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白と赤の迷子たち

作者: 染井雪乃
掲載日:2026/07/03

 僕が礼文島でのフィールドワークに手を挙げたのはある種の反発なのかもしれない。礼文島固有の高山植物を見てみたかったのは嘘ではない。途中で頭が冷えて登山は初めてだと言った僕に、同期は親切におすすめの山が近場にあると教えてくれた。大学周辺の駅からふもとまで電車で行けるという。

「初めてならこことかいいんじゃないか。疲れたらケーブルカーか何かで降りてこられる」

 そこに危険があるとは微塵も思っていない口調だった。

 ふもとでは家族連れも見かけた。この山は彼らにとって覚悟を決めて登る必要なんてない、身近な自然なのだ。息が上がり、自ずと意識は荷物に向く。朝家を出るときに注射をしてきたけれど、山での不測の事態に備えて予備を持参している。血友病の僕は出血が命取りになりかねない。気をつけていればある程度の活動はできるけれど、これまではそれも叶わぬ願いだった。山で救助が来るまで何分かかると思っているの。田舎で医療が不十分かもしれない。正論が僕の気道を塞ぐ。

 山はすぐ暗くなる。寒くなるのも平地よりずっと早い。そう聞いていたから僕はすぐに下山を始めた。山頂や登山コースの途中に店があるくらいには人の手が入っていても、僕には脅威だ。出血して気を失ったら。発見が遅れたら。考えたらきりがないが、それでも恐ろしい。でも、あの衝動に身を任せたことを後悔してはいなかった。もう成人したのだ。自分の生き方は自分で選ぶ。

 山頂付近の景色を眺めていると木陰に違和感を覚えた。こんなところに人がいる。登山客にしてはあまりに軽装だ。いくら気軽に登れるとはいえ、山なのだ。春でも山は寒いのだ。この青年は浴衣に裸足で、眩しそうに目を細めている。何より印象に残ったのは真っ白な髪と周囲から浮いて見えるほどの白い肌、そして紫色の瞳。顔の造形も精巧な人形のように整っている。僕と視線が合うと、青年は笑顔で話しかけてきた。

「君、私が見えていますね」

「えっ」

 反射で返して、背筋が凍る。これは見えてはいけないものだったのだ。整った顔がほころぶ。

「わあ、本当に聞こえるんだ」

 喜ぶ声を背に全力で走った。息が切れる。心臓が波打つのがよくわかる。逃げる最中に転んで血を流すのと、あれに捕まってしまうのと、どちらがましだろうか。どちらにせよ、穏やかではない。動揺して自分の足で下山するどころではなかった。駆けこむようにケーブルカーに乗り、大急ぎでふもとから電車で帰る。

 やっとの思いで家に辿り着き、小さな1Kに荷物を置いて息を整えようとペットボトルを取り出す。視線に気づいて顔を上げるとあの木陰にいた何かが僕を覗きこんでいた。手からペットボトルが落ちていく。白い髪の間から紫の瞳が光を受けて妖艶に輝く。得体が知れないのに見とれてしまう。

「息が上がっていますが、大丈夫ですか」

 僕を心配する声からは邪悪さは感じられないが、だからといって恐怖も警戒も消えない。

 誰のせいだと。山での遭遇時と同じ轍は踏むものかとキッチンへ向かい、食塩を容器ごと青年の姿をした何かに投げつける。霊的なものを信じてはいないが、体が先に動く。食塩は床にまき散らされただけで、何かはきょとんとしている。入口に立ったばかりとはいえ、僕は生物学を学ぶ身だ。霊的なものに塩化ナトリウムが効くなんて信じてもいないが、こうして実際に何も効果がないといよいよ終わりを覚悟する。

 こちらの警戒をようやく察したのか、得体の知れない何かは訳を話し始めた。

「驚かせるつもりはありませんでした。ただ、助けてほしくて。でも誰にも気づいてもらえなくて困っていたんです。君が初めて私に気づいてくれたから」

 存在に気づかれなければ始まる話も始まらないが、僕に助けを求めるのはあまりにも人選を間違えている。あの山に行ったのは今回が初めてで、大学入学を機に引っ越してきたこの土地にもまだ詳しくない。つまるところ、僕は土地勘のないよそ者だ。

「……助けてほしい、というのは」

 おそるおそる言葉を返す。一度返事をしてしまったのだから今さら無視したところでどれほどの意味があるのか。交渉ができるなら穏便に出て行ってもらえばいい。

「気づいたらあそこにいたので家に帰りたいのです。私が外に出ていると気づかれたらきっと大騒ぎになります。当主様が使用人に罰を与えるかもしれません」

 現代では耳にしない言葉が引っかかる。だが、誰かを案じる様子からは悪いやつではないのかもしれないと思えた。どこか漂う悲しさから僕は目を背けた。だが、青年は家の場所すらまともに知らないようだった。地名を聞いても答えられず、必死に思い返してみても雪の降らない田舎としか情報は出なかった。当主様なる人物に外に出るのを禁じられていたという。学校にも行ったことはないが、自分の名前を説明できる程度には文字の読み書きもできるようだ。青年自身を示す情報は支倉はせくら響一郎きょういちろうという名前だけ。ありふれた名ではないが、それだけで特定できるほどでもない。明らかに時代が違う単語から時間の経過が感じられる。食塩が容器ごとすり抜けたことから生きた人間ではないだろう。

「さすがにそんなあいまいな情報で探すのは無理だ。……それで怒って祟られても困る」

 億劫だと隠しもない僕の言葉に青年の姿をした何かは悲しそうに言った。

「私がシラコだから祟るとでも言うんですか。そんな力なんかないのに」

 シラコ、しらこ、白子。頭のなかで変換して、アルビノかと思い至る。生物学で便利に使われたわかりやすい形質。

 アルビノは僕が患う血友病とともにかつての優生保護法の別表に並んでいた。病態は違えど、僕とこの青年はある角度から見ればそう変わらない。かつて絶えろと望まれた。気分の悪い歴史、今に続く科学と社会の罪。

 口が悪い自覚はしているが、自分にも刺さる刃は振りかざしたくない。フィジカルでもメンタルでも出血は嫌だ。

「そうじゃなくて、おまえ、もう死んでるだろ。そうでなきゃさっき塩まみれになってるはずだ」

 何度かの瞬きの後に青年は物に触れられないことや見覚えのない家電の数々に気づく。己の死を自覚した青年は「私、幽霊だったんですね」と呟いた。そして何事か考えた後、僕に向かって正座し、深々と頭を下げた。

「あの世に行けるまでしばらくお世話になります。支倉響一郎と申します。ご迷惑はかけませんのでどうか置いてください」

 いるだけで迷惑なんだけど。口をつきそうになった悪態は今しがた気づいた事実を前にのみこむほかなかった。生まれる時代や場所が違えば、この幽霊は僕かもしれなかった。

「できるだけ早くあの世に行ってくれ」

 自分で撒いた塩を片付けるべく、掃除機を取りに行く。興味津々で掃除機をかける僕を眺める響一郎の体を何度かすり抜けて掃除を終えた。こうして、敵意は感じられないがはた迷惑でどこか抜けた幽霊が今日から家にいついてしまったのだった。




 境遇に似合わず無邪気で好奇心旺盛な幽霊に拍子抜けするには一晩で十分だった。基本的に物体には触れられないが、スマホやパソコンなど電子機器には干渉できるようだった。スマホを覗きこんであれこれ聞いてくるのに根負けして、以前使っていた機種を使わせたら一時間もしないうちに検索を使いこなしていた。元々賢いのだろうけど、携帯電話が発売された頃と比較しても異世界といえるほど変貌した現代の技術をこうも早々と習得するのは好奇心ゆえか、外の世界への渇望からか。

「地図のどこに自分がいるのかもわかるんですね。この近くにどんなお店があるかまで! 洋食もあるじゃないですか。私、オムライスって聞いたことはあっても食べたことはなくて」

 日本の近現代史に詳しくないのもあって、僕は響一郎の生きた年代を正確に特定できていなかった。

「ところで、今って昭和何年ですか」

 昭和。平成生まれの僕には歴史のなかの時代だ。

「昭和なんてとっくに終わってる。元号で言うなら、平成も終わって、今は令和。西暦二〇三〇年だ」

「そうすると、私の生まれ年が昭和二十二年だから、今八十三歳ということですか」

 存外近い年代だった。こいつと同年代の人間は今や皺だらけになっているだろうが、生きている者も少なくない。

「生きていれば、の話だけどな。僕と同じ十八か二十歳前後にしか見えない」

「これでも成人はしています。正確な年齢は思い出せないのですが」

 響一郎をまじまじと眺める。瘦せ細っているとまでは言わないが、お世辞にも体格がいいとは思えなかった。僕も人のことは言えないが、鍛えていないのとは異なる違和感がある。言ってしまえば僕と同質の、病者の香り漂う体つきだった。

「どうかしましたか、紅葉もみじ

 教えてもない名を呼ばれて驚いて響一郎を見上げる。

「名乗ってないはずだけど」

「端末の名前に紅葉って書いてありました」

 技術習得と理解が早い。楽しそうに笑う幽霊に相変わらず敵意はない。聞きかじった知識で警戒していた僕が馬鹿みたいだ。

「ところで、これは本来電話なんですよね。かけてみたいです」

 見知らぬ技術に高揚する幽霊に面食らった。どこにかけるんだ。相手がいないだろう。外に出たことのないおまえに電話をかける先があるものか。万が一相手があったとして、既に鬼籍に入っているだろうに。逡巡の末、僕は事実だけを口にした。

「……相手の番号を知らなきゃかけられない」

「そういうものでしたね、そういえば」

 静かに笑う姿はどうにも見ていられなかった。




 昔を知る主治医によれば、現代技術が血友病患者の生活を格段に楽にした。治療法も打てる手もなく病に手も足も出なかった人類が血液製剤を作り、それを素人の患者が自分で扱えるようにしてしまった。僕はその技術革新に畏敬の念を抱いている。積み上げられた知の蓄積が僕を病院の外で生かしている。

「さて、やるか」

 定期補充療法。定期的に血液製剤を自己注射し、血液凝固因子を補充する。僕の日常を支える毎週のルーティン。

 僕の真剣な空気を知ってか知らずか、響一郎はキッチンの辺りにいた。1Kのアパートで距離を取ろうと思ったら風呂場かキッチンくらいしか行くところはない。

 手洗い、手順の確認、薬剤の用意、そして静脈への注射。もう何年もやっているけど、この瞬間は未だに手が震える。この手元が狂ったら、僕の身に何が起こるのか。そんなに危険なものなら普及させられないと理性は言うが、それで恐怖が消えるわけでもない。

 一つひとつの動作に集中し、呼吸すら忘れそうなほど張りつめて、僕は今週のルーティンを終えた。片付けを終えて肩の力が抜ける。死線を越えるとき人は永遠とも一瞬とも呼べる時間感覚を味わうらしい。僕の生命はこれで維持されているのだから不満はないが、死線が毎週のルーティンになっているのは何だか釈然としない。

「終わった……」

 また来週同じことをしなければならない。今終わって解放されたはずなのに、来週の注射を思うと憂鬱になる。これを繰り返して日々は過ぎていく。僕にとって時間は血液製剤を打つ周期の積み重ねなのだ。

 生き物に休みはない。当然、病気にもない。僕がそのことを知ったのはアサガオやミニトマトを夏休み前に学校から持ち帰るときではなかった。物心つく前に、あるいは記憶をたどれないほど幼い頃に身にしみていた。受け入れたくなかろうが、それが現実だ。




 スマホであれこれ調べて食べてみたいと見せてくる食べ物を響一郎自身は幽霊だから食べられない。匂いを嗅いだり、僕の味わった感覚をわずかに感じ取ったりはできるが、それだけだ。それでは何もしないより絶望が深い気がするが、そんなことはないと言い張るものだから仕方なく肉じゃがを作った。作っている最中から視線が鬱陶しくて、つい冷たい声が出た。

「包丁を持っている人間の後ろに立つな」

 実家でくどいくらいに言い聞かせられた言葉を他人に向けているのも変な気分だ。子どもでもそれくらいわかるのに。いや、生前閉じこめられていたこいつにそんな至近距離で接する人間がいたはずもなかった。ここ数日で察せるのに、小さい頃からしみついた習慣は恐ろしい。

「失礼しました」

 幽霊が怪我するわけもないのに、律儀に距離を取るあたり根はまっすぐなのだ。

「いただきます」

 食べるのは僕だけなのに、二人でいただきますを言う。実家ほどではないにせよ、及第点の肉じゃがをごはんと味噌汁とともに味わう。あたたかく、ほくほくしたじゃがいもと肉やにんじん、つゆが程よく一皿にまとまっている。めんつゆは汎用性が高い。料理は好きでも嫌いでもないが、やってみれば何とかなるものらしい。キッチンに立ってしまえば、本質は化学実験と変わらなかった。

 あれこれ考えながら食べていると、響一郎はきらきらした目で僕を見つめていた。

「……これ、本当に楽しい?」

 僕だったら楽しくない。自分は食べられないのに目の前で食事をされたら相手を呪い殺していても不思議ではない。

「楽しいです。肉じゃがも誰かとの食事も、全部初めてなんです。一人では匂いがわかる程度でしたけど、紅葉のおかげで少しだけ味も想像できます」

 幽霊やアルビノ以前に、響一郎は独特の感性をしているのかもしれなかった。変なやつ、と僕が呟いても、どこがどう変なのかわかっていないようだった。説明できないわけではないけれど、酷な過去を自覚させてまで伝える気はしない。

「食べ物が心残りになっていて、それを食べられたらあの世に行ける……とか?」

「どうでしょう。わかりません。死ぬ直前のことを覚えていないので、何が食べたかったのかも定かではないんです」「一応その線でも考えてくれ。何か思いついたら教えろ」

 死の間際に食べたいものを食べられなかったとして、それが心残りで幽霊になるものなのか。他にもっと執着する何かがあるだろう。僕にとっての食事は健康のための義務の一つで、死後に食事を思ってこの世に留まる想像は難しかった。いくら何でも肉じゃがが未練のはずはないのに、もしかしたらと思ってしまうほど響一郎は喜んで僕と食卓についたのだ。料理に不慣れな僕が作る、ありふれた食事に子どものように目を輝かせていた。




 当初は家で留守番していた響一郎だが、僕以外には認識されないと気づいてからはついてくるようになった。ついてきたところで僕の様子を眺めたり周囲を観察したりしているだけで、現実に変化を及ぼすわけではない。

「えっと、紅葉くん、で合ってる?」

 カフェスペースで昼食を広げている僕に話しかけてきたのは礼文島でのフィールドワークに手を挙げた同期の一人だった。下の名前で呼ばれるほど親しくはないが、苗字を呼ぼうにも珍しくて読めないに違いない。

「合ってる」

「夏休みのフィールドワークのことだけど、その後に皆で北海道旅行する話があるんだ。紅葉くんもどうかなって」

 学科の自己紹介で一度は聞いているはずだが、目の前の男子学生の名前は思い出せない。

 同期が見せてくれたスマホの画面にはおいしそうなごはんと温泉の写真がいくつも掲載されていた。僕の隣に漂う響一郎は他人事なのに既に明るい表情を浮かべている。僕はどう断ったものかと考えを巡らせた。

「せっかくだけど、僕はやめておく。山自体慣れていないからその後に旅行する元気はないと思う」

 半分嘘だ。長いこと他人と過ごし病気を隠し通すなんて面倒だった。

「わかった。皆にもそう伝えておく」

 同期は深く問わなかった。響一郎だけが明らかに落胆していた。

「北海道旅行、行ってみたかったのに」

 ぽつりと呟く幽霊に僕は返事もせずに昼食の残りを食べ進めた。離島でのフィールドワークだけでも大博打なのに、この上同期達と行動をともにする時間を増やして病気を知られるリスクまで取る気にはなれなかった。




 講義前、山についてアドバイスをくれた同期の近くに座ったので、勧められた山に登ったこととお礼を伝えた。椎野しいのと名乗った彼は自然な流れで連絡先の交換に移る。

「えっと……」

「紅葉でいいよ。苗字読めないってよく言われるから」

「じゃあ、紅葉」

 急に呼び捨てにされて一瞬フリーズする。気安く下の名前を呼ぶほどの親密な相手はこれまでいなかった。大学生、それも男同士ともなればこれくらい気安いものなのだろうか。

「これ終わったら、飯でも行こう。うまいとこ知ってるんだ」

 椎野の唐突な誘いにのまれ、椎野の背後で「行きたいです」と既に前のめりな響一郎にも根負けし、僕は頷いた。紫色の瞳が教室の蛍光灯を映してきらきら輝いていた。

 連れていかれたのはダイニングバーで、おすすめだという特大パフェを分け合って食べた。椎野と響一郎のペースに乗せられているのは自分でもわかるが、抗う気はしなかった。僕も甘いものは好きだし、季節ごとに入れ替わるという他のパフェにも興味を持ってしまったから。

「紅葉、見た目の割に食べるんだな」

「それは椎野もじゃないか」

 僕も椎野もお世辞にも体格がいいとは言えない。だが、決定的な違いがある。椎野の手足にはありふれた筋肉の存在が感じられる。僕が持つ病者特有の不健康な気配など微塵もまとっていない。そして、椎野はその違いを認識すらできないほどに病者を見慣れていない。結局、違いを痛感するのはいつだって外れた側なのだ。

 同じ空間にいても、僕達は違う世界を見ている。腹を立てるのも馬鹿らしくなるほど見慣れた現実だが、椎野にはそこそこ好感を抱いていた。意外さに驚いてもそれを貶しはしない。互いの事情にも踏みこまないで過ごせていた。フラットで軽やかな椎野との時間は比較的気が楽だ。

「今度焼肉行こうぜ」

 店を出てしばらく歩いた後に椎野は言った。大学生らしさそのものの提案だ。

「試験の後なら」

 誰かと先の約束をするなんて久しぶりだ。もしかしたら初めてかもしれない。

「俺色覚異常で焼け具合わかんないから見てくれると助かる」

 何でもないことのようにさらりと言われた。心臓が脈打つ。暗くてよかった。きっと僕の動揺には気づかれていない。

「じゃあ試験終わったら、しっかり火通った肉食べよう」

 夏の訪れを告げる生ぬるい風が吹いていた。「じゃ、また大学で」と歩き出そうとした僕を椎野が静かに引き寄せた。僕のすぐ横を無灯火の自転車が通り過ぎていく。気温とは裏腹に寒気がした。夜中に出血してしまえばどうなるか。救急車で運ばれれば両親に知られるだろうし、何より目の前の椎野にも事情を隠せなくなる。

「助かった」

 椎野はどこか遠くを見つめていた。




 入学後初めての診察。新しい担当医は温和そうな雰囲気をまとった男性だった。眼鏡の奥の瞳は優しく微笑んでいた。在学中は彼が頼りだ。

御薬袋みないさん、大学生活はどうですか」

 一通りの診察を終えた後の質問に、僕は「アルバイトをしたいのですが」と答えていた。

「アルバイトですか。まず立ち仕事や怪我のリスクのある仕事、コンビニや引越しバイトなんかは出血のリスクがありますから避けてください。そうですね……病気への理解があって血栓予防に時折立ち上がってストレッチできてデスクワーク、とかだといいんですけど、その、なかなか、ね……」

 先まで聞かずとも僕にはわかった。そんな理想のアルバイト先がどこにあるだろうか。

「僕にアルバイトは難しいってことですか」

「残念ながらそうなりますね。親御さんの仕送りだけだと生活に困る感じでしょうか」

「生活に困るわけではないんですけど、好きな本を買うのも遊びに行くのも親に出してもらうのはさすがに申し訳ないというか、成人ですしそのくらいは自分でどうにかしたいです」

「親御さんは何か言っていますか」

「アルバイトをして体を壊すよりは頼っていいとは言ってくれていますが……」

 恵まれているとはわかっている。学費も生活費も負担してくれていて、お小遣いにする分も入れてくれている。お小遣いとして渡された額に不満はない。アルバイトを試みるのも贅沢かもしれない。

 でも、それでは一人暮らしを始めた意味がない。両親に守られ続けるのではなく、少しずつでも一人で立てるようにならなければ。

「お気持ちもわかりますが、今は親御さんに助けてもらうのがいいと思いますよ。就職となればまた別のやり方がありますから、そのときまでは」

 伏し目がちに残酷な現実を告げられた。正論だ。言われたことのうち一つでも反論できるものなんてありはしない。どれほど焦っても避けるように言われた職種には応募しないこと、それ以外でも病気を隠して応募しないことを約束させられ、大学進学後初の診察は終わった。

 医師の許す範囲内でアルバイトを探してみたが、結果は言うまでもなく惨敗だった。データ入力などのアルバイトを扱っている派遣会社に登録してみたら、後日「ご紹介できる派遣先はございません」と断りのメールが来た。派遣会社でも直接雇用でも同じことで、病気を告げれば不採用になった。それでも現実的なリスクがある以上、僕は病気を隠すわけにはいかないのだった。




 手元のスマホで「大学生 アルバイト」と検索する。接客ができる性格でもなければ、飲食店でも重いものを運ぶことはあるからと派遣会社でも断られた。事務系なら、と思いきや病気を話すやいなや、頭を下げられた。怖いのだろう。労災も、見慣れない病気も。僕も。

 目についたのは、「治験バイト」「生殖補助医療ドナー」だった。治験バイトは「健康な方」と明言されていたが、生殖補助医療のドナーは同意ができる年齢で反社会勢力と関係していないなど一定の基準を満たせば誰でもできるようだった。

 高校の授業で習った新制度を思い出す。人は自分の精子や卵子を提供するドナーとなれる。未だ婚姻の平等すら達成されないこの日本で、生殖補助医療新制度だけが少し先を行っていた。この制度を利用すれば子を持つ際に家族形態を問われないのだった。同性カップルもシングルも、法律に認められた夫婦と同様に養育者になれる。精子や卵子を買うだけの経済力があれば、だが。経済力がフィルターなのだ。

 医療情報、大まかな学歴、遺伝子検査、容姿の色彩やルーツを登録すればドナー候補として登録料五十万円を受け取れる。僕の精子を欲しがるやつなんていないだろうけど。それだけあれば、国立の大学院の入学金くらいにはなる。

 本当は提供まで進んで百五十万円以上の報酬を得たいところだが、あまりにも望み薄だ。医療情報と遺伝子検査で切られるだろう。血友病を患う僕が選ばれないのはわかりきっている。それでも登録は拒否されない。差別禁止のガイドラインに抵触するからだ。

 ここ数年、このテーマは大学入試の小論文で頻出だったからよく覚えている。生物学専攻ではなおのこと避けて通れなかった。僕は何と書いただろうか。結局、入試そのものにはその話題が出てきたかも覚えていない。

 響一郎が近くにいないことを確認し、僕は登録に向けて情報を打ちこんでいった。ドナー候補となるための検査や本人確認の日取りを試験後に設定して、スマホを置く。

 ふと不安になって、響一郎に貸した以前のスマホと同期されていないか確認してしまう。言わなくてすむならそうしたかった。心臓の音がうるさい。自傷に近い行為と理解はしていた。それでもやらずにいられない。何もかも親に頼りきりでは自分で先を選べない。




 自己注射のときに距離を取る気遣いはあっても、期末試験に備える僕に静かな空間を提供する気はないのが響一郎だった。それまでならうるさいと一蹴していただろうに、好きに喋らせておく僕も我ながらずいぶん軟化した。

「みて、紅葉。これ、おいしそう」

 試験勉強の合間にコーヒーを淹れたタイミングで、響一郎が見せてきたのは、響一郎の瞳そのものの紫色のゼリーが入ったパフェだった。

「ハスカップか。本州じゃなかなか食べられないんだよな。これ、綺麗に色出てる。おまえの目の色みたいだ」

 出自から考えてハスカップなんて見たことも食べたこともなさそうだ。どう説明したものか。思考は響一郎の涙で遮られた。初めて見る顔をしていた。それは何もかも見失った迷子そのもので、ひどく悲しいのに僕はそれを美しく感じていた。

「きれい……って、本当に?」

「え、うん。お菓子であれほど綺麗に色を出すのは相当技術が高いはずだから、味も期待できるかもしれない。待て、今泣くところあったか?」

 音もなく零れ落ちる涙に僕は戸惑ってしまう。響一郎は首を振る。

「私の目を綺麗だと言ってくれる人がいるなんて、思ってもみなかっただけ」

 その言葉で僕はようやく思い至った。響一郎の生まれ持った色彩が否定され続けた過去を忘れていた。この幽霊のなかで色彩が持つ重みを僕は理解していなかった。続く言葉を失って、僕はアルビノの青年を見つめた。

「……驚いたけど、嬉しかった」

 柔らかく笑う姿に僕はつい口が悪くなる。

「別に、褒めたわけじゃない。ただの観察の結果」

 ふふ、と笑う響一郎はもういつも通りだった。




 図書館で一人静かに試験勉強を続けながら、僕は考える。少し前、あまりにも試験勉強に身が入らず、思い切って旧優生保護法関連の資料を複写して読み切ったのだ。生来文字を追うのは苦ではない。

 響一郎の素性を明らかにすべきではないのかもしれない。居候し始めたときや色彩の話をしていたときの様子から考えても、縁者が見つかったところでいい展開は望めなかった。それに、外の世界を知らずに死んだ響一郎にこれ以上酷な現実を伝える必要があるのだろうか。正義や科学、愛の大義名分のもとに生きる権利も選択肢も、何もかも奪われつくしたことを知らせるのか。奪われたものを取り返すのは到底不可能なのに?

 ペンが止まって、後ろのグループ席の声が頭に入ってきた。

「今期死んだかも」

「単位足りるかな……留年したら人生終わりだよ……」

 試験結果を心配する声に、僕は無言で攻撃的な言葉を投げつける。

 死が冗談になるなんて、とても恵まれている。試験結果が悪くても留年しても、命の危機にはならない。おまえたちは本当に死に瀕したことなんかないくせに。人は傷を負うまで痛みを理解しない。痛みを知っていても自分で味わうまではフィクションだ。人は死に向かって生きているが、生が危うくなるまでそれを実感できないのと何も変わらない。終わりの恐怖を直視してしまえば人は先へ進めないから。逃避も忘却も希望のための麻酔薬。

 自己注射の扱いや不意の出血で僕は死にかけるけど。あいつは何もかも奪われつくして既に死人だ。僕の痛みも、あいつが生きていたことも、おまえたちは何一つ知らない。知らずに生きていられる。

 後ろにいる学生たちと僕は違う世界を生きている。近くにいても彼らと僕は隣人ではない。とうに他人を見限ったくせに、人を殺せそうな怒りが身を焼いた。互いの事情は関係ないと自分に言い聞かせ、目の前の過去問に無理やり意識を集中させた。




 過去問を解き終え、一人家に向かう。家に帰れば響一郎が待っている。試験勉強を理由に別行動をしていてよかった。旧優生保護法の資料を読むなら響一郎は傍にいてほしくなかった。

 かつて自然科学が犯した過ちの一つ、それが優生学だ。優良な子孫を残し不良な子孫の出生を防止することを目的にさまざまな政策が取られ、それは単なる思想に留まらず学問の一領域にさえ数えられた。敗戦後の日本でも優生保護法にもとづいて不妊手術が行われた。遺伝する障害や疾患とされた数多くの障害や疾患が別表に記載され、そこには白児(現在で言うアルビノ)と血友病も挙げられていた。

 二〇三〇年を生きる僕は旧優生保護法の被害者が起こした裁判の判決を知っている。そして、別表に挙げられた障害や疾患のなかに遺伝しない、あるいは遺伝のみが要因ではないものが含まれている事実も、現在の僕が光の速度で手にできる知識だ。優生保護法は今を生きる僕に手を伸ばせない。

 科学的根拠に欠けたずさんで差別的な法律が過去に存在した。そう片付けるにはあまりに重すぎる後遺症が僕を苛んでいる。優生保護法は生前の響一郎に外の世界を見せなかった。己の色彩を誇るなんて思いもしないほどに、本人も気づけないほど巧妙な構造で心を粉々にした。外に出たことのない響一郎はおそらく法律の存在すら知らないだろう。それでもたしかに響一郎は優生保護法の構造に人生を台無しにされたのだ。

 信号待ちで立ち止まる。夕焼けを眺めながらぼんやりと考える。ほとんどの場合、アルビノは生まれてすぐに容姿で判別できる。高度な教育を受けていただろう当主様は当時の科学にも詳しく響一郎が優生保護法の対象になると気づいたかもしれない。そうではなくても、響一郎、ひいては彼のきょうだいや家そのものが後ろ指をさされるリスクには気づいただろう。

 なぜ、隠すだけだったのか。戦後すぐの頃だ。今でこそ子どもが生まれたら育つのに疑いはないが、あの頃子どもが死ぬのは珍しくなかったはずだ。嫌な話だが、死ぬに任せた親もそれなりにいたのではないか。せめて生かそうと、守るために隠したのだとしたら。

 希望的観測だ。推測に推測を重ねている。散らばった断片を好き勝手につないでいる、仮説とすら呼べない稚拙なもの。死なないから生きているなんてあまりにも安直な言葉遊びだ。

 軽く首を振って、不安定な希望を頭から追い出す。横断歩道を渡りながら呟く。

「どう思っていたかなんてわからない。どうでもいい。ただ事実だけがある」

 生前、響一郎が隠された。同時期に優生保護法が存在し不妊手術が強いられていた事実がある。死後幽霊になっているのは僕しか知らないだろうが、定説では人生に満足していたら幽霊にはならない。幽霊は「うらめしや」と出てくると相場が決まっている。

 別に誰かを裁きたいわけじゃない。裁けるとも思っていない。響一郎の言う「当主様」に事情や考えがあったとして、その中身に合理性があろうとなかろうと、僕は間違いなくそいつを敵視する。僕を殺す合理性だけは承服できない。考えるまでもない。

 鍵を取り出し、深呼吸する。鋭利に燃え上がったまま、響一郎に会いたくない。自分のためだけと言い切れないこの炎を、その詳細を気取られたくなかった。その程度のことで、呼吸は落ち着きを取り戻す。つられて心も少しだけ鎮まった。

 待っていた響一郎には顔色が悪いと心配されたが、試験のせいにした。




 試験を終えて疲れ果てた体のまま、僕はしばらく眠った。

 起きて部屋を見渡すと、食卓に置きっぱなしにしていた図書館で集めた旧優生保護法関連の資料が目に入った。響一郎の様子はいつも通りだ。ぼんやりする頭で雑な食事を口に運ぶ僕を響一郎が見つめていた。

「今日のごはんはさすがに雑だし、僕を通じて味を感じてもおいしくないと思う」

「そうかな。紅葉と食べたものはどれもおいしかった」

 舌が馬鹿なのかと怪訝に思っていると、軽く睨まれた。

「何か失礼なこと考えたでしょう」

「……いや、おまえの味覚を疑っただけ」

「失礼だよ。紅葉は本当に口が悪い」

 そうじゃなくて、と前置きして響一郎は結論を口にした。

「こうやって紅葉と話して一緒に過ごす、何でもない時間が欲しかった。生きているとき私は外に出してもらえなかったし、話し相手もいなかった。きっと、未練はそれなんじゃないかな。満足したらいつかあの世に行くのかもしれない」

 思わず立ち上がる。資料の束がバサバサと床に落ちていく。何もかも奪われて、死してなおゴミみたいに山に捨てられて、復讐すら願わずに響一郎は僕と過ごす日々が楽しいと言う。こいつは覚えていないが、推測するまでもなくろくな死に方ではない。隠されて育ち遺骨を山に打ち捨てられた人間の生が楽しく語れるものであるわけがない。

「やっぱりおまえは馬鹿だ。自分が何されたかわからないほど馬鹿じゃないくせに、未練がそんなことなんて」

 言葉では毒を吐くのに、さほど冷ややかな感じがしないと自分でも思う。

「そのささやかな幸せが私にはとても手の届かないものだったんだから、仕方ないでしょう。でも、紅葉の言いたいこともわかる。だけど、それは紅葉が世界を見て考えているから思いつくことなんだよ」

 その通りだ。知らなければ希望すら抱けない。僕は当たり前に誰もが享受すべき日常を知っている。実家に保護者がいて、病を知らない同期がいて、それでも僕は彼らと同じ世界を見ていない。そんな現実を生きている。こいつにはなかった現実だ。

「だからまだしばらくよろしく。……ところで、このルビーチョコレートって何? 着色したんじゃなくて元からこの色なんだって。紅葉、明日これ食べに行かない?」

 ネガティブになりかけた空気を好奇心旺盛な誘いがかき消した。死者には現世のしがらみはない。空気を読む必要もない。

「おまえは食べられないのに?」

「君が食べてくれればわかるから、それで十分」

「……店は調べとけよ」

 意外にも僕はこの奇妙な縁を終わりになんてできなかった。何も終わっていない。こいつの未練も、僕の感じるズレも、現在進行形の腫瘍として世界にある。




 夏休みに入る頃、僕の口座にドナー候補登録料として五十万円の振込があった。ぐらりと視界が揺れる。駆け寄ってくる響一郎から見えないようにスマホの画面を暗くしてベッドに腰を下ろした。

「何かあった?」

「多分、軽い立ちくらみ。夏だしな」

 この瞬間、僕は響一郎の紫の瞳を見つめ返せなかった。

(了)


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