世界が選ばなかった夜
王都は、音を失い始めていた。
鐘が鳴らない。
祈りの声が揃わない。
広場の噴水は止まり、代わりに人の足音だけが濁流みたいに流れている。
救いを求める足音だ。
そして──責任を押しつける足音でもある。
聖堂の前には、列ができていた。
病人、子ども、老人。
眠り続ける者を抱えた母親。息の浅い子の肩を揺さぶる父親。
みんな同じ顔をしている。
「次は私たちを」
「今度こそ」
「聖女様なら」
奇跡という言葉は、祈りの形をした請求書だ。
支払うのが誰かを誰も見ないまま、ただ差し出す。
リディアは、その列の外側に立っていた。
白衣でも聖女の装いでもない。フードを深く被っても、視線は刺さる。
あの断頭台の夜、聖女の座から落ちた女──その噂は、王都の空気に混ざっている。
隣には、アシュレイがいる。
黒い外套。翼の影。
彼がいるだけで空気が凍るのに、彼は誰も殺さない。
殺せないのではない。──殺さないと決めている。
それが、余計に王都を苛立たせる。
人は、恐怖よりも宙ぶらりんを嫌う。
魔王なら、いっそ滅ぼしてくれればいい。
でも滅ぼさない。
だから怒りの矛先は、もっと弱い場所へ向かう。
聖堂の扉が開いた。
白い衣が現れ、歓声が沸く。
偽聖女──エレノラ。
完璧な笑顔。完璧な涙。完璧な慈悲。
「皆さん、大丈夫です。神は、私たちを見捨てません」
その言葉に、人々は泣き崩れる。
縋りつく。
縋りつくことで、自分の罪が消えると思うから。
リディアの喉がきゅっと締まった。
──そうじゃない。
神が見捨てたんじゃない。
見捨てたのは、人だ。
都合が悪くなった者を切り捨て、拍手が欲しい者を持ち上げる。
その仕組みを、前世から嫌というほど見てきた。
アシュレイが低く囁く。
「見ろ」
リディアは、息を止めた。
聖堂の裏手。列の影。
担架が一つ運び出される。布に覆われた小さな形。
布の下の輪郭が──子どもだと、分かってしまう。
「……また」
リディアの声が震える。
泣き声は出ない。
泣いたら、救いの物語に吸われる気がした。
泣いた瞬間、自分がまた利用される側になる気がした。
アシュレイは、リディアの前に一歩出た。
盾になるように。
触れないのに、守る。
「行くな」
低い声。
命令じゃない形をしているのに、命令より重い。
「行かない」
リディアは即答した。
約束した。奇跡を起こさない。聖女にならない。正義にならない。
でも──逃げない。
「でも、見届ける」
その言葉に、アシュレイの呼吸がわずかに乱れた。
彼は、怒っていない。
怖がっている。
リディアが壊れることを。
壊れたら、彼が奪う側に戻ってしまうことを。
聖堂の中から歓声が上がった。
「目を覚ました!」
「聖女様だ!」
「奇跡だ!」
歓声は、担架の布を覆い隠す。
死と救いが同じ夜に並ぶ。
救われた数のほうが多いなら、死は誤差になる。
リディアの指先が冷たくなった。
「……止めないと」
呟いた瞬間、アシュレイが頭を振る。
「止める」
「私が?」
「俺がだ」
その言い方は、優しい。
でも、優しさの裏に、鋭い決意がある。
──世界を壊す決意。
リディアは、胸の奥で何かがひび割れる音を聞いた。
怖い。
でも、それ以上に──嬉しい。
彼が「世界より彼女」と言っているのを、言葉にしないまま、行動で示しているから。
聖堂の地下へ続く扉は、祈りの匂いではなく、血の匂いがした。
エレノラは、地下の祭壇に立っていた。
もう笑顔を作る必要はない。
ここには観衆がいない。
あるのは、禁じ手の文と、自分の欲だけ。
──分かってる。
命を削る。
削られる命は、選べない。
近くにいる弱い命から、糸が切れる。
──でも、止めたら、私は終わる。
聖女でいられない。
選ばれない。
その瞬間、王都は自分を石で打つ。
──私が悪いってことになる。
──違う。私は、救ってる。
救った人数のほうが多い。
だから正しい。
だから必要。
そう言い聞かせた瞬間、祭壇の灯が一つ、ぷつりと消えた。
「……来た」
背筋が凍る。
代償が、近い。
その時。
地下の空気が裂けた。
風が逆流し、燭台の炎が横に倒れる。
アシュレイ=ノクスが、影から現れた。
「……魔王」
エレノラの口元が吊り上がる。
「私を殺しに来たの?」
「止めに来た」
「止める? 何を?」
分かっているくせに、分からないふりをする。
それが一番強い演技だと、前世で学んだ。
アシュレイは淡々と言う。
「命の請求を、やめろ」
エレノラは、笑った。
涙が出そうなくらい綺麗に。
「命? 仕方ないじゃない。救うには代償が必要なの。あなたも同じでしょ?」
アシュレイの目が、一瞬だけ揺れた。
魔王は奪う存在。
その罪を突かれたのだ。
だからエレノラは勝ったと思った。
「私の奇跡は正しい。だって王都が私を選んだ。皆が私を必要としてる」
必要。
その言葉で、自分を正当化する。
削られた命のことは、数字の外へ押し出す。
アシュレイの声が低くなる。
「必要と言うなら、必要の分だけ、おまえが払え」
その一言が、胸を刺した。
エレノラは顔を歪める。
「……私は聖女よ。私は払う側じゃない。選ばれる側なの!」
叫びながら、彼女は式文をなぞった。
光が立ち上がる。
眩しい。熱い。
でも、その光は──白ではない。赤が混ざる。
「これで終わりよ。最大の奇跡を起こして、皆を黙らせる。魔王も、あの女も、全部──」
その瞬間。
地下の天井が、音を立てて軋んだ。
光が膨らむほど、どこかが削れていく。
地上の誰かが、糸のように切れていく。
エレノラは、知っているのに止めない。
──選ばれない未来なんて、嫌だ。
その恐怖だけが、指を動かす。
アシュレイが一歩踏み出した。
影が広がる。
光が飲まれる。
だが、その時──地下へ駆け降りる足音がした。
「やめて!」
リディアの声。
アシュレイの動きが止まる。
止まったのは命令じゃない。
彼がリディアを選ばせると決めているからだ。
リディアは息を切らし、二人の間に立った。
聖女ではない。
奇跡を持たない。
ただの女。
その姿が、エレノラを苛立たせる。
「何しに来たのよ! あなたはもう聖女じゃない!」
「だから来た」
リディアは言った。
声は震えている。
でも、逃げない。
「聖女じゃないから、救いの顔で嘘をつかない」
エレノラの目が見開かれる。
「嘘……?」
「知ってるでしょ。代償が命だって」
リディアは一歩近づく。
アシュレイじゃない。
彼女自身が近づく。
「知っててやってる。理解して進んでる。……それが一番、残酷」
エレノラの唇が震える。
「違う! 私は救ってる! 私は必要とされてる!」
「必要って言葉は」
リディアは、息を吸って言う。
「選ばれない命を殺す免罪符じゃない」
その瞬間、エレノラの光が揺れた。
芯が折れる。
彼女の中の正当化が揺らぐ。
揺らいだ途端、禁じ手は牙を剥いた。
光が逆流し、エレノラの皮膚にひび割れが走る。
喉から、掠れた悲鳴。
「……っ、や……!」
──怖い。
エレノラの瞳に、初めて恐怖が映る。
選ばれない未来への恐怖。
終わる恐怖。
リディアは、彼女を助けない。
奇跡で救わない。
でも、見捨てもしない。
ただ、言う。
「やめなよ」
短い言葉。
命令じゃない。
救いでもない。
でも、嘘がない。
「選ばれなくても、生きていい」
その一言で、エレノラの顔が崩れた。
泣きたいのに泣けない顔。
勝者の顔を剥がされた顔。
「……そんなの、無理」
かすれた声。
「選ばれなかったら、私は何も残らない」
「残るよ」
リディアは言った。
「選ばれるために奪ったことが残る。だから、今やめないと、全部それになる」
エレノラの瞳が揺れる。
揺れた瞬間──彼女は理解した。
──私、もう戻れないところまで来てた。
そして、その理解が遅すぎたことも。
光が暴走する。
地下の壁が割れる。
地上の悲鳴が、遠くで響く。
アシュレイが、低く唸るように言った。
「下がれ、リディア」
リディアは首を振った。
「下がらない」
選ぶ。
ここに立つと選ぶ。
アシュレイは、一瞬だけ目を閉じた。
そして──決めた。
影が広がる。
禁じ手の光を、丸ごと包み込むように。
だが、それは奪う影じゃない。
切り離す影だった。
代償の流れを断つ。
王都の誰かへ向かっていた糸を、ここで止める。
代わりに、その反動が──アシュレイ自身へ向かう。
リディアは気づいて、息を呑んだ。
「……やめて! あなたが──」
アシュレイは答えない。
ただ、影を維持する。
世界を敵に回すより重いものを背負っている顔で。
その瞬間、リディアの中で何かが決壊した。
触れない。
触れたら壊す。
でも──今、触れなきゃ、この人が壊れる。
リディアは、一歩踏み出した。
「アシュレイ」
名前を呼ぶ。
彼の肩が震える。
リディアは、自分で選んで、彼の手を握った。
指と指が重なる。
熱が伝わる。
それは命令でも、保護でも、救いでもない。
ただの──選択。
アシュレイの影が、一瞬だけ揺れた。
揺れたのに、崩れない。
彼は振り返らず、掠れた声で言った。
「……いいのか」
リディアは、手を強く握り返した。
「いい。私が選ぶ」
その言葉で、アシュレイの呼吸が戻った。
影が安定する。
禁じ手の光が、ゆっくり沈む。
暴走が止まる。
エレノラは床に崩れ落ち、肩で息をした。
ひび割れの痕が消えない。
終わりが近いのが分かる。
リディアは彼女を見下ろし、静かに告げた。
「もう、選ばれるで生きるのやめて」
エレノラは涙を流した。
その涙は、初めて演技じゃない涙だった。
そして地上では──聖堂の光が消えた。
歓声が止まり、沈黙が落ちる。
王都の人々は、初めて自分の足元を見た。
担架。
布。
小さな形。
消えていった灯。
誰も、もう偶然と言えなくなる。
アシュレイが、初めて振り返った。
リディアの手を握ったまま。
その目は、夜だった。
深くて、危険で、でも──逃げ道を残す夜。
リディアは、その夜に笑った。
「……触れたね」
アシュレイは、苦しそうに息を吐いた。
「触れた」
「壊れた?」
「……壊れていない」
その答えが、胸を熱くする。
触れても壊れない未来が、ある。
選ばれなくても、奪わなくても、成立する愛がある。
地上で、怒号が上がる。
「聖女はどこだ!」
「奇跡が消えたぞ!」
「責任を取れ!」
世界が、誰かを吊るしたがっている。
いつもの癖で。
いつもの物語で。
アシュレイは、リディアの手を離さないまま、低く言った。
「次は、俺が世界を選ばない」
その言葉は宣告だった。
そして、約束だった。
リディアは頷く。
選ばれない未来を、選ぶために。
━━魔王アシュレイの独白━━
──触れてしまった。
あれほど恐れていたのに。
触れた瞬間、壊れると思っていたのに。
彼女は、自分で俺の手を取った。
救われるためじゃない。
縛られるためでもない。
選ぶために。
俺は魔王だ。
奪う者だ。
必要なら、世界を滅ぼしてでも手に入れる側だ。
だが今夜、地下の祭壇で理解した。
奪うより残酷なものがある。
それは、必要という言葉で命を飲み込む仕組みだ。
あの女は知っていた。
代償が命だと理解して、祈った。
選ばれない未来が怖かったからだ。
──分かる。
俺も同じだ。
選ばれない未来が怖い。
彼女が、俺を選ばない未来が怖い。
だから触れた。
いや、正しくは──触れさせられた。
彼女が選んだ。
俺の手を取ることを選んだ。
その選択を、俺は奪えなかった。
奪えなかったことが、嬉しい。
こんな感情は、魔王のものじゃない。
だが、もう否定しない。
次は、世界が彼女を吊るそうとする。
責任を押しつけ、偶然を正当化し、選ばれない命をまた差し出そうとする。
──だから次は、俺が世界を選ばない。
選ばれない未来を選ぶ彼女の隣で、俺も同じ罪を選ぶ。
触れた手は、まだ熱い。
この熱だけは、奪わない。
守る。
そして──失わない。




