牙を剥くのは、世界
王都の光は、遠くからでも歪んで見えた。
魔王城の高塔。霧の谷を越えた先、夜の地平線に薄い白が浮かぶ。祝祭の灯りのはずなのに、煌めきが綺麗すぎて、リディアの背中が冷えた。
──綺麗なものほど、隠すのが上手い。
前世の会社もそうだった。表彰の壇上は光で、裏方の机は暗い。数字の影で、誰かが削れていく。削れた音は、拍手に消える。
「……今夜も、起きる」
リディアが呟くと、背後の影が応えた。
「起きている」
アシュレイ=ノクス。
いつも通り無口で、いつも通り近いのに、今日は気配が尖っている。戦う前の男の匂い。空気が、刃みたいに冷たくなる。
リディアは振り向いた。
「行くの?」
その問いは、確認じゃなかった。
止めたいわけでもない。──ただ、怖かった。
彼が世界へ牙を剥くと決めた瞬間から、もう戻れない。
そして、彼が戻れない場所に行くとき、リディアだけがここに残るのも、耐えられない。
アシュレイは短く頷く。
「王都へ」
それだけで、心臓が跳ねた。
魔王が王都へ行く──それは原作なら破滅の合図だ。民は恐怖し、王は正義を掲げ、聖女は光で追い払う。誰かが死ぬ筋書き。
──原作は終わった、って言ったのに。
胸の奥が揺れる。
リディアは一歩近づいた。拳ひとつ分の距離。触れない距離。
「私も行く」
自分の声が震えていないのが、逆に怖い。
アシュレイの瞳が細くなる。
「行くな」
あの時と同じ命令。
でも、今日は命令の角がさらに立っている。
「どうして」
「危険だからだ」
「私が危険なの? それとも、あなたが危険になるから?」
言ってしまって、息が止まった。
アシュレイの喉が動く。短く、苦い沈黙。
リディアは目を逸らさない。逸らしたら負ける。
この男は優しさで逃がしてくれる。だから、逃げないと決めた。
「……私は、選びたい」
リディアは言う。
「守られるだけじゃ嫌。聖女に戻るのも嫌。でも、目を背けるのも嫌」
正しさじゃない。
ヒロインとしての正義でもない。
ただ、自分のまま立つためのわがままだ。
アシュレイは、ほんの少しだけ目を伏せた。
そして、低く言った。
「おまえが行けば、王都はおまえを聖女として利用する」
「わかってる」
「おまえが傷つけば、俺は──」
そこまで言って、止まった。
言葉の先が、危険すぎるから。
リディアの胸が痛む。
俺は奪う──その結論に繋がる言葉。
触れたら壊す。抱けば選ばせることになる。彼はそれを恐れている。
リディアは、息を吸って、静かに言った。
「じゃあ、取引しよう」
アシュレイの瞳が動く。
「取引?」
「私は王都へ行く。でも、私は聖女として奇跡を起こさない。誰も救わない。正義にならない」
言い切るのは、苦しい。
救いたい欲を、喉の奥で噛み殺す。
「代わりに、あなたも約束して」
リディアは一歩、さらに近づいた。
もう息が混じる距離。触れないのが痛い距離。
「私を檻にしないで。命令しないで。……私が選ぶ」
アシュレイの手が、わずかに動いた。
伸ばしかけて止まる。
その距離が、恋の熱を増やす。
「……分かった」
短い返事。
だけど、今の彼の声は、いつもより低く掠れていた。
「だが条件がある」
「なに?」
「俺から離れるな」
命令じゃない形をした命令。
守る宣言の形をした独占。
リディアは唇を噛んで、頷いた。
「離れない」
それは、怖いくらい甘い誓いだった。
王都に入る前から、空気が違った。
石畳に染み込んだ香の匂い。祈りの声。泣き声。歓声。
救いの匂いがする。
救いの裏で、何が溶けているのかを隠す匂い。
人々は、偽聖女エレノラを呼んでいた。
「聖女様!」「奇跡を!」「次はうちの子を!」
その中心にある聖堂は、光で満ちていた。
白い衣が揺れ、光輪が揺れ、誰もが跪く。
偽聖女──エレノラは、祭壇に立って微笑んでいた。
その笑顔は完璧だった。前世の会議室で勝者の顔をしていた女と同じ。
──ほら、見て。私を。
祈る指先は震えているのに、笑顔は崩れない。
彼女は知っている。
奇跡が命を削っていることを。
削られる命が、選べないことを。
でも、止められない。
──止めた瞬間、私は終わる。
選ばれない恐怖。
それだけが、彼女を動かす。
そして今夜。
聖堂の扉が、音もなく開いた。
風が入る。灯りが揺れる。
次の瞬間、空気が凍った。
黒い外套。夜の翼の影。
魔王アシュレイ=ノクスが、祭壇の前へ歩いてきた。
「……魔王!」
悲鳴。逃げ惑う足音。
槍を構える兵。王太子の怒号。
「討て! 討てぇっ! この化け物を──!」
偽聖女エレノラは、一瞬だけ息を飲んだ。
──来た……! 原作通り……!
胸がぞくりと甘くなる。
これでいい。これで、私が聖女として魔王を退ける。
勝者の光を浴びる。
誰も私を選ばない未来なんて、消える。
「私が──守ります!」
偽聖女エレノラは両手を掲げた。
光が膨らむ。眩しい。美しい。
そして、その瞬間。
聖堂の端で、また一人、誰かが崩れた。
老人。
祈りの最中に、糸が切れるように倒れる。
──見ない。
偽聖女エレノラは目を逸らさない。
逸らしたら、光が揺れる。
光が揺れたら、信仰が揺れる。
信仰が揺れたら、自分が終わる。
──必要な犠牲よ。
笑顔のまま、心の中で繰り返す。
言い聞かせるたび、何かが欠けていく音がするのに。
そのとき、魔王の背後から──リディアが姿を見せた。
白衣ではない。聖女の装いではない。
ただの、ひとりの女。
ざわめきが変質した。
「偽聖女……?」「処刑されたはずの……」「魔王の──」
王太子の顔が歪む。
「リディア……! 戻ってきたのか!」
その声に、前世の上司が重なって、リディアの背中が冷えた。
都合がいい時だけ名を呼ぶ声。
リディアは、一歩も前に出ない。
奇跡も起こさない。
正義にならない。
ただ、アシュレイの隣に立つ。
その立ち位置が、王都の依存を壊す。
偽聖女エレノラの光が、ぐらりと揺れた。
中心が抜けた炎のように、輪郭が崩れる。
「……な、なんで」
偽聖女エレノラの口元が震える。
──なんで、あの女が聖女の顔をしないの?
救わないの?
祈らないの?
縋らないの?
それは、偽聖女エレノラが最も恐れている姿だった。
選ばれないまま立つ人間。
魔王が、祭壇を見上げて言った。
「終わりだ」
偽聖女エレノラは叫ぶ。
「終わりじゃない! 私が聖女よ! 私が選ばれたの!」
その瞬間、リディアが、初めて口を開いた。
「……選ばれたんじゃない」
静かな声。
けれど、聖堂の空気が割れるほど確かな声。
「あなたは、選ばれたいって言って、誰かを押しのけ続けただけ」
偽聖女エレノラの瞳が見開かれる。
「黙って! あなたに何がわかるのよ! 何もしてないのに──!」
リディアは言い返さない。
ただ、息を吸って、吐く。
「わかるよ」
短く言う。
「前世でも、あなたはそうだった」
偽聖女エレノラの顔が歪む。
理解された瞬間、人は暴れる。
暴れたくなるほど、真実は痛い。
「違う! 私は……私は……!」
偽聖女エレノラは祈った。
もっと大きな奇跡を。もっと強い光を。
全員を黙らせる光を。
禁じ手が、暴れた。
光は一瞬、天井を突き破るほど膨らみ──
次の瞬間、逆流した。
祭壇の床に、ひび割れのような光の痕が走る。
偽聖女エレノラの皮膚に、同じ痕が走る。
「……っ、あ……!」
膝が崩れる。
彼女は理解している。
代償は命。
返済は必ず来る。
──でも。
──いやだ。
心の底が叫ぶ。
選ばれない未来は嫌だ。
ここまで来たのに、終わりは嫌だ。
偽聖女エレノラは涙で笑う。
「私は……聖女なのに……!」
アシュレイは、冷たく言った。
「知識は選択の代わりにならない」
そして、リディアの肩に、ほんのわずか影が落ちる。
彼が、リディアの前に立つ。
盾になる。
触れないのに、守る。
守るのに、奪わない。
そのぎりぎりが、恋の限界を刺す。
リディアは息を止めた。
──この人、今、触れたら終わる。
魔王は世界を敵に回す覚悟をしている。
同時に、リディアの選択を奪わない覚悟もしている。
両方を背負っているから、彼は触れない。
だからリディアは、触れないまま、囁いた。
「……アシュレイ」
名前を呼ぶ。
それだけで、彼の背中がほんの少し震えた。
「私は、聖女じゃない」
祈らない。救わない。
でも──逃げない。
「それでも、ここにいる」
その宣言を聞いた瞬間。
アシュレイの呼吸が一度、乱れた。
彼は振り返らずに、低く答えた。
「……知っている」
それ以上、言えない声だった。
偽聖女エレノラの光は、崩れ続ける。
聖堂の灯りが、ただの灯火に戻っていく。
人々の歓声が、恐怖と沈黙に変わる。
王太子が叫ぶ。
「リディア! 戻れ! お前が必要だ!」
リディアは、ゆっくり首を振った。
「あなたの必要は、私の居場所じゃない」
その瞬間、王都の物語の土台が、軋んだ。
聖女が世界を救うという土台。
選ばれた者が正しいという土台。
アシュレイは、最後に一言だけ落とす。
「必要な犠牲で成り立つ世界なら、犠牲のない場所を、俺が作る」
そして、闇が裂けた。
魔王の道が開く。
リディアは、その裂け目の前で、ほんの少しだけ立ち止まった。
怖い。けれど──選ぶ。
アシュレイの背中に、言った。
「……離れないって約束、覚えてる?」
返事はない。
でも、彼の手が──ほんの少しだけ、後ろへ伸びた。
触れない。
触れないまま、指先が空を探る。
リディアは、そこへ自分の指先を重ねた。
指と指の間に、紙一枚分の距離。
それでも、熱が伝わる。
──触れなかった夜の続きが、ここにあった。
裂け目の向こうへ消える瞬間。
偽聖女エレノラの泣き声が、遠くで聞こえた。
選ばれたい、と。
選ばれないのが怖い、と。
理解して、進んで、戻れなくなった声が。
リディアは目を閉じる。
──私は、選ばれなくてもいい。
その代わり──
自分で選ぶ。
世界を敵に回す男の隣を。
━━魔王アシュレイの独白━━
──俺は、魔王だ。
奪う側で、壊す側で、選ばれない側だった。
だが今夜、王都で見た。
光が人を救い、同時に人を殺す。
歓声が命を隠し、祈りが責任を消す。
あの女は理解している。
代償が命だと知った上で、祈った。
選ばれたいからだ。
そして世界は、それを許した。
救われた数のほうが多いから、という顔をして。
……ふざけるな。
必要な犠牲という言葉は、
いつも選ばれない命に押しつけられる。
俺はそれを、何度も見てきた。
魔王として、利用してきた側だった。
だからこそ、今夜、決めた。
世界を壊すのは、復讐のためじゃない。
正義のためでもない。
──彼女のためだ。
あの女は、聖女にならなかった。
奇跡を起こさなかった。
それでも、俺の隣に立った。
触れたら終わる。
抱いたら選ばせてしまう。
だから触れない。
だが、触れないままでも、俺はもう──
手放せない。
選ばれない未来を選ぶと言った女を、世界の必要に食わせるくらいなら、世界のほうを飢えさせる。
明日、俺はさらに牙を剥く。
それでも彼女の指先の熱だけは、奪わない。
奪わずに、守る。
──それが、俺が初めて学んだ「愛」だ。




