾日も牢に放り込まれたままでデジャー・ソリスの身が要として知れず、焦りで気が狂いそうになったことも一度や2度ではない。だが、くじけそうになったときに思い出すんだよ、私はまだ生きている! とね。生きていさえすれば、何とかなる。そうだろう? 死んでしまっては何一つできないし、ただの犬死で終わってしまう。チャンスが大きい明日まで待っていたら、リア・ソリスにとっては手遅れになってしまう可能性もある。だが逆に、そうでない可能性もある」
「ただ手をこまねいて、チャンスを待つしかないのでしょうか?」
「今は待つしかない」
ジョン・カーターの話で、私はぎりぎりのところで理性を保ち続けた。再び同じような日々の繰り返しだった。次こそ、足の悪い牢番が来ると期待するのだが、いつもその希望は破られ続けた。
こんな具合に一月も過ぎ去った頃、遂にチャンスが訪れた。その日もいつものように、遙か遠くから聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。今日もだめかと、思い始めていた私の胸は興奮で高鳴った。足音が昨日までと違う! 牢番の腰に下がった鍵の束が、一歩ごとに騒々しい金属音を奏でているのだ。これは、歩くのに支障がある者がびっこを引きながら進んできているから、鍵の束が激しく踊っている証拠だ! チャリンチャリンという甲高い響きが、地下牢の廊下に祝福の鐘のように反響していた。
これまで幾度の繰り返したように、今回も投げ縄のよじれをとり、暗闇の中で待ちかまえた。傍らのジョン・カーターも遂にその時が来たと分かったのか、「よし」と低くつぶやいた。牢番は立ち寄る先々で食事のトレイを配膳していたので、この牢に来るまでだいぶ時間がかかっていたが、やがて扉の前にワゴンが停まった。
何度も鍵をまわす音が聞こえてきたのは、鍵の数がいっぱいで、合う鍵がなかなか見つからないためだろう。かちりと鍵がはずれる音がした。私の心臓は、期待と不安で破裂しそうなほどに激しく鼓動を繰り返し、胸が痛いほどだった。扉が開き、廊下の薄暗い明かりが中に差し込んできて、期待通りに明かりを持たずに牢番が室内に入ってきた。その手には食事のトレイを持っているのだと思うが、ここからでは伺い知れない。ぼんやりした、影のような姿が屈まるのが分かった。トレイが床にふれる音がし、男は身を起こした。私はそのタイミングを逃さなかった。
右手に隠し持った投げ縄の輪を、かすかに見える男の頭に投げてかぶせ、一気にたぐり寄せた。一瞬、息が詰まったような音がしたが、固く絞られた輪は、男の断末魔の叫びさえ封じてしまっていた。一引きで男の身体が手元まで飛び込んできた。両手で縄を締め込みながら、そのまま息絶えるまで男の身体を支え続ける。こういう具合に人の命を奪うのは気持ちのいいものではなかった。この際仕方ないことなんだと自分に言い聞かせたが、正直言って、この暗闇がなかったらその勇気が出たかどうかは分からない。
遂に男の身体はぐったりとなり、私の合図でジョン・カーターは鍵の束を手に入れた。急いで手首から輪をはずし自由になると、次に私の輪をはずした。牢番の長剣を手にするとジョン・カーターは廊下の様子をうかがい、大丈夫だ、ついてくるようにと合図した。私はそっと死体を横たえ、その後に続く。
そのまま一気に地下の階層を抜け出るのかと思っていたが、彼は考えを変えたようで、逆に奥へと私をいざなった。牢の各扉の前で立ち止まると、ちょっと考え込むように目を閉じる。いったい何をするつもりなのかと思ったが、テレパシー能力を使って中に捕らわれている者が何者なのだろうと探っているのだと気がついた。やがて、一つの扉を鍵で開けた。
「カオール! 私はヘリウムのプリンス、ジョン・カーターだ。君の名前は?」
彼がつぶやくと、牢の中で驚愕して息をのむ音がした。
「第七ユーマック(師団)のドワール、ラング・ランドであります」
ラング・ランド! ヴィザードの海軍と最初の空中戦の時に、リア・ソリスの旗艦に最後まで残り、私と王女が脱出するのを援護したラング・ランド!
もはや彼にこの世で会うことはあるまいと思っていたので、こんなところで再開することができてびっくり仰天してしまった。ジョン・カーターが彼の鎖を外して通路まで出てきた。地球の時間で半年以上のブランクだったが、その姿からは彼の持ち前の勇猛さはみじんも失われてはいなかった。
「ラング・ランド、覚えているでしょうか? 私はリア・ソリスとともにマーズ号で脱出した、地球人のカイです」
今度びっくりするのはラング・ランドのほうだった。
「カイ! なんとこんなところで!……プリンセスはご無事か?」
今までのことをかいつまんで説明したが、リア・ソリスの消息は、残念ながら分からないということを彼に言うのは辛かった。
「……マーズ号が空のかなたに消える前に、ワフーンの戦士が撃った一発のラジウム弾が命中してなければ、ヘリウムまでは目と鼻の距離。だが、ゾダンガのことをかぎまわっているうちに、ヘリウムの王女が二人も捕らわれているという、有力な情報を耳にした。あの時たどり着けなくて、ヴィザードの手に落ちた公算は大きいだろうな。捕らえられている場所は、宮殿の一番高い塔の最上階だと思う」
私の話を聞いていたラング・ランドは、他にもそのことについて思い当たるふしがあるらしく、ちょっと考えてからそのことにふれた。
「実は、侍女のナデレードは捕らえられる最後の最後まで、ヘリウムの王女の役になりきっていた。リア・ソリス王女の美しさに関しては諸国にあまねく知られてはいたが、その顔をじかに見たものは意外と少ないはず。ナデレードが今も王女の芝居を続けているとしたら……」
気がついてしかるべきだったが、今までラング・ランドとナデレードが最後にどうなったのかを知ることができなかったので、その可能性が頭に思い浮かばなかったのだ。こうなると、捕らえられているヘリウムの王女というのは、デジャー・ソリス、リア・ソリス、ナデレードのうちの誰なのか? と言うことだったが、どちらにしても救出は、急を要するということに替わりはなかったが。
それから三人は、当面の問題である地下牢からの脱出に言及し、ジョン・カーターと私はプリンセスの救出、一方ラング・ランドはゾダンガを脱出した後にヘリウムにいったん戻り、強力な艦隊を編成し、ヴィザードに総攻撃をかけることになった。宮殿の屋上には偵察用の高速単座艇があると思われるし、それを奪取する事に成功すれば、ヘリウムまでは二日もかからない距離だ。
大まかな計画はできたのだが、実行するためには最初にこの地下牢の階層から出ないことには話にならない。今の通路の様子から、牢の見張りは階層の出口だけのようだ。我々の位置は通路の一番奥側だった。通路はまっすぐ150メートルもあろうか。とりあえず、牢の中にとらわれになっている囚人で、ヴィザードに反感を持って、協力してくれそうな人物を捜すことにした。一番奥からはじめて、出口に向かいながら援軍を増やしていく算段だった。
扉を開ける前に、こっそりとテレパシーで、中の囚人の頭の中を探った。牢の各部屋は複数の者が放り込まれているときもあれば、使われてない部屋もあり、はずれの確率も高かったが、一人でも仲間が多い方が脱出できる可能性は大きい。私たちが放り込まれていた部屋の前にたどり着く頃には、仲間は10名ほどになっていた。ヘリウム統治下のゾダンガ時代に、数多くのヘリウムの兵士達がこの都に移り住んでいたので、半数以上がジョン・カーターの名前を聞いて涙を流さんばかりに喜んでいた。
残りは、幾多の放浪の末に、ここにたどり着いたパンサン達だったが、脱出できるなら協力すると言ってくれた。私たちの牢から出口に向かう方角の部屋には、不思議なことに人がいる気配がなかった。実際いちいち中を開けて見たわけではなかったのだが、テレパシーに何も感じないのだ。普通、このように牢に長期間閉じこめられと、いかに注意深い者でも思考の障壁をゆるめてしまう。
10数の牢が思考波を感じない状態だったので、さすがにこれはおかしいと言うことになり、試しに一つの扉を開けると謎が判明した。たまたま覗いた部屋は、3名の男が鎖で繋がれていたが、全員死んでいた。死んでから間もないことは、身体のぬくみがうっすらと残っていることから知ることができた。
「ジョン・カーター、これはどういうことなんでしょう?」
私が素直に口にした疑問に、彼は食事のトレイを指さし答えた。
「食べ物に、毒を盛られたらしい。あの時牢番は、私たちの所まで食事を配膳し終わっていた。それを食べた者は、この牢の中の男達と同じ運命をたどったはずだ。恐ろしいことだが、生き残っているのはここにいる者だけだろう」
「なぜ牢番は、今頃になって皆を毒殺しようとしたんだろうか? 反応のない部屋の数からすると、これから先はすべて毒にやられていると考えられるが、どうして一晩ですべての囚人を処分しようとしたんだろう?」
ジョン・カーターは顎に手をやり思案していたが、やがて言った。
「ヴィザードの皇帝サ・バンの指示によるものだろう。そうなると、これはサ・バンがなにか大きなことをやろうとしている初めの兆候かもしれない。我々が考えているより、時間はないかも知れないぞ!」
仲間を集めることをあきらめ、我々は一団となって出口へ向かった。地上へ続く回廊の鉄格子の所には見張りがいるものと思っていたが、そこは人気もなくがらんとしていた。鉄格子を通り抜けたところの壁には、長剣が数十本立てかけて保管されていたので、我々全員は難なく武装することができた。回廊をどんどん進んでいって、しまいには宮殿の地下一階部分に出ることができたが、ここにも兵士達の姿は誰一人見えなかった。狐につままれたような感じで、不思議に思いながらも先を急ぎ、とうとう宮殿内部にたどり着いてしまった。
数ヶ月ぶりに見る窓の外の光にまぶしさを覚えながらも、家具や調度品の影が二重に見えることから、それが夜空を走る二つの衛星の明かりなのだと気がついた。しかし夜だからといっても、これぐらい警備が手薄のはずはなかった。宮殿を抜けてゾダンガの中央広場が望める場所に立っても、街に灯りは見えなかった。ここに至って、悪い予感は現実のものとなった。ヴィザードのサ・バンは、行動をおこしたのだ!
宮殿のこの有様からすると、兵舎のほうも同じと考えられる。我々は当初の計画を変更し、一路兵舎を目指した。そこに飛行艇が残ってさえいれば……。数分で兵舎の巨大な建物にたどり着いたが、案の定そこはもぬけの殻になっていた。こうなると敵に遭遇する危惧などかなぐり捨てて、ひたすら屋上の格納庫にむかう。そこまではかなりの回廊を走り抜けなければならなかったが、どこにも兵士のいる気配すら感じなかった。
屋上にたどり着き、まっすぐに格納庫に向かうと、ありがたいことに数艇の小型飛行艇が残されていた。武装はすべてはぎ取られていたが、飛行には支障がないようだ。10名ほどが乗れる軽巡クラスの飛行艇をいただくことにした。一艇を私とジョン・カーターが使い、もう一艇にラング・ランド以下10名が搭乗し、ヘリウムに向けて旅立つことになった。ジョン・カーターはラング・ランドにヘリウムに異変がなければ、ただちに艦隊を編成しゾダンガに戻るようにと命令した。
一足先に飛び立つ彼らを見ながら、我々二人もその後を追うように船を空中に浮かべた。船のいっさいの灯りを消し、万が一にも見つからないようにしたが、眼下に見える街は不気味なほどに静まりかえっていた。中央公園の真ん中におぼろげな青い光を認め、ジョン・カーターに伝える。
「あれは空気井戸の光だ。大気工場から圧送された第9光線はバルスーム中に網の目のように広がっている地下トンネルを通り、あのような空気井戸から大気中に放出される。その時第9光線が宇宙のエーテルと反応し大気を生み出すのだが、その際にかすかな燐光を出すんだ。近くで見ると、実にきれいなものだよ」
確かにきれいなものだったが、今はそんな感傷に浸っているわけにもいかない。推進器の回転を絞りながら、できるだけ無音に近い状態で船を操縦する。宮殿の塔が見えるように回り込むと、例の尖塔の最上階に灯りを認めた。いくつかある窓の一つに、意味ありげに一隻の飛行船が横ずけされていた。
リア・ソリスはまだあの塔にいるのかも知れない!
焦る気持ちを抑えつつ、慎重に船を塔に近づけていく。飛行船の操縦に関しては遙かにキャリアの長いジョン・カーターにまかせ、私は船首側の船縁に立って誘導する。塔の基部に10メートルぐらいまで来たところで逆推進を効かせ、いったん船を静止状態にし、そこから浮揚レバーで高度を上げていく。
今夜はありがたいことに大気が安定していて、そよとした風も感じなかったので、まっすぐ素直に船は上昇していった。目的の高度は謎の飛行船のすぐ下あたり。上からは死角となって見えない位置だった。塔の表面に彫り込まれた彫刻に手が触れそうな位置を保ちながら、ゆっくりゆっくりと船は上がっていき、とうとうレバーを戻して静止させた。 上の船底から20メートルぐらいの所か。
いったん、ジョン・カーターいる操舵装置の所にいき、これからどうするかという話になったが、一人はこのままの位置で船を静止させている必要があったので、必然的に私が偵察の役を引き受けることになった。これが最後と、男同士の固い握手を交わす二人だった。徐々に船を塔の壁面に近づけていき、残り3メートルぐらいのところで制動をかける。ジョン・カーターの絶妙な操舵術のおかげで、ほとんど衝撃もなく塔に手をふれることができた。船体がふれて物音をたてないように、船縁から身を乗り出し、腕を伸ばして残りの慣性を吸収したが、その必要もないぐらいだった。
衛星の下の薄明かりの中で、親指を立てて合図した私は、壁面の彫刻の溝に手をかけると船を離れた。揺れ戻しで船が、塔にこれ以上近づかないように片足で押し戻すと、残りの30メートルほどを登り始める。はっきり言って私は高いところが苦手だった。だが、今は私以上に高貴な存在のためにわがままを言ってる場合ではない。
足がかりにになる彫刻が彫られているとはいっても、溝の深いところで3センチほどで、何とか指が入る程度だった。雨の降らない世界なのであつく埃がたまり込んでいて、気を抜くと手がはずれそうになる。登るときには目はどうしても上を見てしまうが、埃が降り注ぎ、開いていられないほど痛く、涙で視界がかすんだ。夜気にさらされた壁面は思いのほか冷え切っていて、手の感覚も鈍りがちになる。だだ一度の失敗が即、死につながる危険な登壁だった。
その昔ジョン・カーターは愛するデジャー・ソリスを救うために、数百メートルもあるこの塔を下から登ったのだ!




