6.前世の夢 (3)
軽い暴力描写があります。苦手な方はご注意ください。
――世界が嫌いだった。狭い、狭い自分の世界。
きっと広い世界を知っていたなら、ルクレティアはまた違う生き方をしていたのかもしれない。
――自分のことは、大嫌いだった。
誰にも愛してもらえないのなら、自分だけでも愛そうと思っていたけれど。誰にも愛されることのない卑屈な自分を、本当は誰よりも嫌悪していた。
青年を傷つけた日から、どれくらい経っただろうか。
寝台の中、ルクレティアは朦朧とする頭で考える。
夜会の日、乱れたドレスと汚れから、ルクレティアがその場で罪に問われることはなかった。青年が命に関わる傷ではなかったことが表向きな理由となっているが、実際は彼の身分が伯爵家よりも低いことが罰せられなかった理由だろう。
それでも、醜聞になったことは間違いない。
帰ったルクレティアを待ち受けていたのは、両親からの折檻だった。あれだけ無関心だった父も、今回は母の仕打ちに加わった。
問答無用で鞭で打たれ、痛みに耐えて蹲っていたはずだ。
しかし、気がつけば寝台の上にいた。いつの間にか、気を失っていたらしい。
目の奥と頭がとにかく痛む。鞭で打たれた傷痕は、熱を孕んで痛いというよりも熱く感じた。熱した鉄棒をあてられているような感覚が、身体のいたるところでする。顔からその熱を感じないのは、唯一の救いかもしれない。ルクレティアといえど、顔に傷は残したくはないのだ。
暴力を受けた傷から菌が入ったのか、ルクレティアは高熱に幾日も浮かされ続けていた。今も、その熱が上がることはあっても下がることはない。だから、青年を怪我させてしまったことも、曖昧にしか考えられずにいる。
だがそのおかげか、両親はルクレティアに関わってくることはなかった。
体調不良で訪れた平穏というのが皮肉だが、今のルクレティアにはなによりもありがたい時間となっている。
そんな日々を過ごしていたある日、手紙が届く。
侍女に渡されたそれは、憶えのある花の香りがした。おぼろげな記憶を呼び起こそうとするものの、なぜか頭の片隅で警鐘が鳴り響き、やめる。
封を切ることも億劫で、手紙を渡して立ち去ろうとした侍女を引き止めた。
「……ごめ、なさい。目を開けているのが、辛くて。……読んで、ほしいの」
発熱は視覚に障害を与え、潤んだ視野で文字を読むのは難しい。動くことも辛くはあるが、聴覚だけ自由なのは救いか。少しの耳鳴りがするだけで、聞き取るだけならば問題はない。
侍女は静かに寝台の傍に置かれた椅子に腰掛けた。「失礼します」と断る声の後で、びりびりと封筒が破られる音、ついで、かさりと封筒から便箋を取り出す音が鼓膜に響く。
「読みますね。――青い薔薇の姫君へ。あなたが罪に問われることはありません。彼が、自分が犯そうとしたのだと証言しました。そして、謝罪も口にしています。こんなことで心が慰められることはないと思います。しかし、あなたを想うと、なにかせずにはいられなかった。勝手なことをして申し訳ありません。会いに行くことを、どうか許してください。あなたを愛しています。アリストフォン」
読み終えた侍女は、「愛されていますね」と慰撫するように言う。
ところが、ルクレティアはどこか歪んだ笑みを浮かべた。
(……どうでも、いい)
そう、心で思いながら。
罪の有無も、傷を負った青年がどう証言しようと、アリストフォンがどう想っていようと。もう、どうでもよかった。
投げやりになっていたのは確かだ。
けれど、それだけではない。
長引く高熱。下がる気配は一向にない。
日に日に体力を消耗していくのがわかる。五感すら少しずつ鈍っていくのだ。気づかぬほうがおかしい。それらと共に、心もひどく弱っていった。
自分の身体ことは、自分が一番よくわかる。
ルクレティアは目を瞑る。
(未来のことなんて、どうでもいい)
夢ですら、明るい未来を思い描けなくなっていた。それどころか、近頃では――……。
(もう、どうでも、いいの……)
自分には、未来がないかもしれないのだから。
その数日後のこと。
ルクレティアの部屋の扉が叩かれる。
「お嬢様、アリストフォン様がいらっしゃいました」
侍女の声に目を覚ましたルクレティアは、ぼんやりと思う。
(本当に来たんだ)
愛おしいけれど、同時に憎悪も抱いた。これが愛憎なのだと、はじめて知った感情に小さく笑う。今まで知ることのなかった気持ち。心はどんどん育っていくのに、黒く穢れていく気もする。
甘い疼きだけを感じることができたなら、どんなに幸せなことか。
思いながら、溜息を零した。
「お嬢様? お通ししてよろしいでしょうか?」
困惑する侍女の声。ルクレティアは掠れた声を張り上げ、今、自分にとって精一杯の声量で返す。
「だめ」
たった一言で、体力を大幅に使い果たした気がした。
(これだけで息切れするなんて……)
こめかみに玉をつくる汗を指で払う。肩で呼吸を繰り返し、身体の力を抜いた。ぐったりと寝そべり、再度目を閉じていると――扉の向こうから声がした。
「ルクレティア、入ってはいけないのなら、どうかここで語りかけることを許してほしい」
耳に心地よい声だった。心にすとん、と落ちてくるそれは、とても好ましく甘美だ。それでも、子守唄がわりにするのはいいけれど、意味を頭で考えるのは面倒くさい。返答するのも辛い。
返事をすることもなく、ルクレティアは瞑目を決め込んだ。
「――婚約は、取りやめたんだ。君のことが、頭から離れない。君のことが、好きなんだ」
どこか熱のこもった、甘い声。それも、今の彼女にはただの子守唄。
現実と眠りの狭間をたゆたいながら、ぼんやりと耳を傾け続ける。
「……僕は、男爵家の次男だから、家を出ていかねばならない。だから、君と出逢うまでは、地位を持つ女性と結婚しようと思っていた。貴族でいるには、それしか方法がなかった。ルクレティアと出逢ってからは、そんなことどうでもいいとすら思った。……でも、気づいたんだ。君と会うには、貴族でなければきっと門前払いだと。君は貴族だ。いつか、家のために他の男と結婚するかもしれないと……貴族ではない僕を求めてくれないと、思って、いたんだ。でも……。――確かに初め、君に声をかけたのは物珍しさからもあった。だが、話したことに一切嘘はない。君のどこを好きだと問われたら、どこかなんてわからない。君の存在そのものに恋に落ちていたんだ。君を愛したから、いつもなら一夜だけの関係も、ずっと続けた」
(どうでもいい)と思うのに、ルクレティアの目尻から涙が伝う。自分の震える心が憎たらしい。
アリストフォンの声が止み、少しの間があいた。一体彼はなにを口ごもっているのか。
彼がようやく紡ぎだした言葉は、緊張しているのかぎこちなかった。
「ルクレティア、貴族ではなくなったとしても、共にいてくれないか?」
真剣味を帯びた告白に、ルクレティアは青い瞳を覗かせる。これでも、驚いているのだ。
元気だったなら、ルクレティアは迷わず「はい」と答えたかもしれない。きっと涙に声を震わせながら、扉へと駆け寄って。
しかし、今の彼女にそんな体力など残されていない。
――今さら。
それが、今のルクレティアの答え。
わずかに開かれた目は伏せられて、睫毛が青い瞳に影をつくる。
「君の顔を見て、もっと……もっと、伝えたいことがあるんだ。だから――会ってほしい」
その言葉は、まるで懇願のような声音をしていた。
そして、彼はその日から毎日ルクレティアのもとへ通うようになる。
けれど、一度として彼女が面会を許すことはなかった。
日を追うごとにますます憔悴していく体力と気力。食事どころか水分の摂取もままならないのだから、当然のことだろう。
扉の外から届く言葉も、ついにははっきり聞き取れなくなっていた。
そのことを知らないアリストフォンは、返事がないにも拘らず、扉の向こうで愛を囁き続ける。
ルクレティアが最期の時も、彼は扉ごしに言葉を捧げていた。
うつらうつらと彼の子守唄に耳を傾けながら――最期に想ったのは、なんだったのか。呟いたのは、なんだったのか。
「――――」
意識が混濁していて、自分でもはっきりわからない。
ぼんやりと、まどろむように。
――ルクレティアの命は尽きた。