10、誓い……そして…
「ここまでくれば、ヘリウムに帰ったも同然ですね。デジャー・ソリスやジョン・カーターも、さぞや心配なされていることと思いますが、大事な王女……いや、娘が五体満足で帰ってきてくれて喜ばれることと思います。疲れたでしょう。操縦を替わります」
自分がその王女を辱めようとしたことを思い出し、思い出すだけでも冷や汗が出たが、目的地が目の前に見えたので肩の荷が下りた気がした。マーズ号の操縦を引き継いだ私は、飛行艇の安定性が、ますます不安定になってることに気がついた。
船首側の第八光線タンクの破損により、極端な前下がりの姿勢を修正するため、操縦桿はほぼいっぱいまで引かれた状態だった。操縦を替わる前よりずっと悪くなっていた。たぶん、船首の第二タンクも目に見えない亀裂が入っていたのだろう。二つの月に照らされる地面からの距離は、どう見ても20メートルもない。このまま飛んでいれば、いずれ地上の障害物に衝突してしまうのは避けられない。
「リア・ソリス、かなり高度が下がっています。地面までは50アドほどの高度しかありません! このまま飛行していては、何かに衝突する危険があります。ほんとうは降りたくはないのですが、ヘリウムまでに今一度着陸して修理の必要があります」
「いたしかたありません。飛行艇に関しては、わたくしは全くの門外漢。あなたの判断にすべてお任せいたします」
バランスを崩している飛行艇を着陸させるのは、ベテランでも難しいが、ましてや今は月が照らしてるとはいえ夜中だった。徐々にスピードを落としながら、地面との間隔を測ろうとするが、月明かりの中でぼんやり見える苔むした地面は目のとらえどころがなく、距離感がわかりずらい。このぐらいの高度となると、備え付けの高度計は誤差が大きくて当てにできない。それまで空気抵抗により水平を保っていた機体は、マーズ号の速度が落ちてくるのに比例して船首が下がっていく。今や傾斜角は45度にもなっていた。
浮力を失った飛行艇は、速度がゼロになる前に、先に船首が地面につくのが早いことが予想された。このままでは、地面に船首が引っかかり、転覆してしまうのは明らかだった。一計を案じ推進力をゼロにするとマーズ号を反転させ、後ろ向きに着陸させることにした。後ろ向きになり、進行方向が見えない不安があったが、転覆して投げ出されるか、飛行艇の下敷きになるよりはまだ危険が少ないように思えた。
リア・ソリスが固定されたグリップを握って準備万端なのを確認してから、船を反転させスロットルを入れる。一気にスピードが落ち、反動で船首が少し持ち上がる。待つほどまもなく船首の底が地面をこすりだし、大きな揺れが繰り返しマーズ号を襲った。二人とも激しい揺れにほんろうされながらも、一刻も早く飛行艇が停止するのを祈るしかなかったが。永遠に続きそうな衝撃もやがておさまり静止した。ゆっくりと手足を動かしてみると、奇跡的に軽い打撲と擦り傷だけのようだった。
「どうやら、我々はまだ生きている! ですね」
そう言ってリア・ソリスにほほえむと、彼女はほっとしたように私の腕を抱きしめ、身を寄せてくるのだった。しばらく落ち着くまで、そのままの姿勢で二人は飛行艇の中にいた。最近、リア・ソリスは時折考え込むことが多くなっていたが、今もまたそんな感じだった。腕に彼女の温かみを感じながらぼんやりした時間を楽しんでいたが、やがて夜明けとなり、しぶしぶ離れなければいけなかった。
マーズ号を点検しようとカバーをはずして内部の浮力タンクを見ると、案の定、固定のための構造材にひずみができていた。無理な力が一カ所にかかっていて、その部分のタンクに小さな亀裂が生じていた。原因が分かったところで備え付けの簡易補修キットをとりだし、エポキシボンドのように二液を混ぜると固まる充填材を、亀裂部分に塗り込んだ。
もちろん補充用の第八光線などないから、これまで以上に浮力が戻るわけではなかったが、少なくとも何とか飛び続けることはできるだろう。問題となるのは、飛行艇の前後のバランスを調整しなければならないことだった。今のままでは、ヘリウムまでもう少しとはいっても、飛行姿勢が不安定すぎる。船首側の完全に使い物にならない浮力タンクを苦労して取り外し、その他いろいろな装飾品のたぐいを捨てることにした。少しでも船首側を軽くしてやれば、バランスが改善されるのではないかとの、しろうと考えと希望にもとずいていたが。
ある部品を取り外そうとしていたとき、左手の指を失った傷口を痛めてしまった。傷口が開いたらしく、包帯がみるみるうちに血でにじんでいく。あまりの激痛に顔をしかめて我慢していると、リア・ソリスが気がつき、片づけの手をとめた。
「無理をなさって傷が開いたのですね? 包帯をやり直しますから、手をこちらに」
彼女は私の手の包帯をゆっくりと開き、傷の状態を確かめると、再び革袋を取り出しマンタリアのミルクを口に含み、指の傷を優しく消毒してくれた。舌をそっと動かし、傷のまわりの汚れを丁寧に落とすリア・ソリスの顔を見つめていて、その優しさに涙が出そうだった。
その瞬間、私はリア・ソリスに本気で恋をしたのだった。
この女神にも等しい美しい乙女を、心の底から愛している自分に気がついたのだ!
リア・ソリスのためだったら、命もかけられる! と心が叫んでいた。
今までの自分は、美しいリア・ソリスにあこがれや、女体への渇望、自分一人だけの存在として所有したいという気持ちを恋とか愛だと思っていたが、それは身勝手な自分一人の思いこみだった。だが、今の気持ちは生まれてから感じたことのない、なにか大きなものだった。
新たな心境で彼女をながめると、なんと小さくもろい存在に見えることか!
自分の船を失ってから今まで、よくぞここまで生きてこれたものだと感じた。本来なら、私ごときが守る役をやるはずではないのだろうが、運命のいたずらで今はこうして二人っきりでいる。
守りたい、守ってみせる! 私は無言で、自分自身の心に偽りのない誓いをたてたのだった。
傷の消毒を終えたリア・ソリスは、旗艦より脱出したときに背中に結んだ手荷物の袋をキャビンより持ってくると、中から小さなハサミをとりだし、ジェタンの駒の入っていた革袋を切り開いた。傷口にきれいな布を幾重にも重ねて、その上から切り開いた革で包み込んだ。手に合わせて大きさを調整しながら、指をおおった革を手首で固定するように裁断していく。寸法取りに満足したようすの彼女は、再び手荷物の中よりかわいい裁縫セットを探り当てると、器用な手つきで縫い始めるのだった。そのようすを感心しながらも、質問せずにいられなかった。
「ヘリウムの王女様でも、このようなことをなさるのですか?」
針の動きを停めずに、彼女は恥ずかしそうに言った。
「本来なら、これらの針仕事は手が荒れるので厳禁なのですが、おもしろそうなのでこっそり侍女たちに教えてもらっていたのです。日々、王女としてのたしなみしか教えてもらえない身には、裁縫仕事は楽しいものでした。今ではすっかり夢中になってしまって、宮殿のわたくしの部屋にあるクッションのいくつかは、自分で縫ったものです。おそらく一族の中で縫い物ができるのは、わたくし一人だけでしょう」
そう言っている間にも指のプロテクターは出来上がり、あらためて短くなった指にかぶせ、端をひもで手首に縛ると、ぴたりとフィットした。プロテクターで保護された傷の部分をとんとんと物に当てても、焼けるような痛さは感じなかった。その出来映えに満足するとともに、私にとっては、リア・ソリスがわざわざ自分の手で縫い上げた物だという事実だけでも大感激だった。
「うわ!すばらしい!」私は小躍りしながら叫んだ。
リア・ソリスはうれしそうにほほえみを浮かべて
「これで、間に合わせになればいいのですが。今の状態では、これぐらいしかできなくて……」
手元に残った革を見ていて、なにかを思いついたようだった。苔むす地面に座って別の物を作り始めた彼女をそっとしておいて、私は飛行艇の整備に戻った。まずはキャビンの中より、不要と思われる物を探す。キャビンをすっぽりおおう透明なキャノピーを外す。それと使わないような工具類と、予備の防寒布を降ろし、床の絨毯もはがした。これで相当軽くなったはず。絶対に必要な工具類は最後尾の小物入れスペースに移動し、重心ができるだけ後方にかかるように工夫した。
操縦席ではずせる物がないかと物色していると、カーソリスが考案した自動航法制御板が目に付いた。これは航法管制をセットした座標に基づいて、飛行艇を自動操縦させるものだった。外観的には二つの座標設定ダイアルにセット用の指針がついていて、設定された値を元に航法管制装置が働き、目的地に到着するという原理のようだ。これがあれば、楽にヘリウムに到着できるのに、残念なことに透明な蓋でガードされていて、鍵がないと開けることができない。あきらめて、方位を読みとるだけで我慢するしかなかった。
一人で試乗すると、浮力調整のレバーだけでほぼ水平に15メートルほどの高さに浮くことができた。この状態で推力を加えれば、空気抵抗で揚力が増大し、100メートルぐらいは高度がとれるだろうと計算できた。これで安心して飛行することができると満足し、マーズ号をゆっくりと着地させると、リア・ソリスが高揚した表情で待っていた。
「カイ、できあがりました!」
うきうきしたようすの彼女に、ちょっととまどいながら飛行艇からおりる。
「これをかけてくださいな」
私の首に、革ひもで作ったペンダントのような物をかけてくれた。先に小さな小袋がついていた。
「リア・ソリス、これはなんですか?」
「あけてみてください。あなたのためのお守りです」
指先で袋を探ると、堅い物が入っている。中の物を手に取ると、そこにはあのリア・ソリスのジェタンの駒が入ってるではないか!
「これは、あなたにとって特別な物のはず。なぜ、私のような者に?……」
「ヘリウムの王女から勇敢な戦士に贈る勲章のつもりです。今までの功績に感謝の気持ちを表したいのですが、今手元にあるのはそれぐらいしかなくて。お守りのつもりで、大切に持っていてください」
あまりの感動で、言葉がでなかった。夢にまで見た、リア・ソリスをモデルにしたジェタンの駒が我が手に! 思いもかけぬ申し出に、駒を持つ手の震えを押さえることができなかった。
「本当に私のような者が、このようなヘリウムの宝にも値する物をもらっても……いいのですか?」
彼女は黙ってうなずいた。私は駒を目に焼き付け、袋に入れてその感触を今一度手で確かめると、王女の前にひざまずいた。
「ありがとうございます。身にあるまじき光栄の至りです。何度も言うようですが、この命はあなたの物。一生私はヘリウムのリア・ソリス王女に忠誠を誓います」
すると驚いたことに彼女は、私の前に同じようにひざまずいた。ほっそりした指が私の右手を引き寄せ、両の手で暖かく包み込んだ。
「お礼を申し上げなければならないのは、わたくしの方です。いくらわたくしがヘリウムの王女とはいえ、あなたから見たら見ず知らずの女にしかすぎません。たとえ、ヘリウムにたどり着くことができなくても、これまでなさったことでわたくしには充分です。これからも、勇敢な戦士として、良き友としておそばにいてくださいませ」
この言葉は、私の早鐘のように打つ心臓の鼓動を、さらにいたずらにかき立てるだけだったが、誓いをたてた後では、その小さな体を両の腕に引き寄せ、抱きしめることなど夢の夢にすぎなかった。
「そろそろ出発しないと……」
自分のかすれ声が、妙に遠くから聞こえてきた。このままでは、心を押さえつけられなくなると思った私は、勇気を出して小さい手をほどき、彼女の顔から視線をそらした。じっとその美しい顔を見つめていると、いつまた激情の虜になるか自分にもわからなかった。動揺した心を見透かされないように、わざと遠くを見つめる。
当てもなくさまよう目が、やがて広大な地平線の彼方におかしな影のような物が動くのを見つけた。はじめは何だろうとぼんやり見ていたが、しばらくすると新たな危険が迫っていることに気がついた。
なにかの大群がこちらに迫りつつある!
滅び行く火星の平原で、これだけの数の大群は動物とは思えなかった。食料になる草木が少ないコケだらけの平原で、動物が大群を作れるほどに繁栄することはあり得なかった。火星で唯一の動物の群は「火星の女神イサス」で語られる、ドール谷の草原に生息する不気味な植物人間ぐらいしか知られていない。ここには彼らの餌になる草などないし、ヘリウムに近いこの場所まで、住処を離れてきたとも思えなかった。それよりも、いくつかある火星人の、どれかの種族に違いなかった。
西からヘリウムにたどり着こうと飛行してきたから、一番可能性があるのは、どう猛な緑色人のワフーン族か? それとも他の緑色人か? あるいは、ヘリウムに帰還しようとしている赤色人の一団か? どっちにしろ、すぐに出発の準備をしておいた方がいいのは確かだった。
「リア・ソリス、見知らぬ一団がこちらに向かってきているようです。味方かもしれませんが、すぐに飛び立てるようにしておいた方がいい。さあ、乗ってください!」
ただの娘から、一瞬でヘリウムの王女にたち帰った彼女は、荷物を急いでまとめると飛行艇に乗り込んだ。隣に私もすぐに座り、その一団の正体が近づいてきて明らかになるのを待った。音もなく近づいてくるその集団は、みるみる大きくなり、やはりソートにまたがる大勢の緑色人だった。
「どうやら彼らは緑色人のようですが、タルス・タルカスのサーク族か、ワフーン族か見てわかりますか?」
私以上に注視していたリア・ソリスは首を横に振るとこう言った。
「残念ながら、サーク族ではないようです。あの鎧は……ワフーン族です!」
よりによって一番野蛮なワフーン族に、こんな時に遭遇するとは!
緑色人にもいろいろな種族がいるが、その中でも一番原始的で、残忍とおそれられているのがワフーン族だった。彼らに捕まったら、一片の望みもない。それに緑色人には、射程200キロもある高性能ラジウム・ライフルがある。
躊躇せずに飛行艇の浮上レバーを最大に入れた。だが、マーズ号は地面から浮き上がるようすがなかった。私の顔から血の気が引く。致命的な見逃しをしていたことに気がついたからだ。二人では重すぎるのだ! もう外せる物などないし、たとえ外せる物があったとしても時間がない。私は決断した。
「リア・ソリス、残念ながらここでお別れです。二人ではこの船は重くて飛び立てません。あなただけでも逃げ延びてください」
そう言ってシートから体を浮かせる私に、リア・ソリスは驚愕し息を飲んだ。蒼白な顔で、私にしがみついてきて叫んだ。
「お別れなんていやです! カイ、一緒にいてください。二人一緒に逃げることがかなわないのなら、わたくしもここで一緒に死にます!」
その表情は今まで見たこともないほど悲痛で、はっとするほど真剣だった。
「私はあなたに、必ずやヘリウムに帰らせてみせると誓ったのです。この誓いを守らせてください。それに私の跳躍力を持ってすれば、運良くワフーン族から逃げることができるかもしれない。心配は無用です」
そんなことができるとは、私自身、これっぽっちも思ってなかったが、そう言うしかなかった。ここで死ぬことは確かだ。
「だめです! いかないで、カイ。わたくしは……あなたを愛してます!」
なにもできないでいるうちに、リア・ソリスの華奢な両腕が私の首にまわり、この身をを引き寄せていた。羨望してやまない、彼女の赤い唇が私のそれと重ねられた。一瞬、彼女が何を言ってるのか理解できなかった私だったが、その言葉の意味が徐々に心に浸透していった。死を目前にし、二人の情熱の火は一気に燃え上がった。私は誓いを破り、彼女を両腕でしっかり抱き寄せると、激しい接吻を繰り返した。
「わたくしの族長さま……」
「私の王女様……」
二人とも、ちいさな声だったが、それで充分だった。私はリア・ソリスの愛を勝ち取ったのだ! この、地球ではふつうの男でしかないカイが、火星のヘリウムの王女、ジョン・カーターとデジャー・ソリスの娘であるリア・ソリスと恋に落ちたのだ。私にはもう、思い残すことはなかった。
彼女に動く隙をあたえず腕をほどくと、アクセルをいっぱいに入れ、同時に飛行艇より飛び降りた。マーズ号は地面の上で揺れていたが、私が降りたことで軽くなり、いっきに空に舞い上がった。
「いやです! わたくしをおそばにいさせて! ご一緒に死なせて!」
リア・ソリスの絶叫はみるみるうちに小さくなっていった。振り返ると緑色人たちはその一人一人の表情まで読みとれるまでに間隙を詰めていた。彼女が安全圏まで逃げ延びるまで、ラジウム・ライフルを使わせてはならない。私は長剣を抜き、大声で奇声を上げながらワフーン族に切り込んでいった。




