7.そうして、今に至る
朝日の光が満ちる部屋で、むくりとハンナは身を起こす。
目覚めの気分はいつも通り……つまり、よくもなければ悪くもない。朝は気持ちよく目覚めたいところだが、前世が始終幸せだったわけではないから仕方のないことだろう。それも今では慣れてしまったため、とくにどうとも思わなくなったが。
晴天だからか、窓から射し込む光は白光のごとく明るい。
ハンナは「んー」と伸びをし、寝台から抜け出た。そうして窓辺に立つと、爽やかな空気を取り入れようと窓を開ける。
部屋に入ってきた空気は、少し冷たいものの心地いい。その風が頬を撫で、くせのない黒髪を揺らす。ハンナは微風のこそばゆさに口元を緩め、ついで清清しい空気で自分を満たそうと深呼吸した。
顔を洗って、着替えて、という粗方の朝の準備を終え、家族の集まる一室へ向かう。
夢の中で登場したような華やかなドレスを着る機会は、今世ではない。今来ている服も、質素ながら胸元をリボンが飾るもの。しかし、ハンナは前世と今世の落差を気にしていなかった。
「おはよう」
食卓に顔を出せば、朝食の準備をする少しふくよかな母と卓で食事の時をいまかいまかと待つ熊のような父が、満面の笑みで「おはよう」と返す。ハンナにとって、当たり前の日常。だが、前世の記憶を持つ彼女には、なによりも大切な日常でもあった。
食卓の自分に宛がわれた席につくと、母が硬くなったパン、それに昨夜の夕飯の残りだろうスープを並べる。温めなおされたスープは、香りのする湯気を立ち上らせ、ハンナの空腹を刺激した。
母が椅子に座ると、やっと食事の始まりだ。
――みんなでとる食事。決して贅沢なものではないけれど、不満などなにもない。和気藹々と他愛もない話をして、冗談を言い交わす。それがなによりの調味料。
何気なくハンナは食事中、常に両親の様子を観察する。せわしなく、がっつくように食事する父。髭にはパン屑がついている。が、ハンナはそれを教えない。それは母の役目なのだ。一方、隣に座る母は下品にならない程度に、しかしながら豪快に食事をとる。母いわく、ハンナの食事のとり方は小動物のようらしい。いつも、「なに小動物みたいにちまちま食べてるんだい。そんなんじゃ、大きくなるもんもならないよ! ほら、もっと食べな。父さんを見てごらん」と言って父を親指でくいっと指しながら叱るのだ。
ちなみに、母の言う”大きくなるもん”が身長のことなのか胸のことなのか、はたまた身体全体の体型をさしてのことなのかは、大変気になるところだが、どうも食事の作法まで今世にあわせられないハンナは口を噤む。お小言を回避するためには仕方ないのである。
生まれ変わることで常識等は今世のものを身につけられた一方で、作法といった前世でことごとく教育を受け、今世では頓着する環境にない物事はどうも合わせるのが難しい。これは、前世の記憶を持っていて困る事である。
父が最後のパンの欠片を口に放り込んだのを見て、ハンナは「そうだ」と声をあげた。
自分に注目した両親に、にっこりと唇に弧を描く。
「今日、王子様のご挨拶を見に行こうと思うの。だから、ついでに城下で薔薇を売ってくるわ」
目を瞬いてきょとん、とした両親は、数拍後――母はにやりと笑い、父は顔を顰めた。
「おやおや。いつもフィロン殿下のご挨拶の日は非番だってのに……なんだい、恋に目覚めたかい。いい男だからねぇ、フィロン殿下。遅すぎる春がようやく来たねぇ」
「男は顔じゃないぞ、ハンナ。父さんが認めるにたる男じゃなければ、彼氏には認めません! いいか、父さんがこれから言うことを、よく心に留めておくんだぞ。男は心だ! 愛だ! 情熱だ! はい!」
”はい!”と言った父は、ハンナになにかを求めるように凝視してきた。ハンナが眉を寄せて首を傾げてみせると、「駄目だ駄目だ」と首を振られる。一体なにが駄目なのか。
すると、父は諭すように言った。
「復唱しろ、ということだ。このままでは悪い男に騙されかねん。さぁ、もう一度やるぞ。男は心だ! 愛だ! 情熱だ! はい!」
「…………もう行くね」
ハンナは呆れ顔でそそくさと席を立つ。
それをひきとめる父。母はあっはっは、と笑い飛ばした。飽くことのない、楽しい一家である。
朝調達された花々は、店先に並べられている。
ハンナはその中から、売れ筋の薔薇を手提げ籠に詰めていった。
「そうね、今日は――」
言いながら、指を空で彷徨わせる。
迷った末選んだのは赤と、青。その二色の薔薇だけを手にとる。
赤い薔薇は、愛の色。
青い薔薇は、奇跡の色。ハンナにとって、思いいれのある、薔薇。
今でもハンナは、アリストフォンを愛している。過去のことはいまだ苦さを帯びているものの、どうしても彼を見限れなかった。甘いのかもしれない、と思う。
父はハンナが悪い男に騙されはしないかと心配しているようだが、もう遅い。そんな自分に厭きれながらも、もう既に諦めているために自嘲するしかなかった。
食事を終えた両親が店先にやってくる。
父はまだ物言いたげだが、母が視線で制する。それに、つい噴出しそうになった。
――店は、開店の時間だ。
「ほら、行っておいで」
送り出す母の言葉に、ハンナは「行ってきます」と笑顔で駆けだした。
アリストフォンの今世 王子フィロンがバルコニーで挨拶をする日は、毎度ハンナは非番にし、城下へ足を向けることなく部屋にこもっていた。
前世の記憶がはっきり蘇るまでは城下で売り子をしていた。その後、アリストフォンが侯爵令嬢と婚約間近だと知った記憶を夢にみてから、一度たりて彼を見に行った事はなかった。
――今でも、彼を愛している。
湧き出る泉の水のごとく、いつだって溢れる恋情。痛くて切ない。けれど恋しくてたまらない。
――心の底から、愛している。
――だからこそ。
ハンナが城下につくと、そこは人で賑わっていた。老人から子どもまでいるが、妙齢の女性がとくに多い。
バルコニーから近い場所は、隙間もほとんどないほどに人で密集していた。
その場に辿りつくには些か……いや、かなりの勇気を要しそうだ。ハンナは若干躊躇しながら、唾を呑み込んで「よし!」と勇気を奮い起こし、人ごみへと突っ込んだ。
必死に身を捩って隙間をぬうことで、なんとかハンナはバルコニーの近くまで進むことができた。
丁度よい場所を見つけ、そこで見物することを決める。そうして、バルコニーを見上げた。
「本当に、また、お会いするとは思わなかった」
小さな声音は、喧騒にかき消される。
視界の至るところには、黒髪の女性がいた。これぞ、王子の書いた物語の効果。
彼女はくすりと笑声を漏らす。
(まさか、私の後を追うなんて思わなかった。しかも、呪いまでして)
アリストフォンは、魔法も魔女も信じていなかった。なのに呪いをしたのは、藁にでも縋る思いだったのだろうか。
ハンナは黒髪を一房指に絡ませ、伏せた目でそれを見つめる。
「また、この黒髪と青い瞳と付き合わなくちゃならなくなったわ」
驚くことに呪いは、前世の姿とまったく同じに生まれ変わらせた。どうせ生まれ変わるのなら、誰もが憧れる容姿で生まれたかったものだ。そも、父も母も黒髪と青い瞳を持っていない。それでも、両親はハンナを二人の子どもだと信じて疑わないのは、祖先に黒髪と青い瞳を持つ者がいたからだ。
もし、と思う。もし、誰も黒髪と青い瞳を持つ者がいない一族の母から生まれていたら。また、彼女は邪魔者だっただろう。
(本当に、厄介ね)
苦笑を滲ませた。
そんな風にして薔薇を売ることもなく思考に耽りながら、フィロンがバルコニーに出てくるのを待っていると。
隣にいた中年の男に声をかけられた。
「おー、ハンナちゃん。今日は非番じゃないのかい?」
軽快に片手を挙げて片目を瞑った彼は、花屋の常連客だ。
「たまには親孝行を……なんてね。本当はフィロン殿下を見に来たの」
ハンナの言葉に、男は涙腺を親指と人差し指でつまんで泣くふりを始める。
「うう、ハンナちゃんもなのか。うちの息子が不憫でたまらん。女の子たちにふられてばっかなんだよ。ハンナちゃんは男を顔で選ばないと思って、嫁に来てもらおうと思ってたんだがな……」
「おじさん、口がうまいんだから。仕方ない、今日は一輪おまけするわ」
だから買わない?
小首を傾げて言えば、「口が上手なのはハンナちゃんだよ」と男は眉尻を下げて口元を和ませる。
「ハンナちゃんのおすすめを十本もらおうかな。銅貨十枚だったね」
「まいど! おすすめは……やっぱりこれかしら」
ハンナは迷いなく青い薔薇を差し出す。
銅貨と薔薇を交換すると、男は薔薇の芳香を楽しみながら尋ねた。
「青い薔薇が好きなのかい?」
ハンナは男を仰ぎ見る。どこか、鋭さを秘めた眼差しに、彼は目を丸くした。
ついでハンナが浮かべたのは、心を読ませぬ笑みだった。
城下が歓声で湧く。
バルコニーに、フィロンが現れたのだ。
ハンナと男はそちらへと意識を向け、顔を上げる。
視線の先で手を振るのは、ハンナの過去の記憶と違わぬ美しい青年。
白金の髪、紫の瞳、甘い微笑に多くの乙女が魅了される。
(本当に――厄介ね)
一目見ただけで早鐘を打つ己の鼓動に、溜息を漏らす。そして頭の片隅で、危険を知らせる警鐘が鳴り響くのを、どこか他人事のように耳を澄ませて聞いていた。
今でも、確かにハンナは彼を愛している。
――でも。
(見つかったら見つかったで、仕方ないけど)
こうも、思うのだ。
(他の誰かと、穏やかな愛を育むのも、いいと思うの)
それが恋愛になるかはわからない。アリストフォンに抱く感情と同質のものを、他の誰かに抱けるとは、今のハンナには思えない。しかし、親愛ならば可能だと思うのだ。
――別に、身を滅ぼすほど愛するひとと、結ばれる必要はない。
今のハンナは、狂うほどに情熱秘めた愛よりも、穏やかな幸せを維持することを望み、求めている。
だから――アリストフォンともう一度出逢わなくても、構わなかった。
騎士の詰め所で薔薇を選ぶことになった時。”ルクレティア”ならば青い薔薇を選ぶだろうと考えたから、関係を断ち切るように赤を手にとった。――今の自分は、ルクレティアではない。ハンナなのだから。
今日、会いに来てしまったのは、矛盾だけれど。わかっていても、好きだからその姿を見たくなった。ただそれだけ。愛が通じずとも、想うだけで十分。見返りなんて必要ない。
「愛しています、アリストフォン様」
小さな小さなその声は、隣にいる男の耳にも届かぬほどに。
――けれど。
ハンナの囁きに、遠い場所にいるフィロンは弾かれるかのごとく城下を見下ろした。
ハンナとフィロンの目が合う。視線が、絡んだ。
直後、フィロンの目は驚愕に見開かれる。形のよい唇は、「ルクレティア」と確かに呟いた。
口の動きを捉えたハンナは、何気なく視線を逸らして踵を返す。
「え、ハンナちゃん!?」
それまで王子が現れるのを待っていたはずなのに、姿を見せた途端バルコニーから遠のこうとするハンナ。隣にいる男は不思議そうな顔で声をあげた。
しかしハンナは足をとめることなく、そのまま人ごみの隙間を掻い潜る。
黒い髪を靡かせて。彼女はそこから走り去った。