誰にも選ばれない未来
王都は、静かだった。
嵐の前の静けさ、ではない。嵐はもう通り過ぎ、屋根だけが残った家みたいに、音が抜け落ちている。
鐘は鳴らず、祈りも行われない。広場の聖女像は夜のうちに倒れていた。誰かが叩き壊したのではなく、根元から頽れた。信仰という土台が、先に崩れただけだ。
──選ばれるものの土台が、失われた。
「……なぜ、来ないのよ」
王都中央聖堂。
かつて奇跡の聖女が民を導いた祭壇の上で、白い衣の少女がひとり立っていた。純白はまだ白い。けれど、その白はもう、洗えば落ちる汚れを隠すための白だ。
偽聖女エレノラは、唇を噛んだ。
胸の奥が、じくじくと焦げる。
今日は大奇跡の日だ。
子どもも、病人も、貴族も、兵士も、聖堂に押し寄せている。成功例を見せれば、また皆は自分を見上げる。自分の言葉に泣いて、手を伸ばして、名前を呼んでくれる。
そのはずだった。
「……起きて。起きなさいよ」
祈りの言葉をなぞる。指先で空を掴む。いつもなら、そこに光が集まってきた。
誰かの願いを吸い上げ、誰かの命を削り、眩しく飾り立てられた奇跡として落ちてくる。
でも今日は、沈黙だった。
光が、応えない。
「どうして……」
喉が震え、声が裏返る。胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。
禁じ手は理解して使っていた。代償が「命」だと知っていた。周囲の誰かが薄くなっていくのも、見ないふりじゃない。理解した上で、踏んだ。
それでも構わなかった。
だって……。
「私が選ばれるはずだったから」
前世の蛍光灯が、まぶたの裏で白く瞬く。
誰よりも残業して、資料を整え、上司の機嫌を読み、同僚の穴を見つけては先に塞いだ。
努力した。そう、正しい、上に行く努力をした。
なのに昇進したのは、あの女、だった。
何もしていない顔で。いい人ぶった顔で。周囲に愛される顔で。
転生しても、同じ。
原作を知っている。イベントも分岐も結末も。選ばれる役は自分だと確信していた。
そう、断頭台でリディアが落ちた瞬間から──自分の勝ちは確定していたはずなのに。
魔王は、彼女を見た。
原作では滅びるだけのサブキャラが。
攻略不可の、誰にも選ばれない男が。
よりにもよって──あの女を。
「……壊せばよかった」
唇から、音が漏れる。
「選ばれなくなるように。光を奪えば。居場所をなくせば……」
やってきた。全部。
噂を流し、証言を潰し、祈りを独占し、奇跡を重ねた。代償の薄いところから、借りた。倒れた下女を偶然にし、眠った子どもを疲労にした。
なのに、どうして。
祭壇の下で、誰かが崩れた。
子どもだ。
小さな身体が、音もなく床に落ちる。母親の悲鳴が、聖堂の天井にぶつかって割れた。
今度こそ、偶然では済まない。
「違う……これは……っ」
縋るように手を伸ばす。光は来ない。
代わりに、足音が来た。
ゆっくりと、確実に。
聖堂の大扉が開く。冷たい風が流れ込み、蝋燭の火が一斉に揺れた。
黒い外套が、闇ごと入ってくる。
魔王アシュレイ=ノクス。
息を呑む音が、波のように広がった。誰かが祈りの形を忘れた手で胸元を掴む。兵士が槍を構えようとして、震えて落とす。
その背後に、ひとりの女がいた。
白ではない衣。
聖女の座を捨てた姿。
それが、何より腹立たしい。
「……どうして、あんたが」
偽聖女エレノラの声が掠れる。
「ここは、私の舞台よ。原作では、あなたは──」
「原作は終わった」
アシュレイの声は低く、淡々としていた。怒りも嘲りもない。ただ、事実を切り落とす刃だ。
「おまえが信じていた筋書きは、最初から誰も救わない」
リディアが、一歩前に出る。
偽聖女エレノラは、そこで初めて気づく。
あの女の目が、怯えていないことに。
勝ち誇ってもいないことに。
ただ、理解している目だ。
「あなたは、選ばれることに縋った」
喉が震える。否定したいのに、声が出ない。
選ばれるために、踏んできた。選ばれるために、笑ってきた。選ばれるために、泣くふりも覚えた。
「違う……私は……」
「私も、そうだった」
リディアの声は静かだった。
「選ばれると、救われるって思ってた。役があれば、生きていいって思ってた」
偽聖女エレノラは、ぎくりとする。
その言葉は、自分の胸を正確に刺した。
「でもね」
リディアが続ける。
「選ばれるために誰かを削り続ける物語は……もう、いらない」
その瞬間だった。
祭壇の上にあったはずの光が、すうっと引いた。
まるで、潮が引くみたいに。
偽聖女エレノラの頭上で揺れていた光輪が、ひび割れたガラスのように鳴った。
「……っ!」
身体に異変が走る。
禁じ手は借り物だ。
均衡を壊して引き出した力は、返済を求める。
皮膚に、ひび割れのような光の痕が走った。
それは輝きじゃない。裂け目だ。内側から、何かが出ていこうとしている。
「いや……いや、いや……!」
膝が崩れる。指先が冷え、視界が暗くなる。
「私は、知ってるのに……全部……知ってたのに……!」
原作知識。未来。選択肢。台詞の順番。
全部知っていたのに、自分だけが救われない。
偽聖女は、最後にリディアを見る。
「なんで……あんたは……何も、持ってないくせに……」
リディアは答えない。
代わりに、アシュレイが言う。
「持っていないからだ」
その声は、聖堂のどこより静かで、どこより確かだった。
「役も、座も、運命も。何も持たなかったから……彼女は、自分で選んだ」
次の瞬間、光が砕ける。
偽聖女エレノラの身体を包んでいた奇跡は、音もなく崩壊し、塵となった。
残ったのは、誰にも選ばれない、ただの人。
そして、それが何より残酷だった。
選ばれない人間は、舞台にすら立てない。
誰も膝をつかない。
誰も名前を呼ばない。
誰も責める気力すら、もう残っていない。
王都に、沈黙が落ちた。
嘲笑う声はどこにもなかった。
代わりに、泣き声があった。
子どもを抱きしめる母親の泣き声。
祈りに依存していた自分を恥じる人の嗚咽。
奇跡の裏で、誰かが消えていたことを思い出した者たちの、遅すぎる慟哭。
偽聖女は、その泣き声の中で、初めて理解する。
自分が欲しかったのは、聖女の座じゃない。
誰かの目だった。
誰かの「あなたを選ぶ」だった。
でも、もう遅い。
禁じ手は、選ばれるための道具じゃなかった。
選別の刃だったのだ。
光輪が砕けた床に、ひとつだけ残った欠片が転がる。
それは小さな鏡のように光り、映したのは──祭壇の上で取り残された自分の顔。
誰にも選ばれない顔。
偽聖女エレノラは、笑った。
泣くより先に、笑ってしまった。
それが最後の、みっともない癖だった。
夜。
魔王城の高塔。
窓の外の王都は暗い。けれど完全な闇ではない。人々が持ち寄った灯りが、点々と、弱く、でも確かに揺れている。
リディアは、窓辺に立っていた。
「……全部、終わりましたね」
ぽつり、と落とす声は、風に溶けた。
「私は、聖女じゃない。王都にも戻らない。世界から見たら、価値のない選択だったかもしれない」
背後に、アシュレイが立つ。
近い。けれど、いつもの癖で、触れない距離。
その距離が、今夜はやけに痛い。
「……でも」
リディアは振り返る。
「もし、世界が私を選ばなかったとしても──あなたは、後悔しませんか?」
アシュレイは、迷わなかった。
「世界を捨ててもいい」
一歩、近づく。
指先が、今度は逃げない距離に来る。
「おまえを失うよりは」
胸がきつく締めつけられる。
甘い。強引。けれど、命令じゃない。
選べ、と言われている。
リディアは笑った。
泣きそうで、でも笑った。
「……じゃあ、私は」
一歩、彼に近づく。
「選ばれない未来を、選びます」
その瞬間、アシュレイの手が迷いなく伸びた。
抱き寄せる。初めて、完全に。
壊さない距離じゃなく、壊れてもいい覚悟の距離で。
低い声が、耳元に落ちる。
「それでいい」
胸の奥が、熱くなる。
「誰にも選ばれない幸せは──俺が、守る」
派手な誓いよりも、王冠よりも、奇跡よりも。
「誰にも選ばれない」という言葉が、こんなに優しい檻になるなんて。
リディアは目を閉じた。
選ばれることは、奪われることだった。
期待されることは、削られることだった。
でも、選ばれないなら──奪われない場所がある。
それがここだ。
腕の中の温度が、現実を教えてくる。
魔王の鼓動は、世界の鐘より確かだった。
「アシュレイ」
「……なんだ」
「ねえ。私、明日もここにいていい?」
子どもみたいな問いだと思った。
でも、彼は笑わない。
代わりに、額に短い口づけを落とした。
触れるか触れないかで苦しんだ日々の答えみたいに、静かで、破壊的に甘い。
「いていい」
それだけで、涙が落ちた。
「選ばれなくてもいい。選ばれないからこそ──俺は、おまえを選べる」
リディアは、声にならない息を吐く。
世界は完璧じゃない。
王都は壊れたままだ。
けれど、壊れたからこそ、嘘の土台が消えた。
誰にも選ばれない未来で、
私たちは、今日を選べる。
抱きしめられたまま、リディアは小さく頷いた。
「……じゃあ、私も」
胸に顔を埋めて、囁く。
「あなたを選びます。世界じゃなくて。役じゃなくて。──あなたを」
アシュレイの腕が、ほんの少しだけ強くなる。
その強さは支配じゃない。
逃げ道を残したまま、帰る場所だけを増やす強さだ。
窓の外で、遠い灯りが一つ、また一つ、増えていった。
奇跡の光ではない。
誰かが自分の手で点けた灯り。
選ばれない世界は、案外、温かい。
そして、選ばれないからこそ──
誰にも奪われない、たった一つの場所がここにある。
エピローグ『魔王の独白、聖女の眠り』
夜は、静かだった。
城の高塔の窓から見えるのは、
もう王都の灯りではない。
奇跡に縋る光も、祈りに酔った炎もない。
ただ、人の営みの、弱く、確かな明かりが、遠くで点いている。
それを背に、彼女は眠っていた。
白い寝台の上で、深く、穏やかに。
聖女の眠りではない。
世界のための眠りでもない。
ただの──
人としての、休息だ。
俺は、その傍らに立っている。
触れない距離で。
だが、離れすぎない距離で。
力を手放した身体は、まだ、この世界に馴染みきれていない。
だが、それでも。
生きている。
それだけで、十分だ。
俺は、魔王だ。
世界から忌み嫌われ、原作では、滅びるだけの存在。
誰にも選ばれず、誰の未来にも残らない役。
──そのはずだった。
だが、彼女は、俺を見た。
処刑台の上で。
世界が彼女を切り捨てた瞬間に。
あの目は、恐怖ではなかった。
諦めでもない。
「……生きたい」
そう言っていた。
声ではなく──ただ、存在そのもので。
選ばれたい、とも。
救われたい、とも。
ただ──生きたい、と。
その願いに、俺は、逆らえなかった。
原作?
運命?
そんなものは、彼女を救う理由にならない。
だが、選んでしまった理由にはなった。
俺は、彼女を選んだ。
世界が、彼女を不要だと言った時。
聖女の座が、彼女を縛ろうとした時。
俺は、奪った。
奪って、逃げた。
魔王らしい選択だ。
後悔はない。
たとえ、世界が滅びようと、奇跡が消えようと。
あの光よりも、彼女の呼吸の方が、重い。
──だが。
それでも、恐れることはある。
眠る彼女の額に、そっと、影が落ちる。
もしも、いつか。
彼女が目覚めて、「選ばれなかった自分」を耐えきれなくなったら。
もし、あの世界を思い出して、後悔したら。
その時、俺は、何を差し出せる?
魔王の力か。城か。世界か。……いや。
違う。
彼女が欲しかったのは、そんなものじゃない。
ただ、「ここにいていい」と言われる場所だ。
だから俺は、何も与えない。
選択肢も、役割も、使命も。
ただ、居場所だけを、残す。
「……起きたら」
小さく、独り言を落とす。
「朝飯は、パンがいいと言っていたな」
彼女は、よくそんなことを言う。
奇跡も、運命も、関係ない話題。
それが、何よりも、嬉しかった。
世界を救う聖女ではなく。
誰かに必要とされる存在でもなく。
ただの──
一緒に朝を迎える人間として。
寝台の脇に、椅子を引く。
座り、目を閉じる。
眠る彼女の夢に、俺が出てくる必要はない。
それでもいい。
選ばれない未来は、孤独じゃない。
少なくとも、ここでは。
夜は、まだ続く。
だが、夜明けは、必ず来る。
誰にも選ばれない世界で、俺たちは、今日も、目を覚ます。
それでいい。
それだけでいい。
──それが、俺が選んだ、唯一の未来だ。




