眠れる電車の王子様。
電車にゆりゆられて。
どうか、このおとがきこえませんように。
窓ガラス一枚向こうの空は、赤くゆっくりと沈んでいった。
そうしておとずれた夜は、ラベンダーのような淡い色を浮かべていた。
だれもいなくなった電車に揺られて、片隅の席にあたしたちは座っていた。
屋上であんなに眠っていたはずの彼は、気がつけばまた眠りに落ちている。
男のひとにしては可愛らしい寝息を耳元で聞き、たまに寝顔を見ては、急速に跳ね上がる胸の鼓動にひやひやしていた。
それにしても、彼はよく眠るひとだ。
ほんとうなら、もっとはやく帰ることもできる。
だけど彼が屋上で眠っているから、帰るころにはすっかり日が暮れてしまっていることが多い。
そのおかげで彼のファンの攻撃に合わないのは助かっているけれど。
でも、それはとんでもない誤解で、言い訳を挟むこともできない状態が続いていた。
ほんとうのほんとうに誤解なのだ。
あたしたちは別にオツキアイをしているわけではない。
ただの、オトモダチという関係。
たった一度だけ、かわしたキス以外にこれといって何かがあったわけじゃなかった。
掃除がなくなっても、彼はあの屋上で眠り続けていて、あたしはそれをのぞきに行っているに過ぎない。
そんなあたしに、彼は目が覚めると帰ろうと声をかけてくれる。
別に約束なんてしていないのに、いつのまにか当然のようにいっしょに帰るようになっていた。
それだけで、こんなにもしあわせで。
いつものように乗った電車の中。
いつものように彼のまぶたが下りていく。
そして、肩にすこしの重みと熱。
鼓動が、乱れていく。
あたしの降りる駅まではあと五つ。
彼の下りる駅はその手前。
寝息が髪をくすぐる。
十分ちょっとのしあわせ。
だれも見ていないからできることであって、少しだけ彼によりそって目をふせた。
血液が一気にかけめぐったみたいにどきどきするけれど、なんだか心地いい。
でも。
あたしたちはトモダチなんだから。
あたしはそれで充分なんだから。
これ以上、望んじゃいけない。
だから、どうかこの音が。
彼に聞こえませんように。
** *
そうこうしているうちに駅に近づいて、ゆっくりと電車のスピードが落ちはじめた。
よく眠る彼を起こすのはかわいそうだけれど、こればかりはしかたない。
ほんとうはもっといっしょにいたいけれど。
こればかりは、しかたない。
「もう駅につくから。起きてください」
「ん」
「ん、じゃなくて。起きて」
甘えたような彼の声に動揺してしまって、心臓が跳ね上がる。
強くいえない自分がなさけない。
いつのまにか列車はホームに入っていて、ドアの開く音が聞こえた。
「ほら、ドアが開いちゃったじゃないですか」
「……いい、今日は」
「何か、用事でもあるの?」
問いに対する答えは返ってこず、聞こえてきたのは寝息だけ。
ドアが閉まると、電車はふたたび動き出した。
次は、あたしの降りる番。
いまだ肩で眠る彼の耳元で、起きるようにうながしてもかえってくるのはうなずきばかり。
長くいっしょにいられるのはとてもうれしいけれど、今日はいったいどうしたのだろう。
ふたたび電車の速度がゆるやかになったのをきっかけに、また彼に声をかけた。
「あたし、そろそろ降りないと」
「ん」
「じゃあ、起きて」
「やだ」
むずがる子どものように、彼は甘えた声を出した。
計算しているのか、それとも素なのか、そんなことを言われてはどうしようもできない。
まちがいなく、彼がヘンだ。
今日は何かあったんだろうか。
男のひとに甘えられた経験がないあたしとしては、彼の返事ひとつでめまいを起こしそうになる。
気づかれてしまわないように汗ばんだ手をスカートにこすりつけて、静かにため息をついた。
電車がホームに入って、本格的に降りなければならない段階になった。
何度も声をかけているのに、彼はかたくなに起きようとしない。
肩に寄せられていた頭も、いまじゃ首筋に押し付けられていて、上昇する熱にたえかねるばかり。
もう、どうしていいのかわからない。
「も、降りますから……、」
覚悟を決めて強引に腰を浮かせた瞬間。
肩が軽くなったと思いきや、今度はひざに重みを感じた。
驚いて視線を落とせば、目を開いた彼があたしの手を強くにぎりしめてきた。
「帰したくない」
色素の薄い目が、はっきりとあたしを捕らえる。
動けなくなってしまったあたしの耳に、ドアの閉まる音が聞こえた。
音を上げて、動き出した電車。
きつく、握られた手。
彼の瞳のなかに閉じ込められたあたし。
鼓動が耳にいたい。
こんなにも響いて、はずかしい。
聞こえてしまわないように隠していたのに。
これじゃ、いまにも外にあふれ出してしまいそうだ。
「もう少し、一緒にいてよ」
そんなことをいわれて、断われると思っているのだろうか。
断れるわけがないのを見越して言い出したのなら、なんてずるいひとなんだろう。
もう、何もかもが熱くてしかたない。
握られた手が熱い。
頭が乗っているひざが、熱い。
見下ろした彼の顔はやっぱりキレイで、ゆっくり動いたそのくちびるにあたしは目を奪われた。
「好きだから、一緒にいたいんだ」
彼の口から飛び出した言葉によって、電車よりもスピードをあげた鼓動。
揺れはこの体の中からめまいと熱を引き起こす。
「ほら、お返事は?」
真っ赤になったであろう頬に手を伸ばされて。
あたしは、ゆっくりと口をひらいた。
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読んでくださってありがとうございます。
眠れる王子様の続編になりますが、独立した短編としてもお楽しみいただければ幸いです。
ご感想いただけると、とても励みになります。
どうぞよろしくお願いします。
(追記 2008.11.17)
加筆修正しました。
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