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触れる前の距離

 魔王城の朝は、静けさがまず先に起きる。


 目を開けた瞬間、音がない。誰かの足音も、遠くの鐘も、忙しない息づかいも。あるのは、窓硝子の向こうで霧がゆっくり形を変えていく気配だけだ。黒曜の塔の輪郭が、白い布を一枚ずつ剥がされるみたいに浮かんでは消える。


 風が通り抜けるたび、どこか遠くで鎖が鳴ったような音がした。けれど怖くない。


 怖くないことが、悔しい。


 リディアはベッドの端に腰掛け、指先でシーツをつまんだ。絹の冷たさが、現実に引き戻してくる。


 ──檻だ。


 そう思えば思うほど、この城は檻らしくない。


 食事は温かく、衣は柔らかく、侍女は必要以上に部屋へ入ってこない。鍵は内側からも外側からも掛かっていない。逃げようと思えば、いつでも逃げられる。


 ──それが一番、怖い。


 逃げる気が、少しずつ薄れていく。


 扉を叩く音がして、侍女が顔を覗かせた。


「リディア様。本日は庭へ。……陛下が、よろしければ、と」


 陛下。


 その呼び名だけで、心臓がトクンと余計に鳴った。


 魔王アシュレイ=ノクス。

 前世で恋愛シミュレーションゲームを起動するたび、攻略不可のサブキャラとして画面の隅に立っていた男。

 淡々と一言だけ落として、深いルートも救済もない。だからこそ、なぜか忘れられなかった。


 彼が、現実にいる。


 しかも──断頭台から、私を拾い上げた。


 リディアは深呼吸してから頷いた。


「……行きます」


 侍女がほっとしたように微笑む。


「よろしければ、外套を。霧が濃うございます」


 薄紫の外套を羽織ると、まだ少しだけ聖女の白が自分に残っている気がして、妙に居心地が悪かった。偽聖女の衣が白なら、本物の私は何色であればいいのだろう。


 ──そんなことを考えるのも、前世の癖だ。


 誰かに割り当てられた役割の中でしか、自分を肯定できなかった。


 魔王城の庭は、意外なほど柔らかい匂いがした。薔薇でも百合でもない。黒土の、雨上がりの匂い。生きている匂いだ。

 噴水の水音が淡く、鳥の声が霧に溶けている。


 石畳の向こう、噴水のそばにアシュレイが立っていた。


 黒衣。長い外套。手袋。金の瞳だけが、朝霧の中で熱を持つ。鋭い輪郭のはずなのに、その立ち姿は妙に静かで、ここだけ時が止まっているように見えた。


「来たか」


 たった三音なのに、胸がざわめく。優しいのか冷たいのか判別できない低さで、いつも心のいちばん柔らかいところを叩く。


「……はい」


 近づくと、アシュレイは噴水の縁を指で撫でた。水面に波紋が広がる。


「ここは安全だ。結界は二重。外から覗かれることも、聞かれることもない」


「……保護、のため?」


「そう聞きたい顔をしている」


 刺すように正確な指摘に、リディアは言葉に詰まった。


 支配なのか。監禁なのか。恩を着せて縛るつもりなのか。……そんな疑いを、彼に向ける資格が私にある?


 断頭台から救い上げたのは彼だ。命を拾ったのは私だ。なら私は、ただ黙って感謝して、彼の望む役割を演じればいいのでは──


 思考が黒い渦へ沈みかけた瞬間、アシュレイがふいに一歩、距離を詰めてきた。


 近い。


 息の温度がわかる距離。


 リディアは反射的に後ずさろうとして──石畳の端に踵が当たり、体が僅かに傾いた。


 ──落ちる。


 そう思う前に、手袋越しに手首を掴まれた。


 強い。だが、痛くない。支えられるだけの力。


 アシュレイの指が、手首の内側、脈の上に重なる。そこが熱くなり、脈が速くなる。


「……離して」


 声が、思ったより弱い。


 アシュレイは掴んだまま、目を細めた。


「離す。だが、倒れそうなら掴む」


「それ、……ずるいです」


「ずるい?」


「優しくするのに、怖い顔をする」


 言ってしまってから、リディアは目を見開いた。こんなことを口にする自分が信じられない。前世でも、こんな甘え方をしたことがないのに。


 アシュレイの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。霧の奥で火が瞬いたみたいに。


「怖い顔なら、慣れている」


「慣れないでください、私に」


 怖いまま、言葉にした。言い切った途端、心臓が強く鳴る。拒絶されたらどうしよう。笑われたらどうしよう。


 ──また、私だけが恥をかくのだろうか。


 けれどアシュレイは、手を放した。


 代わりに、リディアの外套の襟元を静かに整える。触れているのは布だけ。指が肌に触れないよう、徹底的に距離を守っている。


 その自制が、逆に息苦しい。


 ──触れられたい、って思った?


 自分の心臓の音がうるさくて、噴水の水音が遠のいた。


「リディア」


「……はい」


「城を見て回るか。逃げ道を含めて」


 逃げ道──その言葉に、胸がきゅっと締まった。


「逃げろってことですか?」


「逃げる自由があると、おまえが理解していないと意味がない」


「意味?」


「ここが檻に見えるうちは、俺の負けだ」


 さらりと言う。淡々と。まるで戦略の説明みたいに。けれど胸に落ちた熱は消えない。


 リディアは歩き出した。城の回廊は迷路のようで、曲がるたび景色が変わる。

 黒い絵画、古い書庫、音のしない礼拝堂。

 窓から差す光が薄く、石壁に反射して冷たいのに──足取りだけは軽くなる。


 途中、扉の前でアシュレイが立ち止まった。


「ここは入るな」


「どうして?」


「俺の寝所だ」


 リディアは胸が鳴るのを感じた。反射で視線が逸れる。男の私室。そこに意識が触れただけで頬が熱い。


「……じゃあ、私はどこに」


「客室だ。おまえの意思で、変えることもできる」


 変える、という言葉の余白が妙に艶めいて聞こえた。

 勝手に意味を拾って勝手に赤くなる。最低だ。


──なのに、彼は気づかないふりをする。気づいているのに、気づかないふりをしたのかもしれない。


 回廊の窓から遠くの空が見えた。王都の方向。霧よりも淡い光が、薄い布を被せたみたいに揺れている。


 ──王都。


 偽聖女エレノラがいる場所。


 背筋が冷えた。


「……王都は、今どうなってるんですか」


 アシュレイは少しだけ目を細めた。


「奇跡が起きている」


「……偽聖女の?」


「聖女エレノラと呼ばれているらしい」


 淡々と事実を置かれるだけで、胃が痛む。あの子が。

 前世で私を笑って蹴って、何もしてない顔で上に行った同僚が。

 今度は聖女の椅子まで奪って、王都の中心で拍手を浴びている。


 悔しい。悔しいのに、怖い。


 私が戻ったら、また断頭台だ。王都はもう、私を偽物として覚えている。


「でも……奇跡なら、いいことじゃないですか」


 自分で言いながら、声音が薄い。


 アシュレイは窓の外ではなく、リディアを見た。


「奇跡は、いつも対価を取る」


「……対価?」


 答えないまま、手袋の指で窓枠を軽く叩いた。コン、と乾いた音。


「王都の民は、救いに依存する。依存は、熱に似ている。燃えるほど、周囲を焼く」


 理屈の刃。なのに、その声の底に、怒りが混じっている気がした。怒っているのは王都でも、偽聖女エレノラでもない。


 ──私が焼かれたことに?


 そう思った瞬間、胸が痛いほど甘くなる。


 沈黙が増えるほど、聞きたいことが増える。そして聞いてはいけないことに触れそうになる。


 回廊の曲がり角で、リディアは足を止めた。


「アシュレイ様」


「……呼び方が変わったな」


「……呼び捨ては、できないです」


「なら、好きに呼べ」


 好きに──その言葉が、許可のようで、甘い檻の鍵みたいだった。


 言うべきか迷う。けれど逃げ道を教えられた以上、私も自分の言葉で動かなければ。


「私、戻るべきなんでしょうか」


 背中越しでもわかるほど、空気が変わった。


「王都に?」


「……はい。私が本物なら。証明しないと。奪われたままは、嫌で……」


 嫌だ、と言えたのは進歩だ。前世なら嫌だと思う前に諦めていた。


 アシュレイは振り向いた。霧の中で金の瞳がまっすぐ刺さる。


「戻れ」


 心臓が沈む。


 けれど次の言葉は意外だった。


「戻りたいと言うなら、止めない」


「……っ」


「だが、俺は戻れとは命じない」


 命じない。支配しない。


 それがわかった途端、胸の奥の硬い結び目が少しほどけた。


「……じゃあ、私は、どうすれば」


「選べ」


 選べ、と言われるだけで涙が出そうになる。

 王太子は私を役で切った。偽聖女エレノラは私を踏み台にした。

 けれど彼は、私に選ばせようとしている。


 リディアは息を吸って、言った。


「……怖いです」


「恐怖は、正常だ」


「でも、ここにいると……怖さが、薄くなる」


 言ってしまった。言葉が零れた。


 アシュレイの指が、ほんの少し動いた。手袋が、リディアの外套の袖に触れそうで触れない距離。


 触れない。触れないのに、触れているみたいに熱い。


「薄くなるのは、俺のせいか」


「……たぶん」


「なら、俺は罪深いな」


 罪深い。そんな言葉を自分に向けて軽く言う男。なのに瞳は真剣で、逃げない。


 王都からの伝令鳥が、城の上空をかすめて飛んでいった。遠い羽音。霧の奥で、鐘が鳴る。


 同じ頃、王都では「奇跡」が称えられているはずだ。


 病の子が治った。死にかけた兵が立ち上がった。聖女の光が街を包み、民が泣いて祈った。王太子が笑い、貴族が金を積んだ。


 そして、誰にも見えない場所で──ひとつ灯りが消えた。


 治ったはずの子の隣で、世話役の下女が倒れた。疲労では片づけられないほど血の気が引いた顔で。医師が首を振り、教会は沈黙し、偽聖女エレノラは「偶然です」と笑った。


 小さな犠牲。伏せられた対価。


 その影が、王都の光の裏で静かに伸び始めている。


 リディアはまだ知らない。けれど、アシュレイの背中は知っているようだった。


 彼はゆっくりと手を下ろした。触れそうだった距離が、元に戻る。


 胸が、痛いほどきゅっと締まる。


 触れてほしいのに、触れられるのが怖い。触れられたら終わってしまう気がする。自分が、自分でなくなる気がする。


 それでも言葉にしたい。


「……私、選びたいです」


「何を」


「檻かどうかじゃなくて。私が、ここにいたいかどうかを」


 アシュレイの瞳が、ほんの僅か柔らかくなった。


 そして、霧の中で彼が初めて欲を匂わせるように、短く呟いた。


「……今は、触れない。

 それでも欲しいと思った時点で、負けだ」


 負け──その言葉が、戦いの宣言ではなく、恋の降伏みたいに響いた。


 リディアの胸が、ドキンと破裂しそうに鳴った。


 触れていないのに。触れられてしまったみたいに。


 暖炉の火が、ぱちりと弾けた。


 その小さな音が、まるで次の夜──「檻」が別の名前に変わる合図みたいに聞こえた。




━━魔王アシュレイの独白━━


触れない、と決めた。


触れた瞬間、俺は奪う。

奪えば、彼女の「選ぶ」を殺す。


だから触れない。

……そう言い訳している。


指先ひとつで崩れそうなくせに、笑おうとする。

あれが憎い。

可愛いから、憎い。


王都の光が揺れている。

誰かが削られている匂いがする。


──間に合え。

俺の理性が折れる前に。


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