4.前世の夢 (1)
前世の記憶は、ハンナが成長すると共に色濃くなった。
ルクレティアの成長を夢として見はじめ、それが不思議でもあり、彼女にとっては当たり前のことでもあった。成長過程を夢見ることで、かつて生きた異国の言葉を自然と覚え、夢の続きを支障なくみることができる。
それが楽しかったのは、いつまでだっただろうか。
魔女呼ばわりされる少女の容姿が、いつだって等身大の自分と同じ姿をしていると気づいたのは、いつだっただろうか。
夢を、前世と結びつけたのは――。
(……ああ、そっか。幼いフィロン様を一目見た時だ)
彼がアリストフォンだと、信じていた。最初は似ているだけかもしれないと思いもしたが、彼を今も愛していると自覚すればなおさらに、それは確信に変わる。さらに、フィロンはたくさんの手がかりをくれたのだ。
もはや信じない理由などなかった。
ハンナは今夜もかつての記憶を彷徨う。
夢の中、結末を知る物語を読むように。
+ + + + + + + + + +
そこは、大国だった。
貴族たちは周辺国をも影響及ぼす権力を有し、したがって誰もが更なる力と地位を求める。
夜会は、己の地位を磐石にすべく繋がりを求めるには最適な場所であった。
しかし、ハンナの前世――ルクレティアが夜会に参加することは滅多にない。ハンナの母が、彼女を人前に出すことを嫌ったのだ。
貴族の令嬢といえば、女といえど家の道具。そんなことは常識で、ルクレティア自身覚悟していた。だが彼女は、幸か不幸かその役目すら奪われていた。
参加が許されたのは、年に数度の大規模な夜会のみ。いくら人目を気にする母といえど、高位貴族主催のそれに家族が欠けることは体裁がよくないと判じていた。
だからルクレティアは、数回の夜会の際には鬘を身につけることを義務付けられる。染め粉では、もとが黒髪と色味が濃いため、染めるのに限界があった。
母がルクレティアに、子守唄がわりに聞かせた言葉がある。
『黒い髪は魔女のもの。青い瞳は魔女の薔薇』
――その言葉は、まさにルクレティアの容姿をそのままに表す。その国の御伽噺。
昔、王がいた。
彼は、知らず魔女を娶った。
魔女は、青い薔薇の種を携えていた。
王は魔女に操られ、愚王となった。
国の荒廃とは逆に、魔女の植えた青い薔薇は成長した。
国の益を魔女が魔法で養分に変え、青い薔薇に与えていたのだ。
やがて魔女は国を想う者に討たれる。
魔女の死に絶望した王は、魔女の青い薔薇の蔦を彼女の手首と
己の手首に巻きつけ、命を絶った。
魔女の青い薔薇に、来世での逢瀬を願って。
この御伽噺に登場する魔女の瞳が、青かったという記述はどこにもない。ところがルクレティアの母は、娘を魔女だと信じて疑わなかった。
母を省みず、愛人のもとへと足繁く通う父のせいだと。母は、自分ではない誰かのせいにしなくては、心を保てないのだと。年老いた使用人は嘆いた。もともと母は世間知らずのお嬢様で、父はそんな母の実家が名家であるために口説き、支援を求めて結婚した。それを、母は結婚してから知ったのだという。
同情すべき点はある。
けれど、ルクレティアがその感情を抱いたことなかった。
母の事情で邸から滅多に出られず、魔女と罵られる日々。
生んでくれと誰が頼んだ?
こんな容姿で生まれることを、ルクレティアがいつ望んだ?
恨みにも似た想いが心の底に沈殿していくのだ。
それでも、母の言葉は多くの者の言葉なのではないかと、どこか不安を抱く。ただの母の妄言だと心の中で強く反駁しているのに、否定しきれない。それは、母以上に外の世界を知らないから。
ルクレティアの世界はあまりに狭かった。世間知らずは彼女も同じ。だからこそ、劣等感を抱き卑屈になる。
久しぶりに参加した夜会は、光を遮るために手をかざし、目を細めたくなるほどに眩い。
絵画の描かれた、円蓋から吊るされるシャンデリア。点在する燭台は、会場の細かな気遣いを程よく照らす。
その会場の、象牙色の壁に背を預け、ルクレティアは場内を見渡した。
大きな宝石を身につけた淑女。髪を上げ、胸元の開いたドレスを纏う彼女らは、妖艶さで男たちの視線を集める。
髪を後ろに撫でつけ、完璧な動作で品のよい貴族と想わせる紳士。女性を慮る立ち居振る舞いで、彼らは女たちを魅了する。まるで、各々が主役だと言い張るように。
煌びやかな会場にもまったく遜色のない、彼らの洗練された姿。そして、会場のどこにも黒髪がいないという事実。それらにルクレティアは、劣等感と疎外感を抱く。
母に魔女と呼ばれる容姿への侮辱は彼女の妄言だと思っていたが、真実なのかもしれない。
それでも、自分くらいは自分を愛そうと思っていた。だから、今は鬘で隠している黒髪も愛したい。
(もし、そのままの私を愛してくれるひとがいたなら――)
きっと自分を愛せると、ルクレティアは信じていた。
もやもやとした暗い感情が心に渦巻くのを感じ、夜会の場で負の感情を駄々漏れしないよう慌てて深呼吸する。しかし、空気は変に温かく、心が健やかになることはなかった。
結局、逃げるようにしてテラスへと向かう。
外の空気は、会場とは違い少しばかり肌寒い。
ルクレティアにとっては、身体にこもった熱を逃がすのにちょうどよかった。落ち着く心に笑みを零す。
会場から漏れ聞こえてくる喧騒の中に、艶麗な音楽がまじる。どうやら、踊りの時間が始まったようだ。
だからだろうか。今、テラスにはルクレティアしかいなかった。
夜会でもまだ序盤。そんなこともあり、薔薇の咲く庭園にも人はほとんど見受けられない。
人気のないことに安堵し、手すりに両肘をついてのんびり庭園を眺める。
宵闇の庭園は、様々な品種の薔薇が植えられていた。赤、白、黄色。ルクレティアの瞳の色と同じ、青い薔薇もある。
無意識のうちに、片手を目元へとやっていた。
「……魔女の、青」
そう呟き、目を伏せた時。
摘み取られた一輪の青い薔薇が、目の前に迫っていることに気づく。
驚き目を見開けば、青い薔薇が横へとずらされ、青年の顔が間近に現れた。
突然現れた青年。続く驚愕に口をあんぐりと開け視線をおろすと、テラスと庭園との段差で、青年の顔がルクレティアの視線より少しばかり下にあることに気づく。呆けていたルクレティアは視線を遠くへ向けていたために、視線より下にいた彼の存在に気づかなかったようだ。
青年は、夜闇の中にいても光を放つように浮かんで見えた。会場からこぼれるわずかな明かりが、青年の容姿を定かにさせる。
くせのない白金の髪、宝石のような紫の瞳の、甘い顔立ち。品格を備えた一挙一動には、目を奪われる。神の芸術とも言える容姿なのにどこか好奇心を秘めた瞳は、大人である彼をどこか幼く見せた。
彼は感興をそそられたのか、首を傾げて白金の髪を揺らす。
「青い薔薇は嫌いかな?」
ルクレティアは虚を衝かれ、口ごもる。それでも質問を取り消さない彼に、嘆息して返答を決めた。
「それは、私の瞳の色を知っていておっしゃっているのですか?」
言外に”嫌味ですか?”と意味を含ませ言えば、彼は無邪気に笑った。
「僕は青が好きだからね。君の瞳、きれいだな、と思って」
にこにこと、子どものように。
つい毒気が抜かれそうになるが、ルクレティアの脳裏に過ぎったのは、母の言葉。
『黒い髪は魔女のもの。青い瞳は魔女の薔薇』
もし、瞳の色が青いだけならば、ルクレティアも青年の言うように思ったかもしれない。しかし、彼女は髪も魔女の色をしていた。
白金の髪と紫の瞳を持つ、美しい青年。彼は、ルクレティアの劣等感を知らない。おそらく、この先の人生でも知ることはないだろう。
八つ当たりのような感情が昂り、手すりに置く手に力がこもった。
「……魔女の、青でも?」
自虐のように言葉を紡ぐ。
青年は、頷いた。
それに――苛立つ。
今まで、ルクレティアは同情されることが多かった。邸の使用人から、知人から、多くの人から。その同情に煩わしさを感じることなどしょっちゅうだ。だが、魔女の特徴のどれも備えない人間が、のうのうと『魔女の青が好きだ』と言うのはもっと腹が立つ。
(なにも、知らないくせに)
――興味本位で他人の心を暴かないで!
その心を代弁するように、ルクレティアは己の鬘を鷲掴む。「え」と青年が目を丸くするのと同時に。
ルクレティアは勢いのままに鬘を外した。
現れたのは、今までそれに纏められていた黒髪。さらさらと、ルクレティアの背に流れる。
呆気にとられたままの青年に、ルクレティアは皮肉げに口角を上げる。これで失言に気づくのだろうと、どこか驕った思考をもって。
しかし、青年の反応は違った。
彼は、楽しそうに目を細めたのだ。
「……なんで、笑っているの」
自分が惨めに感じるのはなぜだろう。ルクレティアの目頭は熱を持ちはじめる。悔しさか、羞恥か、それともその他の感情ゆえか。ルクレティアにはどの感情によるものなのかわからない。
ただ、これだけはわかる。
今、自分がしている行為は、どういう意味を持つのか。母が知れば怒るだろう。父は無関心だから、きっとなにも言わない。自分は――どうしてこんな行動をとったのか。
心が揺れる。それを反映するように小刻みに震えれば、青年は優しい声音で囁いた。
「好きだよ。魔女の青い薔薇も、その瞳も、黒い髪も」
視線を逸らすことなく、真摯な双眸が瞠目するルクレティアを射貫く。彼は、そのまま言葉を紡いだ。
「僕は、あの魔女と王の御伽噺が好きなんだ。……君は魔女を悪しき者だと思っているかもしれないけれど、もし、王が賢王だったなら、きっと彼女は聖女と言われていただろうね」
「でも、魔女が王様を操ったって、物語では……」
「僕は魔法も魔女も信じていない。この目で見たことがないから。君は、ある?」
突然の問いかけに、ルクレティアは咄嗟に首を横にふる。何度も魔女と言われたが、呼ばれたルクレティア自身、魔法など使えないし、見たこともなかった。――証拠のないそれを、どうして信じてしまったのだろう、と今更ながら思う。
「ね?」と髪を揺らした彼は、「――でも」と言葉をついだ。
「魔女と王の恋は悲恋だったけれど、彼女たちの最期が嫌いじゃないんだ」
ルクレティアは青年の言葉を吟味するように、二人の最期を思い描く。
――魔女は、殺された。……王は、魔女と来世で逢うことを願い、青い薔薇の呪いを施して後を追った。
どこか惨くて、悲しい結末だと思った。しかし、彼は違う感想を持ったようだ。
「どうして?」と首を捻ると、青年は切なく目を細めた。
「魔女に恋した王は、きっと神の意思に背いただろう。でも、神の定めた運命に逆らって、たとえ魔女の育てた魔法の青い薔薇を利用したとしても――愛を貫いて来世での逢瀬を願ったなら、悪いことだと思わない。神の運命を捻じ曲げたのだとしても、彼らは相応かそれ以上の強い気持ちを持っていたのだから」
ルクレティアは動けなかった。
目から鱗。まるで違う価値観。そう考えることができたとしたなら、ルクレティアはどんなに母から魔女と罵られても、傷つくことはなかっただろう。
(……こんなひとに、もっと早く出逢いたかった)
そうしたら――。
さっき、ルクレティアが感情のままに鬘を外したのは、罪悪感を持たせ、黙らせようと思ったからだ。黒い髪と青い瞳を見たら、誰もが憐れみ、蔑み、近寄らないと思ったから。
しかしその行為の真相は、ルクレティアの本音を表すものだった。
――一番ルクレティアを侮蔑し、貶めようとしていたのは、誰だったのか。
――それがルクレティア自身だと気づいた瞬間。
ルクレティアの頬に幾筋もの涙が流れる。
自分を愛そうとしていた自分自身が、真っ先に刃を向け、嫌悪していたのだ。
嗚咽を漏らしそうになるけれど、青年がいるから声を押し殺す。それに気づいたのか、手すり越しに抱き寄せられた。
今まで知ることのなかったぬくもり。彼のつける香水なのか、心凪ぐ香りがした。
異性の力で青年の首もとに顔を押しつけられる。頭を撫でられれば、涙も声も抑えられなくなった。
逢ったばかりの青年。
けれど。
――彼にどんなに救われただろう。
やがて涙が枯れる頃、青年はルクレティアの耳元で甘く囁く。
「青い薔薇、受け取ってくれるかな?」
ルクレティアが顔を上げれば、先ほどの青い薔薇が差し向けられる。
「――今宵、君と出逢えた奇跡に」
――ルクレティアに拒む理由はなかった。
人生で初めての歓喜に破顔させ、薔薇を受け取る。
刹那に、空いていたもう片手が青年のそれに絡めとられたが、それを拒む理由も、またなかった。
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青い薔薇の青年は、自らをアリストフォンと名乗った。フィライオス男爵家の次男だと言う。
ルクレティアの生家は伯爵家であるが、跡を継ぐのは男兄弟であるために、彼を養子に迎えることはないだろう。
出逢った夜から、ルクレティアとアリストフォンは逢瀬を重ね、閨を共にした。
伯爵家の住人が寝静まる深夜、アリストフォンは忍んでルクレティアの部屋に訪れる。邸の警備をしている使用人には彼の来訪を予め知らせているため、これまで夜這いが失敗したことはなかった。
無事入室を果たした青年は、すぐにルクレティアを寝台に押し倒すことはない。しばらく言葉を交わし、互いの情報を引き出す。そう聞けばまるで駆け引きのようだが、真実はそうではなく、ただ他愛もない話をすることで、夜会では知ることのできない恋人そのひとを知る機会になるのだ。
そうして、どちらともなく寝台へと向かう。
寝物語で、アリストフォンは何度も「愛している」と甘い睦言を囁く。その言葉に、どんなにルクレティアの心が震えたか、彼は気づいているだろうか。
照れて赤く染まった頬を隠そうと青年の背に腕をまわし、むき出しの胸板に顔を寄せ、ルクレティアはいつだって「私もです」と小さく呟く。常に精一杯で、人肌のぬくもりを知らない彼女にはそれしかできなかった。
――魔女と呼ばれ、邸からあまり出ないルクレティア。彼女にとって、アリストフォンは初恋のひとだった。
何よりも大切で、会えない夜など考えられないくらい愛おしい。胸の内を満たすのは、すべてを投げ出しても構わないと思うほどの恋心。彼が幸せになるのなら、自分の何をも捧げられると思うのに、彼を誰かに奪われるのなら、自分がすべてを奪いたいと思うほどに、恋に狂っていた。
他のなにも見えなくなるほど盲目に、彼女はアリストフォンを愛した。
――けれど。
朝、目が覚めれば、アリストフォンは寝台から消えている。毎回だ。……まるで愛し合ったことが夢か幻だったかのように。それでも現実だったとわかるのは、彼は青い薔薇を一輪残していくからだ。
その薔薇を、ルクレティアは花瓶に活ける。ともすれば、一日ずつ増える青い薔薇は花瓶をいっぱいにした。
アリストフォンとの出逢いは、ルクレティアの世界を彩った。彼女は”幸せ”だと、心の底から思った。――しかし、その幸せは長く続かない。