必要な犠牲
魔王城の朝は、いつもより白かった。
霧が濃い。窓硝子の向こうで黒曜の塔がぼやけ、遠くの森の輪郭まで溶けている。城は静かだ。静かなのに、リディアの胸の中だけが騒がしい。
理由はひとつ。
昨夜、触れなかったからだ。
抱かれたわけでもない。口づけさえない。
ただ、同じ夜に同じ気配があって、触れられない距離が最後まで保たれて──それなのに、胸の奥は熱いままだった。
──こんなの、反則だ。
心臓の痛みは、幸福に似ている。
似ているから怖い。幸せは、壊れる前触れみたいにやって来る。前世でも、そうだった。少し楽になった途端、誰かの都合で踏まれた。
窓辺から離れ、リディアはローブの紐を結び直した。
今日も逃げられる。門は開く。結界は内側から解ける。誰も縛らない。──それが一番、縛ってくる。
廊下に出ると、足音がひとつ、吸い込まれるように近づいた。
振り向く前から、気配でわかる。
アシュレイ=ノクス。
黒い外套。金の瞳。いつもと同じはずなのに、今日はわずかに影が濃い。眠っていない目だ。けれど、その眠れなさを言い訳にしない顔。
「起きたか」
「……はい」
返事の短さが、距離を作る。
それが優しさだと、もうわかってしまった。
「朝食は」
「いただきました」
嘘ではない。けれど、味は覚えていない。
アシュレイはそれ以上聞かず、廊下を先に歩いた。歩幅が、わずかにリディアに合わせられている。追わせないのに、置いていかない。
中庭へ出ると、空気が冷たい。黒土の匂いが強い。
噴水の水音が、やけに大きく聞こえた。
アシュレイは噴水の縁に指を置いた。波紋が広がる。
それを見つめたまま、低く言う。
「王都で、死者が出た」
リディアの喉がひくりと鳴る。
「……また、偶然って?」
「偶然で済む数じゃない」
胸の奥が冷えた。
偽聖女の奇跡の裏で、灯りが消えていく。しかも、それは選べない。弱い命から、静かに。
「私が戻れば……」
言いかけて、リディアは自分の唇を噛んだ。
戻れば止められる、なんて。正義みたいな顔をした欲だ。自分を捨てることでしか世界に価値を示せない、昔の癖。
アシュレイの瞳が、鋭くなる。
「戻るな」
命令だった。
初めて、はっきりと。
「……どうして」
言葉が震える。怒りではない。怖さだ。
自分が「聖女」に引き戻される怖さと、彼に拒まれる怖さが混ざっている。
アシュレイは、霧の中のどこかを見たまま言う。
「おまえが動けば、王都は正義を手に入れる」
「正義……?」
「おまえの力は、依存を生む。依存は、必ず誰かを焼く」
理屈の刃。
でも、彼の声の底に怒りがある。王都に。偽聖女に。──そして、世界の構造に。
リディアは息を吐いた。
胸が苦しい。だが、黙って守られるだけも嫌だ。
「じゃあ、私は……何をすればいいの」
その問いに、アシュレイはすぐ答えない。
沈黙が落ちた。噴水の音だけが続く。
やがて、彼は一歩近づいた。
近い。息の温度がわかる距離。けれど、触れない。触れないことが、昨夜よりもずっと苦しい。
「……選べ」
また、その言葉。
「選べ、って」
「おまえのまま、ここにいるか。聖女として、王都へ戻るか」
どちらも、痛い。
戻れば、使われる。ここにいれば、誰かが死ぬのを遠くで聞くかもしれない。
リディアは、思わず口にした。
「……ずるい。どっちも、私が悪いみたい」
アシュレイの瞳が揺れた。ほんの一瞬。
彼は小さく息を吐き、言う。
「悪いのは世界だ」
それは、慰めじゃない。
断罪でもない。
事実だ、と言っている。
リディアは、その言葉に救われそうになって、逆に怖くなった。救われると、依存する。依存すると、選べなくなる。
霧が少し薄れ、空の裂け目のような淡い光が遠くに揺れた。
王都の方向。偽聖女の奇跡が、また空気を歪ませている。
アシュレイの空気が変わる。
甘さが消え、刃になる。
「来る」
「何が……?」
彼は片手を上げ、空中に黒い膜を裂いた。
そこに映ったのは、王都中央聖堂。
聖堂は、光で満ちていた。
白い衣の偽聖女エレノラが祭壇に立ち、両手を掲げている。群衆が泣き、祈り、歓声を上げる。王太子は誇らしげに頷き、貴族は金の箱を差し出していた。
「聖女様……! どうか、次も!」
「救いを……!」
その声が気持ちいい。
偽聖女エレノラは、知っている。自分の笑顔が、どれほど世界を従わせるか。
──私が選ばれるはずだった。
前世でも、この世界でも。
選ばれるために努力した。媚びた。蹴落とした。泣いたふりも、弱いふりも、全部覚えた。
──なのに、あの女は。
処刑台で、魔王は自分を見なかった。
選ばれないはずの魔王が、よりにもよって「選ばれない女」を拾った。
許せない。
──なら、選ばれない方を消せばいい。
偽聖女エレノラは微笑んだまま、指先だけを強く握る。
禁じ手は理解して使っている。癒す代わりに、別の命が削られる。対象は選べない。弱いところから落ちる。
──選べない? 違う。
選べないのは、犠牲になる側だ。
自分は選べる。
聖女でいる方を。
だから、今日も祈る。
「皆さん、大丈夫です。私が── 救います」
光が広がる。
壇下の兵が息を吹き返し、泣きながら床に額を擦りつける。歓声。拍手。祈り。
けれど、映像の端で。
柱の陰で。
小さな子どもが、音もなく崩れた。
誰も見ない。見たくない。
母親が叫ぶ声は、歓声に飲まれる。
「……っ」
偽聖女エレノラの喉が詰まる。
一瞬だけ、胸の奥が冷えた。
──増えてる。
偶然じゃない。
理解してる。
理解しているのに、止めない。
──止めたら、私は……選ばれない。
その恐怖が、彼女を祈らせる。
祈りは奇跡になる。奇跡は犠牲を呼ぶ。犠牲は隠される。隠されたまま、拍手だけが増える。
──いいの。必要な犠牲よ。
偽聖女は、笑顔を崩さない。
黒い膜が閉じられた瞬間、リディアは息を止めていた。
喉が痛い。胃が冷たい。
「……見た?」
「見せた」
アシュレイの声が低い。
「私、あの子を止められる?」
自分でも驚くほど、真剣な声が出た。
アシュレイは、すぐに首を振らない。肯定もしない。ただ、言う。
「止める方法はある」
「……何?」
彼は一歩、近づく。
リディアの指先に視線を落とす。震えている指を、触れそうで触れない距離で見つめる。
「おまえが聖女に戻らないことだ」
胸が痛む。
でも、意味がわかる。戻れば、王都はまた依存する。依存は、犠牲を増やす。偽聖女は、その依存の上で輝く。
「……私がいない方が、止まるの?」
「依存の核が消える。奇跡は続かない」
それは、世界を救う答えじゃない。
でも、世界の熱狂を冷ます答えだ。
リディアは唇を噛んだ。
自分が「正義」になりたい欲を、ここで捨てなければならない。
「……私、怖い」
小さく言うと、アシュレイの瞳が柔らかくなる。
柔らかくなって、すぐに硬くなる。理性が上から押さえつける。
「恐怖は正常だ」
「でも、私……」
言葉が続かない。
怖いのは世界じゃない。自分の中に芽生えた、彼への欲だ。
触れてほしい。
触れられたら終わる。
終わる、というのは──きっと、選べなくなること。
アシュレイの喉が動く。
彼は手を伸ばしかけて、止めた。昨夜と同じ。違うのは、止める理由が今夜は世界のせいでさらに重いこと。
「……俺は、簡単に奪う」
ぽつりと落ちる声。
「奪ったら、おまえは選べなくなる」
リディアは、目を逸らさなかった。
逸らしたら、この距離は崩れる。
「……じゃあ、どうしたらいいの」
アシュレイは、ほんの少しだけ眉を寄せた。苦しそうに。
そして、呟いた。
「必要な犠牲なんて言葉を、選ばれなかった側に押しつける世界を──俺は、許さない」
胸がトクトクトク……とこれ以上なく早く打つ。
恋の告白じゃない。
でも、恋より深い誓いみたいに響いた。
リディアは、震える息を吐き、言った。
「……私も、許さない」
その言葉は、自分に向けた宣言だった。
聖女に戻らない。正義にならない。
でも、目を逸らさない。
アシュレイは、初めてほんの少しだけ笑った。
笑ったのに、触れない。
「なら、覚悟しろ」
「……何の?」
「選ばれないまま、生きる覚悟だ」
リディアは、頷いた。
怖い。けれど──選べる。
霧の向こうで、王都の光がまた揺れた。
誰かの奇跡が、誰かの命を削っている。
でも。
その歪みを「必要な犠牲」と呼ばせないために、
彼は世界を敵に回すのだろう。
そしてリディアは気づく。
この男が触れないのは、優しいからじゃない。
優しさだけなら、抱きしめて終わる。
触れないのは──
奪う自分を知っているからだ。
だからこそ。
──恋って、こんなに残酷で、こんなに温かいんだ。
リディアは、胸の奥が静かに燃えるのを感じながら、霧の中へ歩き出した。
選ばれない未来の方へ。
奪われない場所の方へ。
━━魔王アシュレイの独白━━
──必要な犠牲。
人はそれを、いつも自分以外に支払わせる。
奇跡のため。秩序のため。多くを救うため。
そう言えば、血の匂いは見えなくなる。
王都で起きていることは、もう偶然じゃない。
命が削られている。均等ではない。選ばれていない場所から、静かに。
……あの女は、理解している。
副作用を知らずに奇跡を使っているわけじゃない。
知った上で、続けている。
選ばれたいからだ。
そして世界は、それを許す。
救われた者の歓声のほうが大きいからだ。
──胸が、焼ける。
俺は知っている。
その構図を。魔王である限り、俺もまた犠牲を当然とする側だった。
だが──彼女が、そこにいる。
選ばれなかった過去を持ち、役を押しつけられ、それでも自分で選ぶことを諦めなかった女が。
触れなかった夜、俺は欲を抑えた。
だが抑えたのは、彼女への欲だけだ。
世界への怒りは、むしろ、はっきりした。
──必要な犠牲? ふざけるな。
誰かを削って成り立つ奇跡なら、それは奇跡じゃない。
ただの、選ばれなかった命の搾取だ。
次は、退かない。
彼女を守るためでも、恋を守るためでもない。
選ばれない者が、選ばれないまま生きていい世界を、俺が壊す。
魔王としてではない。
──彼女に触れなかった男として。




