魔王城、甘い檻
目を開けた瞬間、まず静けさがあった。
断頭台のざわめきも、松明の爆ぜる音も、祈りの怒号も。嘘みたいに遠い。
白い天蓋。淡い金糸の刺繍。肌に触れるシーツは、きしむどころか、体温を受け止めて溶けるように馴染んだ。
甘い香りがする。花ではない。もっと静かな、蜜と紅茶の間みたいな匂い。
「……ここ、どこ……?」
声がかすれて、自分の喉が生きていることに気づく。
生きている。私は、死んでいない。
魔王が来た。
夜空が裂けて、あの人が落ちてきて、私を抱きとめた。
あの腕の強さと、耳元の低い声と、翼の風圧が、まだ皮膚の内側に残っている。
寝台から起き上がろうとして、すぐに眉をひそめた。
痛い。けれど、断頭台に立たされていた時の、凍るような痛みではない。これは、身体がちゃんと繋がっている証拠の痛みだ。
「……誰か、いるの?」
返事はない。
代わりに、扉の向こうから、足音が一つだけ近づいた。規則正しい。急がない。けれど、迷いもない。
扉が開く。
入ってきたのは侍女ではなく、黒い鎧に近い外套を纏った男だった。顔の半分は影に沈み、眼だけが、刃のように澄んでいる。
魔王。
アシュレイ=ノクス。
私は反射で身を引いた。
──怖い。そう思うより早く、胸が嫌に騒がしい。
「目が覚めたか」
声が、低い。
それだけで、空気が落ち着く。落ち着きすぎて、逆に怖い。
「……私、捕まってるの?」
「保護している」
言い方が淡々としていて、言い訳の余地がない。
保護。
つまり、自由がないということだ。
私は寝台の端を握りしめた。指先が白くなる。
転生してからずっと、私の身体は聖女という看板に縛られてきた。
そして昨日、処刑台で、私はそれすら奪われた。
──ここでまで、檻に入れられるの?
「……返して。私は王都に戻らなきゃ。私の──」
「戻る場所は、もうない」
刃みたいな言葉。
それなのに、彼は私を追い詰める距離で言わない。寝台から三歩分、きっちり離れた場所で立ち止まり、視線だけをこちらに向ける。
「あなたが……奪ったんでしょう」
「奪っていない」
短く、否定。
それから彼は一度だけ目を伏せ、ほんの少し息を吐いた。
「おまえの首は、刃に触れなかった。それが答えだ」
私は言葉を失う。
刃が落ちる瞬間、世界が裂けた。
確かに、私は死んでいない。それだけで、聖女の力がまだ私に残っていることになる。
──いや、違う。王国は聖女の力を利用していただけだ。私はその役割のためだけに召喚された。
「……ここ、魔王城よね」
「そう呼ばれている」
「じゃあ、私、監禁されてる?」
「好きに解釈しろ」
冷たい。
けれど、侮蔑がない。
それが、よけいに腹立たしい。
「解釈じゃなくて事実を言って。扉、開かないの?」
「開く」
「……え?」
拍子抜けするほど、あっさり。
私は疑って、寝台から降りた。足元の絨毯が柔らかい。床の冷たさがない。
部屋は広い。窓は高く、黒いカーテンが揺れている。机には筆記具。棚には本。花瓶には水と白い花。
──必要なものが、全部揃っている。
私は扉へ歩き、恐る恐る取っ手に触れた。
引く。
開いた。
「……開いた」
廊下の先に、さらに大きな扉。外気の匂い。
そして、見張りがいない。鎖も、鍵も、呪いの封印もない。
あるのは、静けさだけ。
「……罠?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
背後で、魔王が一歩だけ近づいた。
その足音が、心臓を叩く。
私は振り返れない。背中が熱くなる。
「おまえが逃げたいなら、逃げられるようにしてある」
「……優しいフリ?」
「効率の話だ。力づくで縛れば、心が壊れる。壊れた器は、戻らない」
──器。
その言葉は、私が王国で散々浴びせられてきた役割、と同じ響きなのに。
なぜだろう。彼の言葉は、私を道具扱いしているようで、していない。
私はゆっくり振り返った。
近い。
けれど、触れてこない。そこにいるだけ。触れないことで、逆に支配しているみたいだ。
「……私は、あなたに何をされるの?」
「何もしない」
「嘘」
そう言った瞬間、魔王は眉をわずかに動かした。
笑っていないのに、笑ったように見えた。
「疑うのは自由だ。──だから選べ」
「選べ?」
「王都へ戻るか。ここにいるか」
私は唇を噛んだ。
王都に戻る?
戻って何をする。私を裏切った王太子にすがる? 偽聖女に石を投げられる?
それでも、私は一人で生きてきた。そう思っていた。
──なのに。
「ここにいるって、つまり……あなたの城に、閉じ込められるってこと」
「閉じ込めない」
「じゃあ何?」
「保護だと言った」
同じ言葉を、もう一度。
その頑なさに、私の中の苛立ちが形を変える。
──怖い。
怖いのは、檻じゃない。
優しさの形をしたものを、受け取ってしまいそうな自分だ。
私は廊下へ一歩出た。
床は磨かれていて、窓から差す月光が細い線になって伸びている。
遠くで、水の音がする。噴水? 城の中なのに。
「……外、見たい」
「案内する」
彼はそう言って、先に歩き出した。
待て、という声もない。
付いてこい、という圧もない。
ただ、歩幅が私に合わせられている。
──これが支配なら、ずるい。
長い回廊を抜けると、テラスに出た。
夜風が頬を撫でる。王都のような血と香の混ざった匂いはない。
空は深い藍で、星が鋭い。
眼下に広がるのは、黒い森。
そして、その向こうに、小さな灯りが点々と見える。
人が住んでいる? 魔王城の周辺に?
「……村?」
「避難民だ」
私は言葉を失った。
魔王は滅ぼす存在だと、原作でも王国でも教えられていた。
なのに、彼の城の下で、人が生きている。
灯りがある。
火の温度がある。
「王都に居場所を失った者を、放っておけば死ぬ」
「……あなたが、助けてるの?」
「必要だからだ」
また、効率。
でも、その必要は、誰のため?
私は手すりに触れた。石が冷たい。
冷たいのに、胸の奥が熱い。
「私、逃げた方がいい?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
魔王は私を見ない。
夜の向こうを見たまま、静かに言った。
「逃げるなら止めない。だが──戻る場所は、ここだ」
胸が、きゅっと締まった。
ここだ、という言い方が命令じゃないのに、約束みたいに聞こえた。
「……戻るって、私が一度出て行っても?」
「出て行ける」
「……あなた、私を信じてるの?」
やっと、魔王が私を見た。
その目の中には、炎じゃなくて、夜があった。
深くて、触れたら溺れる夜。
「信じているのは──おまえが、おまえ自身を捨てないことだ」
その瞬間、心臓がその言葉に反応した。
私は聖女という役割を捨てた。捨てられた。
でも私は、私自身を捨てたくない。
その一番痛いところを、彼は短い一言で撫でた。
──ずるい。
「……私、まだ信じられない」
「それでいい」
魔王はそれ以上、踏み込まない。
触れない。
優しくしすぎない。
その距離が、甘い檻みたいに私を絡め取る。
──甘い檻って、こういうこと?
逃げられるのに、逃げない。
自分で選んで、鍵を閉める。
私は夜風に目を細めた。
涙が出そうなのを、飲み込む。
「……ねえ、アシュレイ」
名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。
反応した。ほんの少し。
「私がここにいる間、条件があるわ」
「言え」
「私を道具のように呼ばないで」
「……わかった」
たったそれだけ。
なのに、胸が熱くなる。
──怖い。
この男の言葉は、刃じゃない。
刃じゃないから、刺さったまま抜けない。
そのとき、遠くの空で、淡い光が一瞬揺れた。
オーロラみたいに、薄い裂け目のように。
魔王の瞳が、ほんの少しだけ険しくなる。
夜が、夜でなくなる前触れ。
「……何?」
「王都の光が、歪んでいる」
私の背筋が寒くなった。
偽聖女エレノラの光。あれは、奪ったものだ。
奪った光は、長く保たない。
でも王都はそれにすがりつき、奇跡だと叫ぶ。
魔王は私に向き直り、低く言った。
「眠れ。今夜は、何もさせない」
命令に聞こえるのに、守る宣言みたいだった。
私は、うまく笑えないまま頷いた。
檻は、甘い。
甘いほど、逃げられなくなる。
そして私は──
逃げられると知った夜に、初めて「ここに戻りたい」と思ってしまった。
彼女はまだ知らない。
この城に、鍵がかかっていない理由を。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。
兵も、命令も、拘束もない。
それでも足が止まるのは──自分が、選んでここにいると気づいてしまったからだ。
愚かだな、と自分でも思う。
触れたいと感じている相手に、あえて距離を取るなど。
だが、理性を失えば終わりだ。
力で縛るのは簡単だが、それは欲を満たすだけで、彼女を手に入れることにはならない。
欲しいのは身体じゃない。
逃げられると知った上で、それでも戻ってくるという選択だ。
だから今は、触れない。
触れたいと思っているからこそ。
━━魔王アシュレイの独白━━
逃げ道を用意するのは、簡単だ。
力も、命令も、恐怖もいらない。
扉を開けておけばいい。
鍵をかけなければいい。
それだけで、彼女は「選べる」。
──だが、それがどれほど残酷なことか、
俺は知っている。
選べなかった人生を、
選ばされ続けた人生を、
彼女はもう十分に生きてきた。
それでもなお、
ここに留まるかどうかを、
自分の意志で決めさせる。
……卑怯だな。
欲しいと思っているからこそ、
縛らない。
触れたいからこそ、触れない。
力で手に入れれば、それで終わりだ。
だが、それでは──
彼女は俺を「選ばない」。
逃げられると知ったうえで、
それでも戻ってくる。
その未来だけが、欲しい。
だから今夜は、何もしない。
何も奪わない。
ただ、
彼女が「自分で鍵を閉める瞬間」を、
待つだけだ。




