選ばれたはずの私
おかしい。
だって、聖女になるはずだったのは、私だ。
王都の大聖堂。金箔の柱に朝日が差し込むたび、床のモザイクが眩しくきらめく。祈りの声は天井の高みへ昇り、香の煙は白い雲みたいに漂っている。
その中心に立つ私の頭上で、光輪がやわらかく揺れていた。
人々は膝をつき、泣き、感謝を捧げる。
──ほら。これが、私の場所。なのに。
祭壇の奥に置かれた聖剣が、今朝に限って、ほんの一瞬だけ濁った。
透明な水に墨を落としたような、色の揺らぎ。
見間違い、と言い切るには短すぎる。確信するには長すぎる。
「……おかしいわね」
私は笑みを崩さず、唇の内側だけを噛んだ。
聖女の衣は、重い。誇りの重さだと皆は言う。
でも私にとっては、成功者だけが着られる正装だ。着ている限り、私は負けない。
──負ける、はずがない。
断頭台で首を落とされる役だった女。
偽聖女リディアは、もうこの世界に存在してはいけなかった。
原作では、彼女は処刑される。私は真の聖女エレノラとして選ばれる。
結末まで、私は知っている。イベントの順番も、台詞も、誰が誰を裏切るかも。
原作知識を完璧に持っているのは、私だけなのだから。
それなのに。
──どうして魔王が、あの女を見る?
胸の奥が、砂を噛むみたいにざらつく。
思い出すだけで、視界の端が暗くなる。
処刑台。群衆。宣告。刃。
リディアが落ちるはずだった瞬間──夜空が裂けた。
黒い翼が、光を切り裂いた。
魔王アシュレイ=ノクスが降り立ち、迷いなく彼女を抱いた。
私じゃない。
選ばれるはずの私じゃない。
神官たちの囁きが耳に刺さる。
「偽聖女が追放された」
「魔王が聖女を攫った」
「王太子は錯乱した」
偽? 追放? 攫った?
違う、違う違う。偽はあの女の方で、私は──私は「真」だ。
なのに噂の言葉がひとつずつ、私の足元の冷えを増やしていく。
あの女は、いつもそうだった。
前世でも──
オフィスの蛍光灯は、いつも無機質に白かった。
会議室の空気は乾いていて、皆、誰が得をするかだけを嗅いでいた。
彼女は地味だった。目立たない服、目立たない声。
でも資料は完璧で、数字は正確で、上司が欲しい根拠を黙って揃えてくる。
それが、心底むかついた。
努力をひけらかさない優等生。
褒められても控えめに笑う、卑怯ないい子。
──そういう子って、最後に全部持っていくのよ。
私は知っている。そういう物語を、何度も見てきた。
だから先に、潰した。
「ねえ、あなた、これお願い。今日中ね」
終業間際に山ほどの雑務を積む。
「会議の発表? 私がやるよ。あなた、人前苦手でしょ?」
笑って奪う。
「彼女って、要領悪いよね。頑張ってるのに可哀想」
同情を装って、周囲の評価を固める。
彼女は反論しない。できない。
その沈黙が、私の勝利だった。
ある日、彼女が小さく言った。
「……私の案、です」
震える声だった。勇気を振り絞ったのだろう。
だから私は、もっと優しく笑った。
「え、そうだっけ? でもさ、まとめたのは私だよね?」
上司は検証しない。
声の大きい方、愛想のいい方、評価される顔の方が勝つ。
「まあ結果出したし。いいじゃん」
肩を叩かれたのは、私。
彼女はただ資料を抱え、視線を落とす。
──ほら。そういう役割が似合ってる。
私は上。あなたは下。
最初から決まっていた。
──だからこの世界でも同じ。
私が聖女エレノラ。リディアは偽聖女として断罪される。
そういう筋書きだった。
なのに、魔王が原作通りに動かない。
原作でアシュレイ=ノクスは救われない。
攻略不可。サブキャラ。滅びるだけ。
私が唯一、胸を熱くしたのはその救われなさだった。
恋愛シミュレーションゲーム。
週末だけが私の呼吸だった。
選択肢を選べば、世界は私の言う通りに回る。
誰が愛され、誰が堕ちるかも、私の指先ひとつ。
なのに彼だけは選べない。
どれだけ好感度を上げても、手を伸ばしても、結末は滅び。
だからこそ、私は彼に執着した。
──選べないものを、選びたい。
その欲が、今、現実になって目の前で歪んでいる。
選べないはずの魔王が──あの女を選んだ。
私の胸の奥が、ぎぎぎ、と嫌な音を立てた。
嫉妬、じゃない。恋でもない。
ただ、私が中心じゃない未来が許せない。
神官長が頭を垂れる。
「聖女様。王都は動揺しております。民心のためにも、貴女の奇跡が必要です」
「ええ、当然よ」
口は完璧に微笑む。
でも心の中で、私は大聖堂の奥──人の立ち入らない禁書庫の扉を思い浮かべていた。
ここにあるはずだ。
原作に書かれない裏の手段。
筋書きを、正しい形に戻す方法。
石の回廊は冷たく湿っていた。香の匂いは薄れ、灯りは細い。
扉の鍵を開ける指が、ほんの少しだけ震える。
怖い? 違う。私は正しい。取り戻すだけ。
禁書庫の中は、夜の腹みたいに暗かった。
羊皮紙。掠れた文字。血のように黒いインク。
私は目当ての章を見つけ、ページを繰る。
『聖痕と契約』
『光輪の供給源』
『代価』
「……代価?」
喉が乾く。
でも、閉じられない。
奇跡はどこから生まれるか。
答えは簡単だった。
──誰かの命。誰かの運。誰かの未来。
そして、赤線で引かれた項目。
『禁じ手:擬似光輪』
本来の器ではない者が、聖女の権能を模倣する術。
選ばれない者が、選ばれたふりをするための──
私は、笑いそうになって止めた。
選ばれない者? 違う。私は選ばれている。これは保険。念のため。
だが次の行で、背中に冷たいものが走る。
『擬似光輪は不安定。光は奪えるが応えない。強制的な供給源を必要とする』
供給源。
命、だ。
心臓がどくん、と暗闇に鈍く響く。
怖い? 違う。知ってしまっただけ。
リディアが生きている。
魔王があの女を守る。
もし王都が本当の聖女を求め始めたら──私の居場所は壊れる。
──そんなの、いや。
私は本を閉じ、胸に抱いた。
禁じ手。まだ使わない。でも。
その瞬間、頭上の光輪が、ほんの少しだけ歪んだ。
まるで誰かに笑われたみたいに。
「……壊せばいい」
声が冷たく落ちる。
あの女が選ばれなくなるように。
魔王が原作通り滅びるように。
私の物語が、正しい場所へ戻るように。
──まだ。
でも、もうすぐ。
同じ頃。魔王城。
高い窓から差す光は、王都のそれより柔らかかった。
石壁は冷たいはずなのに、部屋の空気は不思議と温かい。
リディアは寝台の上で、指先を見つめていた。
前世の記憶がまだ夢の端に絡みつく。
スーツの肩。満員電車。上司の声。
そして、何もしていない顔で笑う女──私を踏んだ女。
──ここでも、私は踏み台?
その考えが嫌で、息が詰まる。
生き延びただけなのに、どうしてこんなに怖い。
扉がノックされる。
低い声が、部屋に落ちた。
「起きているか」
アシュレイ=ノクス。
魔王。
彼はいつも必要以上に近づかない。
触れられそうで触れられない距離を守る。
それが逆に、心臓を落ち着かなくさせた。
「……はい」
返事をすると、扉が少しだけ開き、影のように彼が入ってくる。
黒い外套。銀の髪。冷たい瞳。
けれど手にしているのは、小さな薬草の包みだった。
「眠れないなら。香を焚け」
「……どうして、そこまで」
声が震える。
保護? 監禁? まだ答えが出ない。
彼は包みをテーブルに置き、こちらを見ないまま言った。
「おまえは……自分を低く見過ぎる」
胸が、きゅっと縮む。
私は笑って誤魔化そうとした。
「だって私、選ばれなかったから。偽聖女って言われて、捨てられて……」
言いかけたところで、彼の気配が近づいた。
次の瞬間、指先が頬に触れるか触れないかの距離で止まる。
触れない。でも熱だけが伝わる。
その触れなさが、ずるいほど優しい。
そして──低い声が落ちる。
まるで、運命そのものを踏み折るみたいに。
「原作? 運命? そんなものより──
俺は、おまえを見ている」
息が止まった。
視界が滲む。胸が痛いほど温かい。
彼はそれ以上何も言わず、静かに距離を取った。
泣かせたことを後悔しているみたいに。
「……泣くな」
命令じゃない。祈りみたいな一言。
私は唇を噛み、必死に涙をこらえた。
こらえきれない分だけ、胸の奥が甘く疼く。
──物語じゃない。役割じゃない。
私を、見ている。
その夜、王都では誰も知らない場所で、光輪がもう一度歪んだ。
禁書庫の闇の中で、選ばれたはずの女がページの端を撫で、静かに笑う。
──まだ、試していない。でも、もうすぐ。
そして魔王城では、選ばれなかったはずの女が、初めて選ばれたと感じていた。
━━魔王アシュレイの独白━━
原作だの、運命だの。
くだらない。
彼女が処刑台に立っていた理由は、物語じゃない。
弱かったからでもない。
ただ、誰にも見られていなかっただけだ。
それを、見た。
俺は、それを見てしまった。
──だからだ。
原作を壊したのは。
彼女を拾ったのは。
筋書きに逆らったんじゃない。
目を逸らさなかっただけだ。
それが、こんなにも重いとはな。




