2.花売りの娘
小さな国の城下町。街の象徴である尖塔と薔薇窓が特徴的な城の裾に広がるそこは、いつだって活気付いていた。
人気の多い通りには店が立ち並び、歩む人の気を逸らせることもしばしばである。
そんな石畳の道脇で、ハンナは花を売っていた。
花を売る、といっても、身体は売らない。ハンナの家は家族経営で花屋を生業としており、両親は店番をしているため、彼女は売り上げが少しでも伸びるよう人通りの多い道で売り子をしているのだ。
「花はいかがですかー。瑞々しい薔薇はいかがー。赤、白、黄、青まで色とりどり揃えておりまーす」
声を張り上げながら、ハンナは視線を城へと移した。
城のバルコニーでは、王族の一人が手を振っている。
ハンナは記憶を弄り、手を振る主が誰だったか考えた。
(えぇと、昨日は第一王女様だったから……今日は第二王子様だっけか)
その国では、王族が定時にバルコニーから手を振り、挨拶をする風習があった。複数の民族が集まり、はじめは揉め事もあったようだがそれも今では久しく、現在はまるで最初から一つの民族だったかのように一丸となっている、平和で小さな国ゆえに可能な習わしだろう。
城からすぐの城下町といえど、バルコニーからの距離は遠い。とはいっても、城の高さはそこまでなく、全体で五階建てほど。王族が手を振るバルコニーはその中腹であるから、はっきりとは無理でもおおよその顔立ちくらいは判別できる。
くせのある鳶色の髪を風に靡かせながら、どこか憮然と手を振る青年。噂によれば、彼は心根は優しいらしいが、不器用で素直になれないらしい。そこがまた母性本能をくすぐるのだというのは、花屋の常連客女性の言葉である。
ハンナは肩を竦める。拍子に、片側に寄せて束ねていた黒髪がするりと背に流れた。
王族の挨拶は一日一人、日替わりだ。
定時、バルコニーから手を振る王族を一目見ようと、街の者は集まる。その時機がハンナにとっての稼ぎ時。とくに、近頃では若い未婚の王子が挨拶の日は、乙女たちが花を購入してくれる。
「青い薔薇、一輪くださいな」
声をかけられる。ハンナは反射的に声の方へと顔を向けた。
小洒落た装いの、年若い女性が紅色の唇に弧を描く。
「青い薔薇ですね、銅貨一枚になります」
確認するように復唱し、手に提げていた籠から青い薔薇を一輪差し出した。
女性は布財布から銅貨を取り出すと、薔薇を受け取り艶やかな黒髪を揺らす。
「あなたも黒髪ね」
ハンナは銅貨をポケットにしまい、笑みを返した。
「流行ってるみたいですね。やっぱり、例の物語の影響でしょうか? 偶然か必然か、青い薔薇も最近よく売れるんです」
女性はふふ、と笑った。
「やっぱり、みんな考えることが同じなのね。わたしの髪、染めたのよ。染め粉で」
「そうなんですか? もったいない」
「あら。じゃああなたの黒髪は天然なのね。……あの物語の姫を真似したくなるくらい、素敵なお話だもの。髪を黒くしたら、それを書いた方の目にとまるかもって、期待したくなるじゃない」
「ああ、明日のご挨拶はフィロン殿下でしたね」
「だから、明日に備えて気合いれようかと思って」
そう言い、「素敵な薔薇をありがとう」と言葉を残して女性は衣を翻した。
ハンナは籠に視線を落とす。
気がつけば、青い薔薇は完売していた。残るは赤、白、黄。もともと黄色はあまり売れないため期待していなかったが、青が売れるかわりに赤がめっきり売れない。
(こんなことなら、青い薔薇だけ持ってくるんだった)
肩を落とし、それでも青い薔薇が完売してくれただけよかった、と思いなおす。
(まさに、フィロン様様ね)
ハンナは再度バルコニーを見上げた。
明日、あのバルコニーから挨拶する、第三王子フィロン。
近頃、乙女たちが青い薔薇を買い求めるのは、彼が書いた物語に起因している。
――半年ほど前だろうか。
フィロンは自筆の物語を突如発表した。まさか王族の、しかも王子が恋愛物語を出版すると、誰が思っただろうか。驚いたのは、少数ではないはずだ。
王子が手がけた、ということもあり、話題にのってその本は城下でも売り出された。そしてそれは瞬く間に売れ、今や空前の大当たり。
その本を、もちろんハンナも読んだ。自身と同じ黒髪がどんどん増え、売る青い薔薇が売れれば気にならないはずがないのだ。
――物語は、悲恋だった。
ここではない、ある国。
魔女と呼ばれる、黒髪と青い瞳を持つ美しい姫がいた。
下位貴族の青年は、彼女に恋をした。姫も、彼に恋をした。
けれど、青年は別の、高位貴族の女性と婚約しようとしていた。
権力のために。
姫は嘆き悲しんだ。
やがて、青年は姫への愛を断ち切れず、婚約の話を白紙に戻す。
そうして姫に会いに行った。
しかし、時既に遅し。
青年が会いに行った時、姫の命は尽きていた。
青年は姫の亡骸を抱き、絶望する。
思い至ったのは、来世での逢瀬。
青年は呪いを施す。
姫の手首と己の手首を手錠のように紐でくくり、一輪の青い薔薇をそこに添え。
それは、古くから伝わる青い薔薇の呪い。
来世で、また出逢い、今度こそ結ばれるための――。
青年は、その呪いにすべてを託し、短剣で自害した。
この物語を読んだ時。ハンナは驚愕し、言葉を失った。
すぐに本の題名を確認し、確信する。
『青い薔薇のルクレティア』
美しい王子が書いた、悲恋。
人気商売を営むがゆえに、なにか参考になればと読んだのだ。
――なのに。
それからすぐに、城下で耳にした噂。
第三王子が、物語の姫を捜しているのだと――。
黒髪と青い瞳を持つお姫様。ルクレティアという名の、お姫様。
多くの者は、夢見る王子に呆れ、嗤うだろう。
だが、ハンナの心は震えた。
――ずっと、ずっと愛しているひとがいる。彼は記憶の中でしか逢えないけれど、それでも構わなかった。薄れることなく、愛おしいと思う。
ハンナはバルコニーを見つめたまま、目を細める。
「……あなたはすぐ傍にいたのですね、アリストフォン様」
アリストフォン――それは、ハンナが持つ、前世の記憶の中で愛した男の名。
ぽつりと呟かれた言葉は風にさらわれる。
(まさか、またお会いするとは思わなかった)
第三王子フィロンの書いた物語。
それは、まさにハンナの前世の記憶とほぼ同じであった。
前世の彼女はルクレティアという名があるにも拘らず、魔女と呼ばれた。そして、若くして命が尽きた。
初めてフィロンの挨拶を目にしたのは、どれくらい前だろうか。確か、まだ互いにもう少し幼かった頃。城下での花売りをはじめた年。
ハンナは幼いフィロンを一目見た瞬間、目を瞠り固まった。確かに彼がアリストフォンだと思いながら、心の片隅では、もしかしたら他人の空似かもしれないと自信に欠けていたのだ。しかし、フィロンの書いた物語が、ハンナに確信させた。
現代の人びとが知るはずのない、前世のフィロンとハンナの物語。ただの偶然と言えるだろうか。
前世のフィロンとハンナは、こことは違う国で生きていた。今世で花屋の娘として生まれ育ってきたハンナには、一体それがどこの国のことなのかもわからない。街の古書店でちらりとそれらしい本を探してみたが、記憶と一致するものはなかった。
それでも、自分の知る国ではないといえるのは、言語や建築物の造りが違うからだ。顔立ちは似たり寄ったりで、フィロンもハンナも前世の生き写しのような容姿をしているが、文化は確かに異なる。
そんなどこかもわからない国が舞台で、来世に委ねる呪いや登場人物の名前をはじめ、なにからなにまでそのままなのに、偶然だとはハンナには思えなかった。偶然だとしたならば、むしろこれが運命なのだといえよう。
本の末尾に添えられた、『今の時代を生きているだろう最愛のひと、ルクレティアに捧げる』という一文を見るに、やはりただの偶然だとは思えないけれども。
(――彼が今世では王子に生まれかわっているなんて、ね)
ハンナは小さく口角を上げる。その時。
「あー、お嬢さん、ちょっといいかな」
背後から、野太い男の声がかけられた。
「はい?」とハンナは振り返る。
そこにいたのは、屈強な男。腰に下げた長剣と装いは、騎士のものだった。
どう見ても、職務中に花を買うとは思えない。ハンナが訝ると、騎士は苦笑しながら親指でこれから向かう方角を指す。
「騎士団詰め所まで、ご同行願います」
ハンナは両眉を上げた。