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檻が恋に変わる時

 魔王城での時間は、奇妙な静けさを伴って流れていく。


 朝は鐘ではなく、風で始まる。回廊を抜けた冷たい風が薄いカーテンを揺らし、どこか遠くで水音がする。王都のように祈りが反響しないぶん、心臓の音がやけに大きく聞こえた。


 ──ここは魔王の城。

 そう思い出すたび、同時にもうひとつの事実も浮かぶ。


 逃げられる。


 以前確かめた通り、扉に鍵はなく、門は閉じていない。結界も内側から解除できる。誰も私の足首に鎖をつけていない。逃げようと思えば、今すぐ走れる。


 なのに──走らない。


 中庭のベンチに腰を下ろし、両手で温かな茶杯を包む。侍女が淹れてくれた香草茶は素朴で、王都の高級茶よりずっと優しい味がした。蜂蜜の甘さが喉をなでるたび、ここが檻らしくないことが腹立たしい。


「……どうして、ここにいるんだろう」


 独り言が霧に溶けた。


 答えは、わかっている。わかっているから怖い。

 この城の静けさに慣れたら、王都の喧騒に戻れなくなる。

 それは楽で、そして──恋、に似ている。


 足音がして、顔を上げた。


 黒衣の裾が視界に入っただけで、胸が高鳴る。いつから私は、こんな反応を覚えてしまったのだろう。断頭台で抱きとめられた瞬間から? それとも、触れない距離を守られ続けたせい?


 アシュレイ=ノクス。魔王。


 彼は、朝の霧の中でさえ輪郭がはっきりしている。黒い外套、手袋、金の瞳。──怖いはずの男なのに、私の身体は危険より先に安心を覚えてしまう。


「寒いか」


 短い言葉が落ちる。


「いえ。ちょうど、いいです」


 嘘じゃない。王都で聖女だったころ、私はいつも寒かった。白い衣は清らかで、誰の体温も許さなかった。優しい言葉も、慈悲も、全部役割のための温度だった。


 彼は向かいのベンチに腰を下ろした。距離は腕一本分。近すぎず、遠すぎず。──意識せずにいられない距離。


 沈黙が落ちる。

 会話が途切れた瞬間、私は彼の手袋を見てしまう。


 あの手で、私は抱き上げられた。

 あの手で、私は死なずに済んだ。

 あの手は──触れそうで、触れない。


「今日は出かけないのか」


「……え?」


「城の外。市場でも、森でも。止めはしない」


 止めない。

 その言葉はいつも胸をひりつかせる。行ける。戻れる。王都へ。

 でも、行けると言われるたびに私は気づく──私は「行かない自由」のほうが欲しいのだと。


 茶杯の湯気を見つめた。湯気は、逃げるみたいに上へ溶けていく。


「……行きません」


 声が思ったよりはっきりしていて、私自身が驚いた。


 アシュレイは私を見た。責めるでも、試すでもない。ただ、結果を受け取る目。


「理由は」


 問いに、喉が詰まる。

 理由なんて、言い訳みたいで嫌だ。

 でも、言わないと伝わらない。「ここにいる」を、自分の意思にしたい。


「……今は、ここにいたいから」


 言い切った瞬間、胸が震えた。

 誰かに与えられた役じゃない。恐怖で縛られた選択でもない。

 私は、私で選んだ。


 アシュレイは、ほんのわずか息を吐いた。


「そうか」


 それだけ。


 なのにその一言が、丁寧に撫でられたみたいに私の中へ落ちてきて、喉の奥が熱くなる。肯定された、というより──受け取られた感覚。


 その日から、城の時間は少しだけ色を変えた。


 朝、回廊で目が合う。

 昼、書庫で黙って同じ本を読む。

 夜、同じ食卓につく。


 会話は多くない。けれど沈黙が苦しくない。

 恋愛シミュレーションゲームで言うなら、何も起きないイベントの連続だ。


 ──なのに、胸は満たされていく。


 ある午後。書庫で古い記録をめくっていると、背後に気配が立った。

 振り向かなくてもわかる。近づく足音が、私の心臓と同じテンポを刻む。


「……また難しい本か」


 低い声が耳元の少し後ろに落ちる。近い。思わず背筋が伸びる。

 紙の匂いと、彼の体温の気配が混ざる。


「聖女と魔王の関係史です。ほとんどが血で終わってる」


「当然だ」


「……私がここにいるのは、やっぱりおかしい」


 ぽつりと零すと、アシュレイは本棚に手を伸ばし、淡々と返した。


「どこが」


「歴史的に。聖女と魔王は敵同士で……」


「歴史は勝者が書く」


 短い言葉が、刃みたいに正しい。

 それなのに、痛くない。むしろ、胸の奥を軽くする。


 アシュレイは本を棚に戻し、私の隣に立った。距離が近い。

 けれど彼は、触れない。触れないように立っている。


 その触れない努力が、息苦しいほど甘い。


「それに」


 彼は視線を本ではなく、私に落とした。


「おまえは、聖女という役を降りた」


 降りた。

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。

 奪われた、ではなく、降りた。──自分の意思が、そこに混ざる。


「だから、俺の前にいる」


 役ではなく、リディアとして。

 その事実が、じわじわ私を追い詰める。逃げ道を塞がれた気がするのに、嫌じゃない。


 夕暮れ。


 城壁の上で、沈む赤を見つめていると、隣に気配が立った。

 いつの間にか、彼がいる。こういう登場の仕方がずるい。心臓が準備できない。


 私は唇を噛んだ。


「……王都、どうなってますか」


「表向きは、平穏だ」


 表向き。

 引っかかる言葉。胸の奥が冷える。


「……偽聖女エレノラは」


「奇跡を続けている」


 続けている、という言い方が淡々としているのに、底に怒りがある気がした。

 あの奇跡が、何を代価にしているか。

 彼は知っているのだろうか。

 それとも、確信に近づいている?


 沈黙が伸びる。


 言わなきゃ。

 ここに残ると決めた理由を、曖昧なままにしたくない。

 私は、また流される女になりたくない。


「私」


 声が震える。


「ここに残るって決めました。でも、それが正しいかどうか、わからなくて……」


 アシュレイはすぐには答えない。視線は夕陽の向こう。


「正しさは後から決まる」


「……じゃあ、今は」


「今は、選択だ」


 選択。

 自分で選ぶこと。

 その言葉だけで泣きそうになるのは、前世の私は選ばれる側になれないと思い込んでいたからだ。


 勇気を絞り出す。


「……私、あなたのそばが楽です」


 告白ではない。けれど、言い逃れできない一歩。


「安心してしまうのが、怖いくらい」


 言った瞬間、風が冷たくなる。

 アシュレイの指が、城壁の縁を掴んだ。ぎゅ、と音がするほど強い。


 彼の中で、何かが堪えられているのがわかる。


「それは」


 言葉が切れた。

 次に落ちた声は、ひどく低い。


「……俺にとっても、同じだ」


 胸がとび跳ねて、息が止まる。


 彼はゆっくりこちらを向いた。金の瞳が夕焼けを映している。

 その瞳に、私は映っている。

 聖女じゃない私が。


「勘違いするな。俺は善人じゃない」


「……知ってます」


「守護者でも救世主でもない」


 一歩、距離が詰まる。

 近い。息の温度がわかる距離。

 でも──触れない。触れないように、ぎりぎりで止まる。


 その止まり方が、恋の形をしている。


 私は、喉が鳴るのを感じた。恥ずかしい。怖い。

 それでも、目を逸らしたくない。


 アシュレイが言う。


「守っているんじゃない」


 低く、はっきりと。


「俺は──欲しいんだ」


 欲しい。

 その言葉が甘くて、怖くて、どうしようもなく胸を締めつけた。

 愛してるより、ずっと乱暴で正直で、逃げ道がない。


 前世の私は、恋を避けた。

 欲しいと言われるのが怖かった。欲しいと言うのも怖かった。

 欲望は、奪う側の言葉だと思っていたから。


 でも今、彼の「欲しい」は奪う音じゃない。

 抑えたまま差し出される、危うい誠実さだ。


 私は、震える息を押し込めて言った。


「……それでも、いいです」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


「欲しいって言われるの、嫌じゃない」


 アシュレイの瞳が、大きく揺れた。

 初めて見る、はっきりした動揺。


 ──甘い毒が、ここに完成した。


 彼は、触れなかった。


 代わりに、触れないまま、短く言った。


「後悔させない」


 約束でも命令でもない。

 私の選択を尊重する言葉。


 その瞬間、私は確信した。


 檻だと思っていたこの場所は、もう檻ではない。

 ──恋だ。


 王都ではその夜も奇跡が起きた。

 そして誰にも気づかれないまま、もうひとつの灯が消えた。


 偶然として。

 誰にも選ばれない犠牲として。


 けれど、私は知っている。

 誰にも選ばれない未来にこそ、奪われない場所がある。


 私は、城壁の上で一歩だけ彼に近づいた。

 触れない距離。けれど、もう逃げない距離。


「……ねえ、アシュレイ」


 声が震える。


「次は、触れてもいいですか」


 言った瞬間、心臓が壊れそうに鳴った。

 彼の喉が動く。飲み込むみたいに。


 答えは、すぐには来ない。

 けれど沈黙の中で、彼は一つだけ確かな動きをした。


 ──私の前に、立った。


 王都の光から、世界の嵐から、私を隠すみたいに。


「……次は」


 言いかけて、止めた。


 その止めたのが、答えより甘い。


 私は胸の奥で決める。


 私は檻に囚われているんじゃない。

 私は──自分で、この場所を選んでいる。


 そしてこの恋は、次の夜へと、私たちを連れていく。




『……後悔させない』


━━ 魔王アシュレイの独白━━


 言ってしまった。

 ──欲しい、などと。


 あの言葉は本来、奪う者の言葉だ。

 だが俺は、奪うために口にしたんじゃない。奪えば、彼女はまた選ばされるを得ない。王都でそうだったように。役割に押し潰され、笑って耐えるふりをして、最後は処刑台に立つ。


 それだけは、もう二度と見たくない。


 彼女は「嫌じゃない」と言った。

 その瞬間、胸の奥に棘が刺さったみたいに痛かった。

 嬉しいからだ。

 そして、怖いからだ。


 俺は魔王だ。

 触れれば、壊せる。抱けば、閉じ込められる。

 力で囲えば、彼女は逃げられない。

 ──簡単すぎて、吐き気がする。


 彼女に必要なのは鎖じゃない。

 逃げられると知ったうえで、それでも戻ってくるという選択だ。

 俺は、その選択だけが欲しい。


 だから触れない。

 触れないまま、欲しいと言う。

 矛盾している。愚かだ。

 だが、ここで理性を失えば、俺は彼女の世界にいた連中と同じになる。


 ……なのに。


 彼女が一歩近づいた。

 触れない距離を、自分で作って。

 あんな目で、「次は触れてもいい?」と聞いた。


 俺は、答えを喉で噛み殺した。

 「いい」と口にした瞬間、俺は自分を止められなくなる気がしたからだ。


 それでも──逃げ出さなかった。

 彼女は、逃げられる檻の中で、逃げないことを選んだ。


 誰にも選ばれなかった女が、俺を選びかけている。


 その事実だけで、胸が熱くなる。

 愛だと呼ぶには乱暴で、欲だと呼ぶには切実だ。

 たぶん、俺のこれは、祈りに近い。


 まだ触れない。

 けれど、彼女の前には立つ。

 世界がまた彼女を聖女に引き戻そうとするなら、俺が盾になる。


 後悔させない。

 彼女が自分で選んだ未来を、

 『選ばれない』まま守り切る。


 ──そのためなら、魔王でいることを、何度でも選ぶ。


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