5.前世の夢 (2)
軽い流血描写があります。苦手な方はご注意ください。
それは、本当になんの前触れもなく。
アリストフォンは突如として、ルクレティアのもとを訪れなくなった。
ルクレティアは待った。待って待って待ち続けた。
月が昇る回数を指折り数え、萎れていく花瓶の薔薇を見つめて涙を流す。
そうしてただ待つしかできない自分にもどかしさを覚えた彼女は、ついに手紙を出そうと文をしたためる。
文を書くなど、いつ以来か。魔女だと言われて育ったルクレティアは社交の場にあまり参加していないため、顔見知りも少ない。したがって、手紙を送る相手などほとんどいないと言っていい。
手紙を綴る基本が記された本を何冊も読み、便箋に文字を連ねる。どうか、重くならないように。それでも、淡白すぎないように。
細心の注意を払って書いた手紙は、侍女に託した。
だが――その文の存在を知った母は、ルクレティアを嘲笑し、言い放つ。
「あなたに会いに来ていたフィライオス男爵家の……ああ、アリストフォンといったかしら? 彼、侯爵家のご令嬢と婚約間近らしいわよ。近頃、夜会では有名な話」
嗤う真っ赤な唇。父の心が遠のいたのは、魔女によく似たルクレティアのせいだと思っているがゆえに、母はいつだって責め、蔑む。
いつものルクレティアならば、無言を貫いたことだろう。が、今回ばかりは違った。
珍しくも彼女は動揺を見せたのだ。瞳を揺らし、口元を小刻みに震える両手で押さえ、床にへたりこむ。
母は驚くように眉を上げると、すぐに満足そうに目を細めた。
「魔女が愛してもらおうだなんて図々しい。お前は知らなかっただろうけれど、彼は多くの女性と関係を持っていたのよ。お前なんて、よくて色物、普通に考えて珍獣くらいにしか見られていなかったということ。身の程を知りなさい」
ルクレティアを傲慢に見下す、視線と言葉。
ところがルクレティアは、アリストフォンが婚約間近だという言葉で頭がいっぱいになっていた。
母の言葉は、もはや雑音でしかない。
足場が崩れるような感覚に、ただただ茫然とした。
母の言葉の真偽も、どうしてこんなことになったのかも――なにもかも、わからない。考えるほど心に余裕などないのだ。
「信じられないなら、今夜の夜会へ行くことを許しましょう。そこで、真実を知るといいわ」
それまでルクレティアが夜会へ参加することを嫌がっていた母は、自らそう口にした。娘の傷つく姿が見たいのだと、その表情が物語る。
ルクレティアは、緩々と顔を上げた。
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夜会の会場は、鮮やかな衣に身を包む参加者たちでごった返す。
その中に、ルクレティアはいた。今日の彼女は鬘をつけておらず、長く艶やかな黒髪を青い薔薇の簪で結い上げている。色味の濃いドレスと塗れ羽色の髪は、明るい会場では人目をひいた。
注目を集めようと着飾る参加者たちが多いものの、ルクレティアにとってそれは本意でない。淡い色のドレスを纏えば黒髪が際立つと考え、原色よりもさらに暗い色を選んだのだ。
しかしながら、鬘をつけないことで数多の好奇な視線を浴びるのは必至。粘つくような視線がいっそ煩わしい。
それでも、いつもに比べれば今日はそんなことも微々たることに思えるくらい、別の緊張感をより抱いていた。
常に抱く緊張は絢爛豪華な会場と、人目を気にしてという種のもの。だが、今日は――。
(……アリストフォン様)
彼のことしか、考えられなかった。
真実を知る恐怖に、心はズシリと重さを感じる。逃げたくなる自分を叱咤しながら、ふんばるようにしてそこに立っていた。
掌には、汗が滲む。
やがて、舞踏の時間を知らせる流麗な舞曲が会場に響き渡る。
視界の端々では、それに加わろうと男女が手に手を取り合う。
――母の言った噂は、ただの噂話でしかないと確認するために来た。
そんなルクレティアには、踊りの時間が始まることなどどうでもよかった。ただ首をめぐらせ、アリストフォンを捜す。
そうしていると、ふと、会場がざわめいていることに気づき、動きを止める。話題の的になりうる人物が現れたのだろうかと、興味もなく思った。
にも拘らず、それまでルクレティアに視線を向けていた者たちが別の方向へと顔を向ければ、条件反射のようにそれに倣ってしまう。
彼女も、何気なく舞踏場へと目をやった。
そして――後悔する。
それを目にした途端、呼吸をするのも忘れた。乱れ打つ鼓動、じわりと溢れ出る汗。心が凍りつくように、ルクレティアの身体までもが固まった。
「アリストフォン、様……」
ひくつく喉の奥から出た言葉は、掠れる。
視線の先には、正装をしたアリストフォンと、彼の腕に手をかける優美な女性。
頭の中が真っ白になり、世界から切り取られた場所に佇んでいる気分に陥ったが、それも耳に届く噂話に意識を持っていかれる。
「アリストフォン殿が侯爵令嬢とご婚約するという話は本当だったのか」
「女性の関係が絶えなかった方を射止めたのが、彼女だったのは納得ですわ。これで華々しいお噂はなくなるかしら」
「あら、わたくしは愛人でもよろしくてよ。あの美しい方に抱かれるならば」
くすくすと、笑みを含んだ艶冶な囁きが耳に痛い。
目にして、耳にして、初めて――ルクレティアは、母の言葉が真実である可能性を現実のものとして捉えるに至ったのだ。
(……どう、して)
なぜ、他の女と共にいるのか。
(どうして)
なぜ、他の女に優しい眼差しを向けるのか。
答えが見つからないまま、愛しい青年を見つめた。
アリストフォンは、令嬢を繊細な硝子細工のように慈しみ、接する。密着する男女の距離。二人の視線が絡めば、令嬢がくすくすと肩を揺すった。
令嬢は踊る最中、青年の耳元になにかを語りかけた。その声はルクレティアには届かない。
頬を染める彼女の仕草にアリストフォンが小さく頷くと、舞曲の終了と共に二人は舞踊の輪から外れていった。
取り残されたような、見捨てられたような、裏切られたような。心に芽生えたのは、痛嘆と憎悪、そして身を引き裂かれるほどの切なさ。
不意に、母の言葉が蘇る。
『あなたに会いに来ていたフィライオス男爵家の……ああ、アリストフォンといったかしら? 彼、侯爵家のご令嬢と婚約間近らしいわよ。近頃、夜会では有名な話』
(――だから、私のもとへ来なくなったの?)
『魔女が愛してもらおうだなんて図々しい。お前は知らなかっただろうけれど、彼は多くの女性と関係を持っていたのよ。お前なんて、よくて色物、普通に考えて珍獣くらいにしか見られていなかったということ。身の程を知りなさい』
(――魔女と呼ばれる娘より、やっぱり……。ああ、だから、愛を意味する赤い薔薇を、一度もくれなかったの?)
疑問ばかりが浮かぶ。涙を堪えようとすれば、戦慄くように唇が震えた。
独り自問自答を繰り返す彼女の存在を知らないアリストフォンと令嬢は、庭園へとおりていく。
佇むルクレティアは、視界から二人が消えたことに慌て、急いで庭園へと後追った。
夜の帳がすっかり下りたそこは、夜会の中盤ということもあって密会中の男女が見受けられる。彩な花咲く庭園での逢引は、さぞや夢物語に浸るように情緒的なことだろう。
こそばゆいほど甘やかな耳を掠める耳語の中、身体を反転させながらルクレティアは二人を捜す。
夜会にあまり参加しないルクレティアといえど、庭園が艶事の場であることなど知っている。ゆえに、女が単身でいれば危険であることも、理解していた。理解していたが、心と身体は一致せず、アリストフォンのことが心を占めていたから、なにも考えぬままに庭園におりた。
(まだ、近くにいるはず)
どこかから喘ぎ声が聞こえる。咄嗟に恥ずかしさが募り、ビクリと身体を縮こまらせた。こんな時、場違いだと実感する。
――もしかしたら、誰かの情事を目撃するかもしれないと思いながら。どうしてこんなことになったのだろうと考えながら、それでも必死に視線を彷徨わせた。
そうして、少し奥まったところまで来た時。
背後から声をかけられた。
「――君、ルクレティア嬢?」
振り返れば、赤茶色をした短髪の青年がすぐ後ろにいた。見ず知らずの男だった。
ルクレティアは肩を震わせ、一歩後ずさる。
そんなルクレティアの様子を気にした風もなく、青年は彼女の黒髪に手を伸ばす。
青年の意図が読めず眉間に皺を寄せて行動を見守っていると、その手は髪を撫でた。
「……っ! なにを――」
「う、わ。本当に黒いんだ。染めてるんじゃなくて」
青年は物珍しそうに目を丸くし、黒髪から耳を辿り、うなじへと指を滑らす。同時に、ルクレティアの背筋に、冷たいものが走る。
身の毛もよだつ恐怖に助けを呼ぼうとしたが、喉が引き攣り声を紡ぐことができなかった。
震えながらも意思表示しようと顔を背ける、と。
少し離れた茂みの傍に――アリストフォンがいた。侯爵令嬢を伴って。
「アリストフォン様……っ」
ようやく出た声は安堵に震え、視界は歪む。彼は、驚くように目を瞠り、すぐに柳眉を顰めた。
確かに、彼の、紫の瞳と目があった。あった――のに。
アリストフォンはルクレティアを一瞥し、侯爵令嬢の腰に手をやって踵を返す。
「……え?」
どうして、助けてくれないのだろう、と。内心首を捻る。
瞬く目から涙が零れ、頬を伝う。
「どう……して……?」
その掠れた声に答えたのは、ルクレティアの髪を弄ぶ青年だった。
「もしかして、知らなかった?」
ルクレティアは眉を寄せ、青年を見上げる。視線に応じるように、彼は言葉を続けた。
「君との関係は、彼にとってただの遊びさ。だって君、伯爵令嬢だろ? 彼は地位と権力を強く求めているから、結婚するなら高位貴族の女性だよ。……今まで彼は、愛人でもいいって言う女性ばかり相手にしてきたから、君もそうだと思っていたんだけど」
瞬間、ルクレティアが思いだしたのは、会場で耳にした色めいた女の声。
『あら、わたくしは愛人でもよろしくてよ。あの美しい方に抱かれるならば』
(あの言葉は。――それを意味していたの?)
ぼやけていた輪郭が鮮明になるように、それまで母に言われただけで確信するには欠けていたなにかが、あるべき場所に嵌っていく。
「案外彼も遊び下手なんだな」
青年は肩を竦め、ついでルクレティアを見下ろした。
「彼を、忘れさせてあげようか?」
その声は確かにルクレティアの耳に届いていたのに、意味を咀嚼することができなかった。ただただアリストフォンが去って行った方を見つめ、涙を流す。
それも辛くなり、俯けば。
首肯したと思ったのか、青年はルクレティアの手首を掴んだ。そうして、彼女は庭園の茂みへと引きずられるようにして夜の暗がりへと消えていった。
人目から身を隠すように植えられた植物の壁は、夜ゆえに闇色に染まっている。その枝木に咲く淡い色をした花は確かに浮かんでいたのに、今のルクレティアには気づくこともできなかった。
(すべて、すべて偽りだったんだ)
目尻から、また一筋涙が流れる。
けれど茫然と意識を遠くへ向けるルクレティアを気にすることなく、青年は彼女の首筋に顔を埋めた。
(私、は……)
首筋を這う感覚。
知っていたが、ルクレティアの求める青年が与える感覚ではない。
胸元へと辿る熱は、否応なくアリストフォンと愛し合った夜を思い出させた。ともすれば、拒絶が口から出る。
「嫌ぁぁぁっ!」
青年は驚いたように顔を上げ、舌打ちする。
拒んだ彼女が身を捩ることで、二人は地面に倒れこんだ。
地に芝は敷かれていたが、ドレスは土に汚れる。庭園に咲き乱れる花の香りも、今のルクレティアの心を落ち着かせることはなかった。
「やだ、やめて、はなしてっ」
泣きながら青年の身体を押す。しかし、青年が彼女を解放することはない。
青年は、「黙れ!」と声を荒げ、絞めない程度に片手で彼女の首を圧迫した。
それに怯えて動きをとめたルクレティアに、青年はにやりと、笑みを向ける。彼の瞳は蛇のように、獲物を狙う目をしていた。
ルクレティアは震える。怖いと、思った。怖くて怖くて仕方がなかったけれど――アリストフォンが助けてくれることはないと、知ってしまったから。どうしていいのかわからない。
「やだぁ……」
しゃくりあげながら、ただ身を強張らせ、手で青年の服を掴む。引き剥がそうとしているのに、彼女の力など微々たるものだった。
男の大きな手が、身体のいたる場所を弄る。耳元の吐息は、徐々に荒くなっていく。
「魔女は、王を誑しこんだんだっけ。だったら、君もさぞやいいんだろうな」
青年の言葉。
それまで泣くばかりだったルクレティアは、突如抗うことをやめた。頭のどこかが麻痺する感覚は、心の働きも停止させたように感じる。
そうして、犯されるしかなくなった彼女は――なぜか、嗤いたくなった。
(ああ、そっか。だからアリストフォン様は私を抱いたんだ)と、どこか納得する。
王を操るほどに魅了した、魔女。ルクレティアもそうなのだと、思ったのかもしれない。
(そっか……。そうなんだ……)
アリストフォンは、魔法も魔女も信じていないと言ったけれど。
(口先でなら、なんとでも言える)
嘘など簡単なのだ。ただ言葉を連ねるだけなのだから。
そう思い至れば、心は次第に冷めていき、他方頭では青年を抗うことを考えはじめる。
青年は、ルクレティアの身体に夢中で、動きに気を向ける様子などない。
今だ、と彼女は思った。
おもむろに、黒髪を束ねていた青い薔薇の簪へと手を伸ばし。――そうして、引き抜いた。
――刹那。
庭園に、男の悲鳴が響き渡る。
手首から血を流し、蹲る青年。
はだけたドレスを直すこともなく、起き上がる娘。
その手には、血にまみれた簪を持って。
さらさらと、解かれた黒髪が風に揺れた。
血のにおいも共に、風にのる。
「痛い……痛い……誰か、誰か――っ」
悲痛な声も、ルクレティアにはただの騒音。
緩慢に青年へと視線を向ければ、青年は大量の涙を流し、ルクレティアを睨みつけていた。
「この……魔女がぁ!」
その叫びにも、ルクレティアは目を細めただけだった。
駆けるような足音が近づいてくる。青年の悲鳴で誰かが異変に気づいたのだろう。
だが、ルクレティアは逃げるつもりも隠れるつもりもなかった。
手に握る加害者の証も、捨てることなく。
べたべたと滑る、血にまみれた手を拭うこともなく。
ルクレティアと青年の傍で、足音は止まる。
「――ルクレティア!?」
現れた男はなぜか血を流す青年のもとではなく、彼女のもとへ駆け寄った。跪いた気配の主は、直後ルクレティアの両肩を掴む。
「これは……なぜ、ドレスが乱れている……?」
その声は、アリストフォンのもの。今、ルクレティアの肩を掴んでいるのも彼のようだ。
確信できないのは、ルクレティアがその姿を見ようとはしなかったから。
紅に染まった青い薔薇の簪を握る手に、アリストフォンのものが重ねられる。
その時、今度は女の悲鳴が耳をつんざいた。
横目で視線をやれば、アリストフォンの後を追ってきた、侯爵令嬢のものだと知る。
相次いで現れる人びと。そのうちの幾人かが、赤茶髪の青年の手当てを始めた。
「ルクレティア、なにがあったんだ?」
アリストフォンの問いに、ルクレティアは嗤った。
(あの男と、庭園にいたことを知っていて、それを問う?)
「ルクレティア」
まるで心から心配するような声色。でも、ルクレティアの凍り始めた心を溶かすことはない。
(目が、合ったじゃない)と。ルクレティアは心の中で独り言。
「ルクレティア」
「……もう、どうでも、いい」
ルクレティアは、呟いた。