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触れなかった夜

 夜の魔王城は、昼よりも静かで、静かすぎるせいで心の音が増幅される。


 回廊の魔導灯は半分だけ落とされ、灯りの残る場所と影の濃い場所が、薄い布みたいに交互に並んでいる。風が塔の外壁を撫でるたび、低く、鈍い音が鳴った。鎖が擦れるような、扉が呼吸するような、規則のある音。


 怖いはずの音なのに、リディアはそれを「落ち着く」と思ってしまった自分が嫌で、眠れずにいた。


 寝台の上で身体を起こし、膝を抱える。絹のシーツは冷たい。でも、冷たいことが安心になる瞬間がある。王都の白い聖衣はいつも温度がなかった。誰かの視線と役割だけがまとわりついて、肌に触れるものが何ひとつ自分の味方じゃなかった。


 ここは違う。


 違うから、怖い。


 ──慣れてしまうのが、怖い。


 扉の向こうで、足音が止まった。急がない、迷わない。たった一人の足音が、この城の静けさを割る。


 ノックはない。ノックがなくても、荒々しさは感じない。扉が開く音は、むしろ遠慮がちだった。


「……入る」


 低い声が落ちる。


 振り向く前に、その声だけで胸が震えた。理由が分かるから、余計に苦しい。


「はい」


 返事がなめらかなように言ったつもりだったが、喉の奥がかすれた。


 アシュレイ=ノクスが、部屋の入り口に立っていた。外套は羽織っていない。剣も持っていない。戦場の魔王ではなく、夜の男の姿。暗い髪が火の光に微かに色を帯び、金の瞳だけが熱を持つ。


 彼は一歩も近づかず、扉を閉めもしない。逃げ道を残す癖。優しさの形をした、頑固な自制。


「眠れないか」


「少しだけ」


 嘘ではない。眠れない理由も言える。言えるのに、言わない。


 ──もし言ったら、彼のせいになるから。


 彼は暖炉の方へ視線を移した。炎が小さく揺れ、火花が弾ける音だけが、沈黙を薄く繋いだ。


「王都の報告を聞いた」


 その一言で、背中が冷えた。


「……また、倒れたんですか」


「目を覚まさない子どもが増えた」


 リディアは唇を噛んだ。言葉の裏にあるものが見える。王都はそれを偶然にする。祈りと拍手で包んで、誰にも責任を持たせない。


「私が戻れば……止められる、のかな」


 自分の口から出た言葉に、驚いた。止めたい? それとも──戻りたい?

 いや、違う。戻れば「役」に戻る。聖女の椅子に縛られる。再び選ばれる側の地獄へ行く。


 アシュレイは、即答しなかった。沈黙が重くなる前に、彼は低く言った。


「戻るな」


 命令。今までの彼の言葉の中で、一番強い。


 リディアは反射的に顔を上げた。


「どうして。誰かが死んでるのに」


「おまえが動けば、正義が完成する」


 冷たい理屈。なのに、彼の声の底に焦りが混じっている。


「偽りでも救いに見える力は依存を生む。依存は、次の犠牲を必要とする。……子どもが死ぬ」


 リディアの胸が痛いほど締まった。分かる。分かるから、悔しい。


「じゃあ私は、何もできないの?」


 声が震えた。情けない。前世でもこんなふうに泣き言を言えなかったのに。


 アシュレイは、ゆっくり一歩だけ近づいた。距離が詰まる。息が混じる手前で止まる。触れない。触れないことが、今夜は拷問みたいに甘い。


「できる」


「……何が」


「選べ」


 また、その言葉。


 リディアは笑いそうになった。選べと言われ続けて、選ぶことが怖くなくなり始めている自分が、怖い。


「……私、幸せなんです」


 ぽつりと落ちた言葉は、火花より小さかったのに、部屋の空気を変えた。


「ここが。あなたが……」


 最後まで言えなくて、視線が落ちる。自分の指先がシーツを握り潰しているのが見える。震えている。


 アシュレイの視線が、その震えを拾った。


「なぜ、不安になる」


 優しさの形をした問い。


「幸せって、壊れる前が一番静かだから」


 前世で学んだ。

 少し楽になったと思ったら、人は期待し、都合よく寄りかかり、最後には当然みたいに奪っていく。


 だから、怖い。

 こんな夜が続くほど、怖い。


 アシュレイは、しばらく黙っていた。沈黙はいつもの癖。でも今夜の沈黙は、言葉を選ぶためではなく、何かを噛み殺すためのものだった。


「……俺も、限界だ」


 低い声が、ほんの少し掠れていた。


 リディアの心臓が苦しいほど跳ねる。


「欲しい」


 飾りのない一語。


「抱きたい。触れたい。おまえを、俺のものにしたい」


 甘さじゃない。生々しい熱。逃げ道のない正直さ。

 それを言う彼の喉が、わずかに動いた。まるで、言葉が刃で、自分の喉を傷つけるのを知っているみたいに。


 リディアは息ができなくなる。


「……じゃあ、触れて」


 言ってしまった。


 言ってから、全身が熱くなる。何を言ったの? 私。

 でも、言いたかった。触れられない距離が苦しい。守られているのに、置いて行かれている気がする。


 アシュレイの目が、一瞬だけ揺れた。理性が軋む音がした気がする。


 彼は近づく。

 あと一歩で触れられる距離で──止まった。


「それをやれば、おまえは選ばされた女になる」


 胸の奥が、痛いほど熱い。


「そうじゃない。……でも」


 リディアは立ち上がった。自分から一歩踏み出す。彼の影に近づく。触れれば簡単に終わる距離。終わる、という言葉が頭に刺さる。

 触れた瞬間、何かが壊れて戻れなくなる予感があるのに、足が止まらない。


「私は、選びたい」


 リディアは自分の胸に手を当てた。心臓がうるさい。


「あなたに触れたい。……でも、命令されたいわけじゃない。檻に閉じ込められたいわけでもない」


 アシュレイの指先が震えた。拳を作って堪える。

 触れない。触れないまま、言う。


「だから、奪わない」


 低く、苦しそうに。


「おまえが望んだと俺が信じ切れるまで、俺は触れない」


 その言葉は、拒絶じゃない。

 むしろ──恐ろしいほどの尊重だった。


 リディアは、泣きそうになって笑った。笑うしかなかった。


「……ひどい」


「自覚はある」


 短い返答。いつも通りの無口。なのに、今夜だけは愛が漏れている。止まらないのを必死で押し込めている。


 リディアは、息を吸って言った。


「逃げません」


 アシュレイの瞳が、わずかに細くなる。


「ここから逃げません。……あなたの城からじゃない。あなたから」


 言った瞬間、恥ずかしさで死にそうになった。でも撤回しない。撤回したら、また前世の自分に戻る。


 アシュレイは、数秒、動かなかった。


 そして──触れない代わりに、そっと額に口づけた。


 唇ではない。

 抱擁でもない。

 でも、その温度だけで、リディアの全身がほどけてしまいそうになった。


「今夜は、ここまでだ」


 声が掠れている。


「……次は、戻れない」


 それは警告で、予告で、恋の宣告だった。


 リディアは小さく頷いた。

 触れられていないのに、胸が満ちている。満ちすぎて苦しい。


 アシュレイは、扉の方へ下がった。距離を作る。逃げ道を残す。

 その優しさが、今夜は一番残酷だ。


 扉の前で、彼が短く言った。


「泣くな」


 リディアは、涙が落ちる寸前で笑った。


「……泣いてないです」


「嘘だ」


 彼の声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。

 それだけで、リディアは世界が救われた気がした。



 一方、王都。


 地下聖堂の奥、香と血の匂いが混ざる祭壇で、偽聖女エレノラは祈っていた。白い衣は清らかで、光輪はまだ保っている。外側だけは、完璧な選ばれた姿。


 ──でも、彼女は知っている。


 奇跡は、命を削る。

 しかも、対象は選べない。

 近くにいる弱い命から、静かに。


 今夜も一人、目を覚まさない子どもが増えた。

 医師は首を振り、教会は沈黙し、人々は「仕方ない」と呟いた。


 仕方ない、で済ませた瞬間、世界はもう戻れない。


 エレノラは唇を噛んだ。震えているのは恐怖じゃない。焦りだ。


 ──光が……弱い。


 祈るほど、指先から零れる砂みたいに、力が抜けていく。人々の期待が膨らむほど、奇跡は大きさを要求する。大きさを要求されるほど、代償は増える。


 分かっている。

 分かっているのに、やめられない。


 やめたら、選ばれない。

 選ばれなかったら、私は何者でもない。


 前世でもそうだった。

 努力した、頑張った、我慢した、と言い張った。

 でも本当は、選ばれる場所に立ちたかっただけ。拍手が欲しかっただけ。


 ──あの女が奪ったんじゃない。私が、負けたんだ。


 その事実だけは、受け入れたくなかった。


「……必要な犠牲よ」


 エレノラは笑う。綺麗に。涙を隠して。


「だって私は、聖女なんだから。聖女は正しいの」


 禁じ手の式文をなぞる。

 光が赤く濁り、祭壇の下で何かが脈打った。


 この瞬間、彼女は理解した上で踏み込んだ。

 戻れないと知りながら、自分の居場所のために、他人の命を差し出す側へ。


 ──破滅は、もう物語の終盤じゃない。今夜、始まった。



 同じ夜。


 魔王城の回廊で、アシュレイは壁に手をついていた。呼吸が浅い。自分の体が、理性に従っていない。


 ──触れなかった


 それが誇りで、同時に罰だ。


 彼女の額に残る温度が、指先に焼き付いている。

 抱けば楽になる。奪えば満たされる。

 でもそれは、彼女の選択を消す。


 ……欲しい


 欲しいと思った瞬間、彼は自分が魔王であることを思い出す。奪う者。選ばせない者。

 だからこそ、今夜は触れない。


 だが──世界は別の形で、誰かを奪っている。


 王都の奇跡の裏で、命が減っている。

 その違和感は、もう誤魔化せないほど濃くなっている。


 ──次は


 彼は、低く呟く。


 ──次は、退かない


 彼女の意思を守るために。

 彼女が「選ぶ」ための未来を守るために。


 魔王は、初めて守るという行為の重さを知った。


 触れなかった夜は、終わる。


 代償は──

 恋にも、奇跡にも、等しく訪れる。




『……今夜は、触れない。

触れたら、おまえを「選ばせてしまう」からだ』


━━ 魔王アシュレイの独白━━


 ──触れなかった。


 それだけのことが、

 これほど重いとは思わなかった。


 彼女は、そこにいた。

 同じ夜を、同じ空気を、同じ温度を分け合いながら。

 手を伸ばせば届く距離で、息をすれば混ざる距離で。


 それでも、触れなかった。


 守るためじゃない。

 優しさでも、誇りでもない。


 ただ──

 欲しいと知ってしまったからだ。


 欲しい。

 奪いたい。

 選ばせずに、俺のものにしたい。


 それができる力を、俺は持っている。

 魔王として、生きてきた証のように。


 だが、その瞬間に、彼女は救われる側になる。

 選んだのではなく、選ばされた存在になる。


 それだけは、許せなかった。


 彼女がここにいるのは、逃げられないからじゃない。

 縛られているからでもない。


 ──選んでいるからだ。


 その選択を、俺の欲で汚すくらいなら、この痛みを引き受けるほうがいい。


 触れなかった夜は、欲を失った夜じゃない。


 欲を知り、なお抑えた夜だ。


 だから胸が焼ける。

 だから眠れない。

 だから、次が怖い。


 もし次に、彼女が自分の意思で俺に触れたなら──

 その時こそ、俺は世界を敵に回す。


 魔王としてではなく、一人の男として。


 ……その覚悟だけが、今夜、俺に残った。


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